韓国食べ歩き紀行(5)
1986年
特急セマウル号
観文研(日本観光文化研究所)の所長、神崎宣武さんとの韓国の旅はつづく。
ソウルから韓国南部全羅南道(チョンラナムド)の中心地、光州(クワンジュ)へ。
全羅南道は気候が温暖で海産物に恵まれ、食材も豊富にある。「食は光州にあり」と、いわれるほどだ。
私たちはソウル発9時05分発の光州行きの特急「セマウル号」に乗り込んだ。
「セマウル」は「新しい村」の意味で、1971年に勤勉・自助・協同をスローガンにしてセマウル運動が提唱された。この新しい村づくりの運動はまたたくまに全国に広がっていった。そのようなセマウル運動にちなんでの「セマウル号」なのである。
韓国の鉄道は「ソウル→釜山(プサン)」を結ぶ京釜線と、「ソウル→光州→木浦(モッポ)」を結ぶ湖南線が二大幹線になっている。
京釜線は1日8便、「セマウル号」が出ているが、湖南線になると光州行きが1日1便、木浦行きが1日1便の計2便でしかない。京釜線と湖南線の格差はきわめて大きい。
ソウル駅の長距離列車専用のホームは人影がまばらで、閑散としている。
韓国では鉄道は衰退していて、高速道路を走る何路線もの高速バスがそれにとって替わっていた。
高速バスが韓国の交通機関の主役の座についたのは、料金が安く、速く、おまけに便利だからである。ソウルから釜山にしても、光州にしても、5分から10分の間隔でひんぱんに出ている。次から次へと出ていく高速バスはどの便も満員の大盛況。
しかし、私たちは料金よりも、時間よりも、なによりも車窓からの風景を選んだ。列車の車窓を流れていく風景を眺めたかったのである。
車窓の風景
9時05分、光州(クワンジュ)行きの特急「セマウル号」は、定刻通り、ソウル駅を出発した。
ソウルの中心街を走り抜け、韓国第2の大河、漢江(ハンガン)にかかる鉄橋にさしかかると、対岸には夏の日差しを浴びて金色に輝く超高層ビルが見えた。
朝鮮戦争(1950年〜1953年)で国土の大半が焼土と化した韓国は、戦後、焼け跡の中から這い上がり、立ち上がった。そして奇跡の高度経済成長を成しとげた。それを称して「漢江の奇跡」といわれる。
漢江河畔の超高層ビルは、まさに「漢江の奇跡」を象徴しているかのようだった。
ソウルの南、40キロの水原(スーウォン)あたりまでは、ソウルの延長線のような市街地がつづき、工業化の道を一直線に突き進む韓国らしく、大小の工場が目についた。
水原を過ぎると田園風景が車窓全体に広がった。稔りの季節を迎え、稲田は黄色く色づき始めていた。
鉄道沿いの道路は舗装され、トラック、バス、乗用車がしきりなしに走り過ぎていく。ポプラ並木はすっかり大きくなっている。山々には松が植林され、青々としている。
「あー、変ったなあ!」
と、そんな車窓の風景を見て、私は思わず声を上げた。
都市ばかりでなく、田園地帯の変貌ぶりにも目を見張らせるものがあった。
私がそれ以前に見た韓国というのは、ソウルや釜山といった都市を一歩出ると、幹線道路といえども舗装路が途切れ、砂利道になった。時たまやってくるトラックやバスがもうもうと土煙を巻き上げ、走り去っていった。ポプラ並木は植えられたばかりで、若木は痛々しいほどに頼りなかった。山々に緑はほとんどなく、岩肌があちこちで露出していた。はげ山がやたらと目についたが、そのような風景が目に焼きついていたのだ。
それがわずか10数年の間で、これほどまでに変るものなのか…。韓国という国は現代史の中で、壮大な実験をしているかのようにも見えた。