[1973年 – 1974年]
サハラ砂漠縦断編 4 ラゲイラ[スペイン領サハラ] → ビルモグレイン[モーリタニア]
再度、鉄鉱石専用列車に乗る
スペイン領サハラのラゲイラでは、ジリジリ照りつける太陽のもとで考えた。
その結果、「もう一度、モーリタニアに入り、チュームに戻ろう」と決めた。
チュームからはサハラ砂漠を北上し、モーリタニア北部のビルモグレインからスペイン領サハラに入り、首都のアーイウンへ。そしてモロッコに入り、タンタン、アガディール、カサブランカ、ラバトと通ってタンジールへ。タンジールからフェリーに乗ってジブラルタル海峡を越えてアフリカからヨーロッパに渡ろうと決めたのだ。
ラゲイラからモーリタニアに戻ると、カンサドまで行き、再度、鉄鉱石専用列車に乗り込む。行きは鉄鉱石を満載にした列車は帰りは空だ。
鉄鉱石専用列車は15時に出発。夕方になると、信じられないことが起こった。なんと稲光が光り、やがて雷鳴が聞こえてくる。そのうちポツポツと雨が降り出した。一木一草もないサハラの雨だ。雨はパラパラッと降って、5分ほどでやんだ。
真夜中、鉄鉱石専用列車はチュームに停まった。見覚えのある山影が闇の中に、黒ずんで横たわっていた。
最初はチュームで降りるつもりだったが、気が変わり、終点のズエラート鉄山まで行くことにした。
翌朝、目をさますと、列車はズエラート鉄山の麓を走っていた。露天掘りの大鉄山だ。列車は停まる。そこからは乗り合いタクシーでズエラートの町まで行った。バラック風の家々が砂漠の中に建ち並んでいる。
真昼のサハラを行く
ズエラートの町の広場には、400キロ北のビルモグレインまで行く2台のランドローバーが停まっていた。そのうちの1台に乗せてもらう。1台の荷台には人と荷物が乗り、もう1台の荷台には羊と山羊が乗った。
ズエラートを出発したのは10時過ぎ。すでに強烈な暑さだ。まともに熱風が吹きつけてくる。羊と山羊を積んだ方のランドローバーがパンクした。真昼のパンク修理は楽ではない。おまけにそのランドローバーには予備のタイヤは積んでいなかった。人と荷物の乗った方のランドローバーの予備タイヤを使う。
タイヤは高価なものなので、ボロボロになるまで使う。
サハラ縦断のトラックでさえ、予備のタイヤを持たないで走ることもある。最新の装備でやってくるサハラ縦断の外国人の目には、信じられないようなことだ。
これでもう2台のランドローバーには予備のタイヤはない。今度、パンクしたらどうするのだろう…と不安になる。
だが、その恐れはすぐに現実のものとなった。我々の乗ったランドローバーがパンクしたのだ。タイヤを外し、チューブを引っ張り出し、ゴムのりを使って穴をふさぐ。そのあと、自転車用のポンプで気長に空気を入れる。頭上の太陽は容赦なく照りつける。
パンク修理が終り、真昼のサハラを走り出す。道は悪い。というよりも、道はないといった方が正確かもしれない。運転手は勝手気ままに砂漠を走っているように見える。
昼過ぎ、木を見つけると、その下で停まる。火をおこし、お茶をわかす。木のあるところだけ、生の世界が蘇る。フンコロガシが忙しげに動きまわっている。まるで脱色したかのような色の無いバッタが弱々しげに跳ねる。うるさい蝿が飛びまわっている。蜂も飛んでいる。バッタと同じように、サソリにも色が無かった。
木の枝には小鳥がとまっていた。元気がないなと思っていたら、バタンと枝から落ちた。苦しそう。口をパクパクさせている。そのうちパタンとひっくり返り、そのまま動かなくなった。
わずかな日影だったが、木の下にいる間はよかった。お茶の時間が終り、出発。灼熱地獄のサハラを行く。所々、かなり砂が深くなる。真っ平な塩原もあった。夕日がサハラの地平線に落る頃、ビルモグレインに到着。熱風は夜になっても吹きやまず、何とも寝苦しかった。
砂嵐の思い出
ビルモグレインに到着したのは1974年9月10日のことだった。
その2年前の1972年にもビルモグレインにやってきた。そのときはアルジェリアの地中海岸の町、オランから南下した。2月に入ってまもなくのことで、寒かった。おまけに連日のように砂嵐に見舞われた。アルジェリアのティンドウフからビルモグレインに向かったときのことである。
2月5日(土)快晴のち砂嵐
朝の冷え込みが厳しい。トラックの荷台で、毛布を体にギュッと巻きつけ、寝袋に入っている。うっかりすると荷台からころげ落ちてしまうので、神経を使う。
風景は真っ平な広々としたショット、岩がゴツゴツした台地、美しい砂丘地帯と次々に変っていく。
昼前から激しい砂嵐。大地をすさまじい勢いで砂が流れていく。視界ゼロ。ザーザーと音をたてて砂が降ってくる。交通量がきわめて少ないので、轍はほとんど消えている。運転手のブジュマさんはそれでもトラックを停める気配はまるでない。
砂が深く、何度かトラックはスタックして動けなくなる。そのたびにサンドマットを使う。乗客は荷台から飛び降り、トラックを押す。
夕暮れが近づくと、やっと砂嵐はおさまった。
夕日が地平線に沈み、きらきらと星が輝く。荒れ狂った砂嵐がまるでうそのよう。
背の低い木々がまばらにはえているところで止まる。砂の上で火をたく。お茶を飲み、助手のタハットが作った夕食を火のそばで食べる。そのあとまたお茶。しばしの雑談が終ると、砂の上で寝る。寒い。夜中に寒さのため何度も目をさました。
2月6日(日)曇のち砂嵐
めずらしく雲っている。驚いたことに朝、10分ほどパラパラッと雨が降った。昨日と同じように、昼前から砂嵐になった。ゴーゴーとうなりを上げて砂が舞う。視界はゼロ。一緒に乗っていた3人の遊牧民が、この砂嵐の中でトラックを降りた。
ブジュマさんの話によると、30キロほど歩いたところに彼らのテントがあるという。いったい何を目印にして、その地点でトラックを降りたのか、いったい何を目標にして30キロも歩いていくのか、この途方もなく広いサハラで…。
ラクダの背につける鞍と羊の皮袋に入ったわずかばかりの水を持って、彼らは歩き始めた。そんな3人の姿はあっというまに厚い砂のカーテンの向こうに消えた。
山と渓谷社刊の『極限の旅』から
1972年のときは、このようにしてビルモグレインに着いたのだった。今回の到着は夏。寒さどころか、夜中まで熱風が吹き荒れ、暑くて暑くて寝苦しいほどだった。