南米・アンデス縦断 2007年〜2008年
道祖神の「カソリと走る!」シリーズの第13弾目は「南米・アンデス縦断」。
南米最南の街へ
2007年12月2日に東京を出発。我ら「アンデス軍団」はペルーの首都リマを総勢18名で走り出し、世界最南の町、フェゴ島のウシュワイアを目指した。日本から送り出した各自のバイクには2台のサポートカーがついた。カソリのバイクは「ユーラシア大陸横断」、「サハラ砂漠縦断」、「韓国往復縦断」、「シルクロード横断」を走破したDR−Z400Sだ。
ペルーでは「ナスカの地上絵」で知られるナスカからアンデス山脈の4000m級の峠を越え、「インカの都」のクスコへ。「空中都市」のマチュピチュ遺跡を見たあと、チチカカ湖畔を通り、ボリビアに入った。
ボリビアでは世界最高所の首都ラパスからボリビア高地を南下。ウユニ塩湖からアタカマ高地を越えてチリに入った。
そこはアタカマ砂漠。一木一草もない砂漠が延々と続いた。アタカマ砂漠を南下し、コピアポの町を過ぎるころから緑が見え始め、やっと砂漠は尽きた。
チリの首都サンチャゴから太平洋側を南下。南緯40度線を越え、オソルノからアンデス山脈のプジェウエ峠を越え、アルゼンチンに入った。
南米屈指の観光地、バリローチェから南下し、烈風のパタゴニアに突入。「犬が空を飛ぶ」といわれるほどの風の強さ。空を飛ぶ鳥は羽をパタパタさせるだけで、むなしくも押し戻されてしまう。バイクは横風を受けると道路の右端を走っていても、あっというまに左端まで飛ばされてしまう。「バイクが空を飛ぶ」ような風の強さだ。
憧れのマゼラン海峡をフェリーで渡り、九州よりも大きなフェゴ島に上陸。世界最南の町、南緯55度のウシュワイアに到着すると、海岸に立ちつくし、ビーグル海峡を渡る冷たい風に吹かれた。真夏だというのに、町のすぐ近くまで迫る山々は雪に覆われていた。
ウシュワイアからは大西洋側を北上し、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスへ。「リマ→ブエノスアイレス」1万2574キロの「南米・アンデス縦断」。帰国したのは2008年1月28日のことだった。
ペルー
ボリビア
チリ
アルゼンチン
四半世紀で劇的に変化
「南米・アンデス縦断」は1984年から1985年の「南米一周」以来で、20余年間の南米の変化がじつによくわかった。どの国も経済的に発展し、政情は安定し、治安も良くなり、旅しやすくなった。
ペルーでは「ナスカの地上絵」を空から見る遊覧飛行の飛行機が頻繁に飛び、人気度抜群の世界遺産のマチュピチュ遺跡には大勢の外国人観光客が来ていた。アルゼンチンのモレノ氷河の展望台は押すな押すなの大盛況。チリのトレッキングのメッカ、パイネ国立公園には世界中から大勢のハイカーたちが来ていた。世界最南の町ウシュワイアは一大観光地になり、港には何万トンもの豪華大型客船が入港していた。
1984年〜1985年の「南米一周」のときのペルーは大変だった。当時リマの治安の悪さといったらコロンビア級。「ペンション・ヤマモト」という日本人宿に泊まったのだが、宿の前に停めてあった車はわずか10分ほどで4本のタイヤ、全部が盗まれた。宿の主人からは、夜の町には絶対に出ないようにといわれたほどだ。
政情もきわめて不安定で、反政府軍の「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」と政府軍の激しい戦闘がアンデス山中でつづいていた。その中を強行突破。とある村で泊まったときは政府軍の兵士に「ここで寝るように」と言われ、食堂の入口にはテーブルやイスが積み上げられた。「銃撃戦になっても、絶対に動いてはいけない、頭を上げてはいけない」と言われた。
当時の南米の経済は最悪で、とくにボリビアでは猛烈なインフレに見舞われていた。物価の上昇は何パーセントなどいうものではなく、2倍、3倍…と一気に跳ね上がっていった。銀行で100ドルを両替したときは唖然とした。札束がドサッと、まるで山のように積み上げられて目の前に置かれたのだ。アルゼンチンもそれに近い状態で、年率何百パーセントという猛烈なインフレ。まさに経済危機のまっただ中にあった。
今回の「南米・アンデス縦断」では、何度となく1984年から1985年の「南米一周」を思い返した。まるでミラクルでも見るかのようで、忘却のかなたにあった「南米一周」の記憶が鮮明に蘇ってきたのだ。これは「南米・アンデス縦断」での大きな収穫。それと同時に128日間で4万3400キロを走った「南米一周」が、じつに価値あるもののように思われた。ということで「南米一周」の写真も見てもらおう。