シルクロード横断 2006年(2)

アジアの十字路「カシュガル」

 カシュガルでは「新隆大酒店」に連泊し、町を歩いた。迷路のような旧市街を歩きまわったが、そこはウイグル族の世界。旧市街では漢族の姿はまず見かけない。小道を行く女性たちはチャドルで顔を覆っている。バザール(市場)では、さまざまな店をのぞいた。

 ここでは鍛冶屋が健在。熱く焼けた鉄をたたき、刃物をつくっている。駄菓子屋では子供たちが木のいすに座り、くいいるようにテレビを見ている。乾物屋の店先には米や雑穀、豆などの入った袋がズラズラッと並んでいる。パックされたものを売るのではなく、すべてが計り売り。ナン屋では小麦粉をこね、形づくり、かまどで焼いている。焼きたてのナンはほんとうにうまい。帽子屋ではウイグル族のかぶる色とりどりの帽子を並べて売っている。その前では店の主人が帽子をつくっている。毛皮屋ではオオカミの灰色がかった毛皮を売っていた。

 カシュガルはまさにアジアの十字路。ここはシルクロードの天山南路と西域南道の合流点であり、北に連なる天山山脈を越えてキルギスへ、西に連なるパミール高原を越えてタジキスタンへ、南に連なるカラコルム山脈を越えてパキスタンへと、山の向こうの世界に通じている。それがカシュガルの大きな魅力だ。

 我々はカシュガルから北へ、トルガルト峠を越えてキルギスへと向かっていくのだが、その前にパキスタン国境のクンジェラブ峠に通じる道を南下し、7000メートル峰を間近に見られるというカラクリ湖まで行ってみる。

 メンバーの斉藤孝昭さん、石井敬さんと一緒にタクシーをチャーターし、パミール高原のカラクリ湖まで行くことにした。以前、行ったことのある斉藤さんから、そのすばらしさを聞かされてのタクシーツアーだ。

 タクシーはパキスタン国境のクンジェラブ峠へとつづく2車線のハイウエイを100キロ以上の速度で突っ走る。タリム川の上流、カシュガル川を渡ると、砂漠地帯に突入。前方にはパミール高原の山並みが見えてくる。「世界の屋根」といわれるパミール高原。この一大山塊を中心にして北には天山山脈、南にはカラコルム山脈、さらにはヒンズークッシュ山脈と世界の大山脈が連なる。

 谷間に入るとヤルカンド川沿いの道になる。岩山の間を縫って流れるヤルカンド川の川面は朝日を浴びてピンク色に輝く。道は谷間に入っても2車線の舗装路。ついひと昔前までは悪路で知られたクンジェラブ峠への道は大きく様変わりした。ところどころで小さな集落をみかける。牧畜民のパオも見る。谷間の草地ではヤクが放牧されている。

 カシュガルを出てから3時間ほどで前方に雪山が見えてきた。標高7719メートルのゴングール峰だ。谷間を抜け出るとパミール高原の神秘の湖、カラクリ湖が目の中に飛び込んでくる。なんという光景。カラクリ湖の北側にはゴングール山塊の雪の峰々が連なり、その影が湖面に映っている。反対側の南側には標高7546メートルのムスターグアタ山。大きなどっしりとした雪山だ。カラクリ湖畔から眺めるパミール高原の7000メートル級の雪山の姿は目の底に焼きついた。

 2006年9月14日10時、カシュガルを出発。60キロほど走った地点に中国側の国境事務所がある。そこで出国手続き。パスポートチェックは簡単に終わったが、バイクの手続きは長引いた。すべての手続きが終わり、国境事務所を出発したのは3時間後。とはいってもキルギス国境のトルガルト峠まではまだ100キロ以上の距離がある。

 舗装路は途切れ、ダートに突入。そんなダートをモウモウと土煙を巻き上げて中国と中央アジアの国々を結ぶ大型トラックが走っている。大型トラックを追い抜くときが大変。前方はまったく見えない。不用意にその土煙のカーテンの中に飛び込み、万が一、対向車がやってきたらもう一巻のおしまいだ。逃げようがない。わずかに土煙が途切れた瞬間に前方を確認し、一気に大型トラックを抜き去っていく。

 18時、カシュガルから172キロ地点のトルガルト峠に到達。標高3752メートルの峠だ。ここで天津港からずっと我々をサポートしてくれた達坂城旅行社の宋社長、通訳の蕃さんと別れた。1ヵ月近くも一緒だったので辛い別れになった。

草原の国「キルギス」

 国境を越えたところでは、キルギス側のスタッフが我々を待ち構えてくれていた。すべて「道祖神」の手配によるものだが、いつものことながら、このあたりの「道祖神」のネットワークのすごさに驚かされる。アジア大陸最奥の地といっていいトルガルト峠まで、サポート隊が出迎えてくれているのだ。

 トルガルト峠を下ったところがキルギス側の国境事務所。出入国を待つ荷物満載の大型トラックが長い列をつくっている。入国手続きが終わったのは日が暮れてから。ナイトランでナリンの町に向かって走り出す。

 ナリンまでは200キロ近いダートがつづく。なんともきついナイトランで、夜道を走る農業用トラクターがまったく見えず、あやうく激突しそうになった。そんな危機一髪を乗り越え、ナリンの町に到着したのは2時15分。中国とキルギスの間には2時間の時差があるのでキルギス時間では24時15分。真夜中の夕食を食べると、ベッドに倒れ込み、死んだように眠った。

 9月15日10時、ナリンを出発。天山山脈のドーロン峠に向かっていく。街道沿いには馬乳酒を売る露店が並んでいた。我ら「シルクロード軍団」はバイクを停めると酸味の強い馬乳酒を飲んだ。馬乳酒はモンゴルを思わせる味。「草原の国」キルギスと、同じく「草原の国」モンゴルはよく似ている。

 ドーロン峠を登っていくと気温は下がり、バイクに乗っていると寒いくらいだ。やがて雨が降ってくる。タクラマカン砂漠では晴天つづきだったので、久しぶりの雨。峠道はダートで雨に濡れてツルツル滑る。周辺の山々は雪をかぶっている。ゆるく大きくカーブする峠道を登りつめ、標高3038メートルのドーロン峠に到達。気温はさらに下がり、身震いするほどの寒さ。冷たい風が峠を吹き抜けていく。

 ドーロン峠を下ったコシュコルの町で昼食。ナンとスープ、サラダ。スープにはライスが入っている。果物が山盛りになってテーブルにのせられている。天山山脈の雪をかぶった4000メートル級の山々を眺めながらの昼食だ。

 ここからは琵琶湖の9倍もあるような大湖のイシククル湖の湖岸を行く。標高1610メートルの高地に位置するイシククル湖は、大湖としては南米のチチカカ湖に次ぐ第2位の高所の湖。透明度も大湖としてはシベリアのバイカル湖に次いで第2位。「クル」はキルギス語で「湖」を意味するという。

 キルギスの首都ビシュケクから、中央アジア2ヵ国目のカザフスタンに入った。

 天山山脈北麓の道を行く。一直線の舗装路。左手には天山山脈の山並みがはてしなくつづき、山麓はビート畑になっている。右手にはカザフスタンの大平原が際限なく広がり、広大な牧草地になっている。DR−Z400Sを走らせながら見る左右の風景のあまりの違いには、ただただ驚かされてしまう。片や大山脈、片や大平原!

 天山山脈と大平原を左右に見ながら走りつづけ、タラズに着いた。ビシュケクから285キロ。ここはシルクロードの要衝の地。751年の唐軍とアラブ軍が戦った「タラスの戦い」の舞台だ。

 タラズでは「ジャンヒル ホテル」に泊まった。ホテル近くのレストランで夕食。それがまさに東西の接点を感じさせるものだった。まずは羊肉とジャガイモのスープの「ショルボ」を飲む。ボルシチ風スープの上にはロシア人の大好きな香辛料のウイキョウが浮いている。この「ショルボ」という名前はアラブのスープの「ショルバ」からきている。次に水餃子の「マントウ」を食べた。これにもウイキョウがのっている。「マントウ」というのは中国の「饅頭」からきているが、餃子をも「マントウ」といっているのが興味深かった。そしてテーブルのわきで焼いている「カバブー」を食べた。羊肉の串焼きでこれは西アジアの食べ物。そんな夕食を食べていると、「自分は今、シルクロードの真っ只中にいる!」という気分になる。中央アジアはまさに東アジアと西アジアの文化が激突する「アジアの十字路」なのだ。

 タラズから中央アジア3ヵ国目のウズベキスタンに向かった。いくつかの峠を越え、最後の峠で小休止。あまりの寒さに我慢できず、峠のカフェに飛び込み、ストーブにあたりながらコーヒーを飲んだ。ハンドルを握る手は感覚がなくなるくらいに冷たい。

 この峠を越えると寒さから解放され、天山山脈は遠のいていった。それは中国の新疆ウイグル自治区に入って以来、ずっと見つづけてきた天山山脈との別れでもあった。天山山脈は中国だけではなく中央アジアの国々にまで延び、最後はカザフスタンの平原に呑み込まれるようにして果てる。東西2000キロの大山脈だ。

  • カシュガルからカラクリ湖へ
    カシュガルからカラクリ湖へ
人々が出会う町「サマルカンド」

 ウズベキスタンの首都タシケントに到着。さすが中央アジアの大都市だけあってトラム(市電)が走り、地下鉄が通っている。タシケントの地下鉄は中央アジアでは唯一のもの。人口は200万人を超える。「シルクロード」から受ける印象とはほど遠い近代的な都市だが、オアシス都市としての歴史は長く、2000年も前に、すでに「チャチ」という名前で記録に現れている。中央アジアで有数の歴史の古い都市。「タシケント(石の町)」と呼ばれるようになったのは11世紀ごろからだという。

 9月19日9時、タシケントを出発。シルクロードの要衝の地、サマルカンドへ。サマルカンドに近づくと、パトカーが我々を待ち構えていた。パトカーの先導でサマルカンドの町に入っていく。「サマルカンド」といえば、「シルクロード」ファンにはたまらない言葉の響き。ぼくもどれだけ「サマルカンド」には心を躍らせたことか。

 人口50万人ほどのサマルカンドは、ウズベキスタン第2の都市。中央アジアでは最も古い都市として知られ、起源前6世紀にはすでに存在していたという。14世紀から15世紀にかけてはチムール帝国の首都として栄えた。「サマル」は「人々が出会う」、「カンド」は「町」を意味するという。いかにもシルクロードの要衝の地らしい名前だ。

 まずはサマルカンドの中心地、レギスタン広場に行く。ここにはチムール帝国時代の3つの建物がある。3つともかつての神学校のメドレセだ。広場西側の「ウルグベグ・メドレセ」は1420年に建てられた神学校。広場では最も古い建物。入口のアーチには建造者ウルグベグの好みが反映され、青い星をモチーフにしたタイル模様が描かれている。広場をはさんで反対側には「シェルドル・メドレセ」、広場の正面には「ティラカリ・メドレセ」がある。

 次にビビハニム・モスクに行く。ここはティムール帝国時代につくられた中央アジア最大のモスク。巨大なドームのモザイクが色鮮やかだ。

 最後にグリ・アミール廟に行く。「グリ・アミール」とは「支配者の墓」の意味だという。ここはティムール帝国をつくったティムール(1336〜1405年)や彼の息子たちの霊廟。ティムール帝国は最盛期には東はインドのデリーから、西はトルコのイスタンブール、北はキプチャク草原、南はペルシャ湾岸までを支配した。そんな大帝国が、ティムールの死後、あっというまに分裂してしまう。

 そのあとは市場(バザール)を歩いた。野菜売場では香菜とウイキョウが目についた。香辛料売場では多種多様な香辛料がズラリと並んでいる。米売場では計り売りだ。果物売場ではザクロが山積みにされていた。スイカ売場もある。ナン屋もある。歩いてまわったサマルカンドは心に残った。

 9月21日、サマルカンドを出発。ブハラから中央アジア4ヵ国目のトルクメニスタンに入った。アムダリア川を渡り、カラクム砂漠を越え、首都のアシガバードに到着。前方にはイラン国境のコペトダク山脈の山並みが見えている。

 我々が泊まったのは中心街の「ニサホテル」。プールつきの高層ホテルで、さっそく水着に着替えて泳いだ。泳ぎ疲れたあとはホテルの部屋から夕日を眺めた。夕日はやがてコペトダク山脈の向こうに落ちていく。

 夕食は高層ビルの展望レストランで。スープの「グーラッシュ」のあと、サラダ、ライスつきの魚料理と肉料理を食べる。食事しながら眺める夜景はまばゆいばかり。世界でも有数の天然ガスが埋蔵されているトルクメニスタンは資源景気に沸いていた。

  • ウズベキスタンの首都タシケント
    ウズベキスタンの首都タシケント