[1973年 – 1974年]
アフリカ東部編 10 ナイロビ[ケニア] → モヤレ[エチオピア]
ケニア山の雪
ナイロビを出発した最初の日のヒッチハイクはすごく楽で、シカ、フォートフォール、ニエリと通り、ケニア山北麓のナニュキに着いた。この町の入口では赤道を越え、南半球から北半球に入った。
前年の1973年の8月にインドネシアのスマトラ島で赤道を越えて北半球から南半球に入ったが、それ以来の、半年ぶりの北半球ということになる。ナニュキに着いたのは夕方で、西日を浴びたケニア山の雪が赤々と染まっていた。目に残る光景だ。
ケニア山は標高5202メートル。アフリカではキリマンジャロに次ぐ高峰で、正真正銘の赤道直下の雪山だ。赤道直下の雪山といえばアフリカにはもうひとつ、標高5119メートルのルウェンゾリーがある。
ナニュキからはさらに夜のヒッチハイクをつづけ、その日のうちにケニア山北麓のティマウまで行った。ティマウの夜は高度のせいで寒かった…。警察でひと晩、泊めてもらったが、寒さに震えながら眠った。
翌朝は快晴。昨夜以上の冷え込みで、おもわずギューッと首を縮めた。日本の冬枯れを思わせるような乾期のサバンナの向こうには、なだらかな裾野を引いてケニア山が聳えていた。朝日を浴びたケニア山の雪は神々しいほどにきれいだった。この寒さといい、ケニア山の雪といい、赤道のすぐ近くにいるとは思えなかった。赤道は寒いのだ。
灼熱地獄のヒッチッハイク
ケニア山麓を下り、荒涼とした半砂漠地帯が広がるケニア北部への入口の町、イシオロまでは楽にヒッチハイクできた。ところがそこから先は大変だ。
イシオロは小さな町。その町外れで道は2本に分かれる。2本ともエチオピア国境のモヤレに通じているが、右に曲がっていく道は旧道でワジールを経由し、まっすぐ行く道は新道でマルサビットを経由する。
イシオロに着くと町中の市場でバナナ、トウモロコシ、マンゴーを食べ、そして町外れの分岐点に立って新道を行く車を待った。交通量はきわめて少ない。時間がたつにつれて強烈な日差しを浴びる。頭がクラクラしてくるほどだ。
午前中はまったく乗れず、午後になってサンブル・ゲームリザーブ(動物保護地域)の入口にあたるアーチャーズ・ポストまで行くランドローバーに乗せてもらった。灼熱地獄から救われた。車にはソマリア人の家族が乗っていた。水を飲ませてもらい、ホッとひと息つくことができた。アーチャーズポストに着くと、食堂に飛び込み、たてつづけに冷えたコカコーラを2本、3本と飲んだ。そのあとで遅い昼食を食べた。
道を横切るサイに感動!
アーチャーズポストでは、同じくエチオピアに向かう2人の黒人のアメリカ人と出会った。すっかり意気投合し、一緒に行くことにした。1人はカリフォルニア、もう1人はミシシッピーの出身で、ともにトルコ駐留の軍人。休暇を利用し、ヒッチハイクでアフリカをまわっていた。
日が傾きはじめたころ、マルサビットまで行くトラックが止まり、乗せてもらえた。荷台に満載した積み荷のてっぺんに座り、広大なケニア北部の平原を一望。平原には所々でポコッ、ポコッと岩山が聳えている。ここでは野生動物を多く見た。シマウマやカモシカの類はたくさんいた。感動したのは1頭のサイが悠然と道を横切っていったときだ。
イシオロからマルサビットまでは280キロ。道は舗装こそされていなかったが、路面はよく整備されていた。トラックは夜通し走り、真夜中にマルサビットに着いた。町中のガソリンスタンドの片隅で2人のアメリカ人と一緒に野宿した。
エチオピア国境に到着!
マルサビットからエチオピア国境の町、モヤレまではより難しいヒッチハイクが予想された。そこでちょうどうまい具合にバスがあるというので、2人のアメリカ人と一緒に、そのバスに乗ることにした。マルサビットからモヤレまでは300キロ。バス代は20シル(約800円)。ほとんど待たずに乗れたそのバスには、我々のほかにイギリス人の男女、オーストラリア人、ニュージーランド人の旅行者が乗っていた。
モヤレに着いたのは夕方。我々、旅行者の一団は一緒になって食堂に入り、「無事にエチオピア国境までやってきた!」ということでビールで乾杯し、そのあとで食事にした。その夜はケニア側のイミグレーション近くの無料のキャンプ場で泊まった。そこでも、ひきつづいての乾杯! 人種や国籍が違っても、同じ旅人同士ということで、こうしてすぐに仲良くなれるのが、我々の大きな強みだ。
アフリカの6年間の変化
キャンプ場での宴会が終わるとシュラフにもぐり込んだが、ぼくはモヤレに着いて胸がいっぱいになった。1968年の「アフリカ大陸縦断」では、ケニアのナイロビからエチオピアのアディスアベバに行くまでが大変だったからだ。
イシオロから先のケニア北部には、特別な許可証がないと入れなかったし、エチオピア側はモヤレからの陸路での入国を認めていなかった。ケニア、エチオピア内でのソマリア人のゲリラ活動が活発で、それによる治安の悪化が原因だった。
ソマリア人は旧イタリア領と旧イギリス領のソマリーランドが一緒になって独立したソマリア以外にも、フランス領ソマリーランドとエチオピア南東部のオガデン地区、ケニア北東部に住んでいる。彼らの民族意識はきわめて高く、「大ソマリア国」をつくろうとケニア、エチオピア内でゲリラ戦をつづけていた。そのためケニアからエチオピアへ、陸路では入れなかった。
で、どうしたかというと、ケニア北部のインド洋岸の島、ラム島からソマリア南部のキスマユ港に船で渡り、首都のモガデシオへ。そこからは灼熱の砂漠を2000キロ以上も走ってソマリアを横断し、フランス領ソマリーランドのジブチに出た。そしてジブチからエチオピアの高地に登り、アディスアベバまで行ったのだ。
それから6年。ソマリア問題は解決された訳ではないが、表面上は小康状態を保っていて、こうして国境のモヤレまでやって来ることができた。モヤレでは過ぎ去っていった6年間のアフリカの変化を見る思いがした。
暴動が起きた…
翌日は朝一番でケニア側で出国手続きをし、エチオピア側に入る。そこではつい2、3日前に大規模な暴動が起きたことを知らされた。エチオピア北部のエリトリアで起きた暴動は首都のアディスアベバに飛び火し、さらに軍部が反乱を起こしたという。
まったく収拾のつかないような状態に陥っているとのことで、町のあちこちで銃撃戦がつづき、相当数の死者が出ているという。イミグレーションの役人は事態が落ちつくまで、何日か、モヤレに滞在したほうがいいという。
アディスアベバからバスでやってきたヨーロッパ人旅行者は「バスは武装した軍人や警官に護衛されていた。途中で何度か発砲したけれど、それが銃撃戦だったのか、威嚇したのかはわからない」といった。モヤレからアディスアベバまでの間も相当、混乱しているようだ。
その暴動が連綿とつづいたハイレセラシェ皇帝をいだくエチオピア帝国の消滅にまで発展するとは、そのときはまだ考えが及ばなかった。
エチオピアの長い歴史
エチオピア人(主にアムハラ族の意味で)というのは、話していると、よく「我々はアフリカ人とは違う」という。色は黒くても、白人種の血を引くエチオピア人なので、彼らのいうことも理解できる。しかし、「我々はアフリカ人とは違う」といういい方には、アフリカ人に対する差別感が多分にあった。
エチオピア人のそのような意識、自分たちはアフリカ人よりも上だという意識を持たせる理由のひとつは、エチオピア独自の歴史にある。ソロモン王とシバの女王の間に生まれた伝説の始祖、メネリック1世によって3000年前には国が出来ていたというのが彼らの誇りなのだ。
4000メートル級の山々がいくつも聳えるアビシニア高原は天然の障壁になり、外部からの進入を遮断し、長い間、エチオピアの独立は保たれてきた。それだけに皇帝のハイレセラシェは危ないという話は何度か聞いたことはあるが、まさか、ほんとうに王政が倒されるとは思いもしなかった。
アフリカを大きく2分する国境線
国境の役人たちには「(首都の)アディスアベバに向かうのは、今はすごく危険だ」と強くいわれたが、ぼくたち外国人旅行者たちは「どうせ、たいしたことはないだろう」とたかをくくり、全員がアディスアベバに向かうことにした。
ほかの旅行者たちは金を払って車に乗せてもらい、アディスアベバに向かっていった。ぼくはヒッチハイクするつもりなので彼らと別れ、エチオピア側のモヤレの町を歩いた。国境を境にしてケニア側のモヤレとエチオピア側のモヤレでは、ずいぶんと変わる。
エチオピア側に入ると、ラクダが多く見られるようになり、家の造りや人々の服装も違ってくる。食堂に入り、エチオピアの主食の酸味のあるインジェラを食べると、「あー、エチオピアに入ったんだ!」と実感する。インジェラは雑穀のテフからつくる大きな平べったいパンで、ケニア以南にはないものだ。この国境線を境に南はトウモロコシや雑穀の粉を煮固めたものが主食になり、北は雑穀粉や小麦粉を焼固めたものが主食になる。ケニア・エチオピアの国境線はアフリカを大きく2分する線。その線を越え、「煮る」世界から「焼く」世界に入ったのだ。