シルクロード横断 2006年(1)

 道祖神の「賀曽利隆と走る!」シリーズの第12弾目は「シルクロード横断」。2006年8月16日、東京を出発し、我々は神戸港から各自のバイクともども中国船の「燕京号」に乗り込んだ。カソリのバイクはスズキのDRZ−400Sだ。天津港に着くとシルクロードの玄関口の西安へ。そこから我ら「シルクロード軍団」はイスタンブールを目指し、西へ西へと走っていく。

 天山山脈南麓の天山南路からタクラマカン砂漠を縦断し、崑崙山脈北麓のニヤへ。ニヤからは西域南道でホータン、ヤルカンドと通り、中国西端の町カシュガルを目指した。まずは中国編の「西安→カシュガル」をお伝えしよう。
 

万里の長城が砂漠の中に消えていく

 8月28日、西安を出発。我ら「シルクロード軍団」は「目指せ、イスタンブール!」の掛け声とともに、全員で「エイエイオ−」と気合を入れた。

 西安は大都市なので、うまくこの町を走り抜けられるかどうかが大きな問題。中国人スタッフの乗った車が先に走り、その後ろに15台のバイクがつづく。カソリが先頭を走り、右折時や左折時にはカソリの次のバイクがその地点で止まって後続車に指示を出す。一番後に「道祖神」のサポートカーがついた。それには道祖神の菊地さんとメカニックの小島さんが乗っている。トラブルもなく西安の郊外まで来られたときはホッとした。まずは最初の難関突破。

 シルクロードの起点碑でバイクを停め、ラクダの隊商をモチーフにした石造りのモニュメントを見る。先頭のラクダをひく人物像がメンバーの1人の斉藤孝昭さんによく似ているといって、「ほんとだ、ほんとだ!」と驚きの声。そんなシルクロードのモニュメントを後にすると、ほんとうの西安出発となった。

 平涼で一晩泊まり、六盤山脈を越えると、白い帽子をかぶったイスラム教徒を多く見かけるようになる。イスラムの世界に入ったのだ。これからトルコのイスタンブールまでは、途切れることのない広大なイスラムの世界になる。

 甘肅省の省都、蘭州では「阿波夢大酒店」に泊まり、目の前を流れる世界の大河、黄河の船旅を楽しんだ。蘭州の黄河は黄土色ではなく真っ赤な流れ。「黄河」ではなく「紅河」だった。

 蘭州から嘉峪関までの河西回廊を行く。その途中では、シルクロードのすぐわきに残る漢代の崩れかかった「万里の長城」を見た。

 嘉峪関では万里の長城を守る砦を見学。砦というよりも城といったほうがいい。外側と内側、二重の城壁がある。東門と西門の2つの城門。日本の城の天守閣を思わせる三層の城楼もある。この城は明の時代、1372年に建てられたという。嘉峪関の城壁上はかなりの幅の通路になっている。そこからの眺めは目に残った。万里の長城はさらに西へと延び、砂漠の中に消えていく。

 敦煌では千仏洞の「莫高窟」を見学。敦煌の歴史は366年、修行僧が旅の途中、金色に光り輝く岸壁を見たことに始まる。修行僧はそこに仏の世界を見たという。そして石窟を堀り、修行の場とした。それ以来、1000年にわたって石窟は堀りつづけられ、その数は492窟を数える。

 そのうち695年に彫られたという36メートルという莫高窟最大の大仏のある96窟と、唐代につくられた26メートルの大仏のある130窟、15メートルの涅槃仏のある158窟、さらには無数の壁画のある石窟、阿修羅像のある石窟、釈迦像と多宝仏のある石窟などを見てまわった。それらの石窟からは1000年のシルクロードにかかわる諸民族の歴史を垣間見ることができた。

 敦煌を出発し、新疆ウイグル自治区に入ると、天山山脈が見えてくる。「おー、天山だ!」と思わず声が出る。

 ハミ瓜で知られるハミを過ぎたところでは「火焔山」へ。その名前からは燃えたぎるような真っ赤な山肌を連想していたが、思ったほど赤くはなく、どちらかというと灰色がかった赤だ。『西遊記』の孫悟空が鉄扇公主から芭蕉扇を借りて火を消そうとしたのが「火焔山」。我々は国道を離れてダートを走り、一気に火焔山を登った。フカフカの土。見晴らしのいい高台でバイクを停め、火焔山をバックに記念撮影だ。

  • 神戸港で中国船の燕京号に乗船
    神戸港で中国船の燕京号に乗船
タクラマカン砂漠縦断

 シルクロードの要衝、トルファン、コルラを通り過ぎていく。トルファンでは天山北路と天山南路が分岐する。コルラでは天山南路と西域南道が分岐する。

 コルラから170キロ走ると倫台に到着。天山山脈南麓の倫台は、きわめて重要な地点。ここでシルクロードの天山南路とタクラマカン砂漠縦断の「沙漠公路」が分岐する。天山南路をそのまま行けば、天山山脈南麓のオアシス、クチャ、アクスを通って中国西端のカシュガルへ。カシュガルへの最短ルートだ。

 しかし我々は倫台で砂漠公路に入り、タクラマカン砂漠を縦断し、ニヤの近くで崑崙山脈北麓の「西域南道」に合流、そこからホータン、ヤルカンドを通ってカシュガルに向かった。

 1994年の「タクラマカン砂漠一周」では、ほんとうは「タクラマカン砂漠縦断」を目指した。天山山脈南麓のアクスを出発し、崑崙山脈から流れてくるホータン川沿いのルートを南下し、崑崙山脈北麓のホータンをゴールにする予定だった。ところが崑崙山脈に降った記録的な大雨でホータン川が氾濫し、何百キロも下流のアクス周辺の湿地帯が一面水びたしになった。結局、ホータン川沿いのルートには入っていけず「タクラマカン砂漠縦断」を断念し、「タクラマカン砂漠一周」に変更した。

 それだけに今回の「倫台→ニヤ」(ニヤの中国語名は民豊)の「タクラマカン砂漠縦断」は、ぼくにとっては12年ぶりの夢の実現ということになる。

 タクラマカン砂漠の入口には「塔里木(タリム)沙漠公路」のゲートがあり、「沙漠公路」完成の記念碑が建っている。我ら「シルクロード軍団」はその碑の前にバイクを停め、全員で記念撮影。これから入っていくタクラマカン砂漠への思いをあらたにした。

 タクラマカン砂漠はタリム盆地の大半を占める大砂漠。タリム盆地は東西1500キロ、南北600キロの楕円形をした大盆地で、北に天山山脈、南には崑崙山脈の山々が連なっている。西側は「世界の屋根」のパミール高原。タリム盆地の北側をタリム川が流れ、灌漑により、オアシス周辺では綿花や小麦、トウモロコシなどがつくられている。

 タクラマカン砂漠の中には沙漠公路の2車線のハイウエーが延びている。タクラマカン砂漠の石油開発を一番の目的として、中国が総力を挙げて1990年代の前半に完成させた。

 倫台から86キロ走ると、塔河の町に着く。最後の町だ。ここで給油。塔河から2キロほど走ると、川幅いっぱいに流れるタリム川を渡った。豊かな水量。タリム川は世界でも最大級の内陸河川で全長2179キロ。カラコルム山脈から流れてくるヤルカンド川、崑崙山脈から流れてくるホータン川、パミール高原から流れてくるカシュガル川、天山山脈から流れてくるアクス川が天山山脈南麓のアクスの近くで合流してタリム川になる。4本の大河が合流してタリム川になる地点の水量が一番多い。

 タリム川を渡ると一望千里の大砂漠がはてしなく広がり、大砂丘が延々とつづく。その中にひと筋の舗装路が延びている。バイクを路肩に停めて小休止した時は、歩いて砂丘に登り、砂丘のてっぺんから大砂丘群を眺めた。

 まだ十分に明るい20時に、タクラマカン砂漠のど真ん中にある塔中に着いた。倫台から348キロ。ここには簡易宿泊所がある。食堂やガソリンスタンドもある。開拓最前線を思わせるような塔中。タクラマカン砂漠に日が沈むと、大きな月が昇った。この夜は満月。夕食を食べると、タクラマカン砂漠の砂丘に登った。まさに「月の砂漠」だった。

 タクラマカン砂漠を縦断し、ニヤに出ると、シルクロードの西域南道のホータンへ。懐かしの「和田賓館」に泊った。翌朝はまだ暗いホータンの町を歩いた。明かりがついているのはナン屋。すでにナンを焼きはじめ、焼きたてのナンを売っていた。

「和田賓館」に戻ると朝食を食べ、9時出発。「西域南道」を西へ。一路、カシュガルを目指した。

 ホータンから260キロ走ると、カルグリックに到着する。中国名だと叶城(イエチェン)。この町の手前がチベット横断路の「西蔵公路」との分岐点。そこには直進が「叶城」、左折が「阿里」の道標がある。阿里は西チベットの地域名。そこまでは1000キロ、崑崙山脈の5000メートル級の峠を越えていく。

 1999年、チベットのラサを出発点にし、中国製の125ccバイクで聖山カイラスまでの往復2600キロを走った。その間では4000メートル級の峠を20以上越えた。一番高い峠は標高5260メートルのマユム峠だった。カイラスからそのまま西に向かって走れば、ここカルグリックに下ってくる。

 カルグリックの町中の食堂で昼食。ここでは羊肉入りのピラフを食べた。ピラフといえば西アジア。それがシルクロード経由で中央アジアへと伝わった。ここでは「ピラウ」といっている。食べ物を通して中央アジアを見るとおもしろい。東アジアの饅頭と麺、飯と西アジアのナンとピラフが中央アジアでぶつかりあい、混じり合っている。中央アジアはまさに「アジアの十字路」なのである。

 ホータンから333キロ走り、16時にヤルカンドに到着。一大オアシス群の中心となる町だ。ここまで来ると、中国西端の町カシュガルは近い。

 ヤルカンドはウイグル語名。中国名だと莎車になる。目抜き通りの「徳隆賓館」が我々の宿。部屋に荷物を置くとすぐさま町に飛び出し、プラプラ歩いた。携帯電話の店は黒山の人だかり。10余年前の「タクラマカン砂漠一周」のときには想像もつかない光景だ。 町を歩いたところでタクシーをチャーターし、さきほど渡ったヤルカンド川まで行ってみる。ポプラ並木を走り抜け、豊かな農地を走り抜けたところにヤルカンド川は流れている。タリム川上流の河川の中でも一番の大河。世界第2の高峰、K2から流れてくる。

「ヤルカンド川大橋」(莎車河大橋)を渡るとタクシーを停めて堤防上を歩いた。これだけの川幅、これだけの水量の大河が最後はタクラマカン砂漠の砂の中に消えてしまう…。頭ではわかっていても、「何で、何で」と思ってしまう。なんとも不思議な気分でヤルカンド川の流れを眺めるのだった。

 ヤルカンドの町に戻ると、夜市を歩いた。我々は食堂前の歩道にテーブルを並べ、そこで夕食にする。みなさん、ヤルカンドの夜では気合が入り、ガンガンとビールを飲み干す。あっというまに空ビンがズラズラッと並んでいく。ホテルへの帰り道では足元がおぼつかなくって抱きかかえられるようなメンバーもいた。忘れられないヤルカンドの夜!

 翌9月12日、中国西端の町、カシュガルに到着した。町の中心のエイティガール広場で記念撮影。1798年に創建されたというイスラム教のエイティガール寺院前の広場には、中国各地や外国からの観光客が大勢やってくる。観光客をのせるラクダもいる。物売りも多い。そんな中での記念撮影。中国人スタッフのみなさんが用意してくれた「熱烈歓迎」の横断幕は目を引いた。

 町のレストランで昼食。麺を食べた。日本のうどんのように汁の中に入れて食べるのではなく、ゆであげた麺を炒めた肉や野菜などの具と一緒に食べる。このような麺が一般的。シルクロードの起点、西安を出発してから毎日のように麺を食べつづけてきたが、中国最後の町、カシュガルで麺を食べたことによって、あらためて「麺ロード」のシルクロードを強く実感するのだった。

  • 海面下のトルファン盆地
    海面下のトルファン盆地