第3回目(3)2011年9月11日 – 14日
津波のメカニズムは不思議だらけ
石巻の市街地には国道45号で入っていった。東松島市の矢本からは街つづきのようなところだ。国道沿いの石巻の新市街は大津波の影響をそれほど受けなかったこともあって、それなりの賑わいを取り戻している。国道45号から国道398号に入っても、国道沿いの町並みは以前と変らないように見える。ところが石巻駅前を過ぎ、旧市街に入っていくと、大震災2ヵ月後に来たときとほとんど変らないような惨状がそのまま残り、復興からはほど遠い状況。というよりも旧市街はうち捨てられてしまうのではないか…という印象すら持った。
旧北上川の河畔に出たところで折り返し、三陸道の石巻港IC近くまで戻る。そこからは海岸線の道を行く。おびただしい数の車の残骸は取り除かれ、壊滅的な被害を受けた海岸一帯の瓦礫もとり除かれていた。
ここで驚かされたのは、日本製紙の石巻工場だ。大震災2ヵ月後に見たときは、「もう操業の再開は不可能ではないか…」と思わせるほど大きな被害を受けていた。それが何と6ヵ月後には操業を再開しているではないか。
「おめでとう、日本製紙!」
と、日本でも最大級の製紙工場、日本製紙の石巻工場に向かって拍手を送った。
ところが旧北上川にかかる日和大橋を渡り、石巻漁港に入っていくと、復興の遅れを目の当たりにする。倒壊した水産工場の大半はそのままで、あたりに魚の腐ったような強烈な臭気を発散しつづけている。瓦礫も取り除かれていないところが多い。魚市場の周辺は地盤低下で水びたし。道路標識も海に浮かんでいる。やっとかさ上げした砂利道が1本、通れるようになっていた。石巻魚市場の再開はまだかなり先のようだ。
石巻漁港を過ぎたところから国道398号で女川に向かったが、ここでも驚きがあった。大震災2ヵ月後に来たときは、いかにも大津波を感じさせる地名の「渡波(わたのは)」から県道2号で牡鹿半島に入った。今回は渡波から、そのまま国道398号で女川に向かったのだ。
石巻から渡波までの町並みは大津波に激しくやられていたが、渡波を過ぎ、万石浦沿いになるとほとんど被害を受けていないではないか。「どうして?」とビッグボーイに乗りながら、思わず声が出てしまった。万石浦沿いの方がはるかに大きな被害が出ているのではないかと想像していたからだ。何とも不思議。津波のメカニズムは不思議だらけだ。
石巻市から女川町に入る。中心街が全滅した女川も、万石浦沿いの町並みは無傷でそのまま残っている。石巻線の浦宿駅を過ぎると、万石浦を離れ、ゆるやかな峠を登る。峠上には女川高校がある。そこまでは全く大津波の痕跡はない。ところが女川高校前を過ぎ坂道を下り始めると、全壊した家々が見られ、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。あまりにも無惨な光景。ここでは倒壊してひっくり返ったビルを何棟も見る。
女川を襲った大津波は女川湾からの一方通行で、もう一方の石巻湾→万石浦の津波はなかったということだ。
女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行く。雄勝の公民館の上に乗ったバスはそのまま。雄勝湾の一番奥の雄勝の町には何も残っていない。瓦礫が撤去されているので、まるで遺跡か何かを見るかのよう。異様な光景だ。
雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっているが、依然として通行止がつづいている。
新北上大橋の右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台となった大川小学校がある。残された校舎の壁には全校生徒と先生方の集合写真が張られていた。涙をさそう写真。そのうちの8割の生徒たちと先生方の大半が亡くなった。ここは太平洋から5キロもの距離がある。5キロ内陸の地まで、これだけの大津波が押し寄せるとは…。
新北上大橋が通行止なので、北上川の対岸に渡るのは大変だ。
北上川右岸の堤防上の県道30号でいったん国道45号に出る。そのついでに道の駅「上品の郷」まで行き、「ふたごの湯」に入った。ここはボランティア活動の最前線といったところで、1日の仕事を終えた人たちが多く来ていた。
「ふたごの湯」から上がると、国道45号経由で北上川左岸の堤防上の県道197号を走る。その日は仲秋の名月で、北上川対岸の山の端から満月が昇った。新北上大橋の反対側までくると国道398号に合流。夜道を走り、南三陸町に向かった。
三陸海岸の名勝、神割崎で石巻市から南三陸町に入る。国道45号に合流する手前では「波伝谷」という集落を通るが、ここも大津波を連想させる地名だ。
国道45号に出、南三陸町の志津川に向かっていくと、右手の高台に南三陸温泉「観洋」がある。高層の温泉ホテル。長らく震災の避難所になっていたが、このたび営業を再開。飛び込みで行ったのにもかかわらず、うまく泊まれた。
さっそく大浴場へ。湯につかりながら、満月に照らされてキラキラ光る太平洋を見下ろした。湯から上がり、夕食会場のレストランに行くと、かなりの客の姿が見られた。こうしてひとつ、またひとつと元の姿の三陸に戻っていくのはうれしい限りのことだった。