キャニング・ストックルート 2001年(1)
カソリ&カザマの夢物語
バイクでの北極点、南極点到達という偉業を成しとげた風間深志さんと、甲州から信州にかけての林道を走ったのは、カソリ27歳、カザマ24歳の時のことだった。
当時、風間さんは『月刊オートバイ』(モーターマガジン社)の編集部員で、カソリは『月刊オートバイ』誌で「峠越え」の連載をさせてもらっていた。
「カソリさんがどんな風に峠越えをしているのか、見てみたいんだよ」
という風間さんの要望で、同行取材ということになった。
季節は晩秋。甲州から信州に抜ける峰越林道(川上牧丘林道)の大弛峠を越えた。
林道には雪が積もっていたが、そこでステーン、ステーンと転倒するシーンを風間さんに撮られた。
その夜は甲州の山間の温泉、増富温泉に泊まった。湯上がりのビールを飲みながらおおいに語り合い、話のボルテージはどんどんと上がっていく。
そして…。
「バイクで(アフリカ大陸最高峰の)キリマンジャロに登ろう!」
ということになった。
それから5年後の1980年、我々は甲州の温泉宿での夢物語をついに実現させた。
「忠さん」こと鈴木忠男さんを巻き込んで「チーム・キリマンジャロ」を結成し、3台のホンダXR200でキリマンジャロに挑戦したのだ。
風間さんはキリマンジャロと引き換えに、モーターマガジン社を辞めなくてはならなかった。
夢は形にとなり、キャニング・ストックルートに続く
「キリマンジャロ挑戦」では残念ながら頂上は極められなかったが、それが引き金になって、カソリ&カザマは「チーム・ホライゾン(地平線)」を結成。2台のスズキDR500で1982年の第4回「パリ・ダカール・ラリー」に参戦した。日本人ライダーとしては初めての参戦だ。
カソリは大会9日目、あともう少しでサハラ砂漠を抜け出るという地点で夜間、4輪と競っているときに100キロ以上の速度のまま、ノーブレーキで立木に激突。レスキューのジェット機でフランスのパリの病院に運ばれた。一人になった風間さんはサポートのまったくないまま完走し、堂々、総合18位という成績を収めた。
「パリ・ダカール・ラリー」では九死に一生を得たカソリだったが、事故から8ヵ月後にはまたバイクに乗れるようになった。
そのうれしさをバネにして、さっそく風間さんとの第3弾目のアドベンチャー計画をつくりあげた。それが「キャニング・ストックルート走破計画」だった。
オーストラリア西部の「キャニング・ストックルート」は、世界最長ダートとして知られている。ぼくは1973年から74年にかけて世界の6大陸を駆けめぐったが、その途中、オーストラリアではヒッチハイクとバイクで大陸を2周した。そのときに「キャニング・ストックルート」の存在を初めて知った。
全長1800キロ、その間では全部で1000本近い砂丘列を越えるという。途中には町も村もないので、水や食料、ガソリンなどすべてを持って走らなくてはならない。それを聞いたとき、自分の心の中にひそむ冒険心がメラメラと燃え上がり、「いつの日か、きっとやってやる!」と思ったものだ。
カソリ&カザマの「キャニング・ストックルート走破計画」は1983年6月の実現を目指した。
ところが我々のこの計画にテレビがからむようになってからというもの、急におかしくなった。そして後味の悪さを残して、我々の「キャニング・ストックルート計画」はポシャてしまったのだ。