シルクロード横断 2006年(4)

最後の国へ

 2006年10月2日、イラン西部の中心都市タブリーズを出発。2車線の幹線道路でトルコ国境に向かう。この道はアジアハイウェーのA1。トルコ国境からはヨーロッパハイウェーになるので、この区間はアジアハイウェーの最西端区間ということになる。さすがに欧亜を結ぶ幹線だけあって、トルコナンバーやヨーロッパの国々のナンバーをつけた大型トラックと頻繁にすれ違う。

 国境の町バザルガンに到着。タブリーズから280キロだ。町から国境事務所までは延々と大型トラックの長い列ができていた。まずはイランの出国手続き。バイクの手続きに時間がかかった。つづいてトルコの入国手続き。トルコ側でもバイクの手続きに時間がかかり、すべてが終わったのは20時30分。7時間かかっての国境通過だ。その間は忍耐あるのみ。ただひたすらに待ちつづけた。

 いよいよトルコに入った。「シルクロード横断」の最後の国だ。国境の町ギュルブラックからドバヤジットへ。この道はE80。ヨーロッパハイウェーの80号線になる。世界が変わった。

 中心街にある「ヌフホテル」に泊まり、ロカタン(食堂)で遅い夕食を食べる。パンとスープ、それとライスつきのカバブー。国境を越えるとパンが変わった。イランのナンからトルコパンのエキメッキ(トルコ語でパンの意)になる。テーブルの上に置いてあるパンはいくらでもおかわりできる。スープにつけながら食べるトルコパンはうまい。

 翌朝は「ヌフホテル」最上階のレストランで朝食。すばらしい眺望だ。ドバヤジットの町並みの向こうには雪をかぶったアララト山(5165m)が見える。雪の白さがまぶしい。さらにその向こうには富士山型のきれいな山も見える。そんな絶景を眺めながらの朝食は最高の贅沢だ。

 ドバヤジットからエルズルム、エルジンジャンと通り、カイセリの町からアナトリア高原の中央部に広がる一大奇岩地帯のカッパドキアに入っていく。13世紀のシルクロードのキャラバンサライを見学し、岩窟レストランでピラフと煮豆の昼食を食べ、ネブシェヒルの「ユクセラーホテル」に泊まった。ここで連泊。カッパドキアの奇岩は世界遺産にも登録されているが、そのエリアは広範囲に渡り、エリア内にはネブシェヒルやアバノス、ギョレメ、ユルギュップの拠点となる町々が点在している。

「ユクセラーホテル」のレストランでピラフとチキンの夕食を食べると、我々はギョレメにあるハマムに行った。そこでは信じられないようないい思いをした。混浴のハマムで、デンマークからやって来た女性たちと一緒になったのだ。彼女らは体にバスタオルを巻きつけて浴室の大理石に横たわっていた。北欧女性特有のスラッとの伸びた真っ白な足が目に焼きついて離れない。

 ハマムとはトルコやアラブ圏特有の蒸気風呂で、大理石の上でゴロンと横になって蒸気浴する。あかスリもやってやってくれる。これがすごく気持ちいい。我ら「シルクロード軍団」はハマムにすっかりはまり、宿泊地に着くとハマムを探すのだった。

 カッパドキアのネブシェヒルを出発し、トルコの首都アンカラへ。キジルイルマック川を渡る。アナトリア高原最大のこの川は首都アンカラの東側から黒海へと流れ出ている。キジルイルマックは赤い川の意味。その名前とは違って吸い込まれるような青い流れだ。

 地中海沿岸のアダナとアンカラを結ぶE90に合流すると北へ。DR−Z400Sのアクセル全開で、4車線のハイウエイを駆け抜ける。E90はトゥーズ湖の湖畔へ。そこで小休止。トゥーズ湖は琵琶湖の2・5倍ある大湖。塩湖で一面、真っ白。干上がった塩の上をどこまでも歩いていける。幻想的な世界。湖岸を離れ水際ギリギリまで歩いていくと、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなるような不思議さを感じた。

  • 国境のドバヤジットの町
    国境のドバヤジットの町
ボスポラス海峡で乾杯!

 アンカラに到着。カッパドキアから310キロ。我々の泊まったホテルは「オリンピックパークホテル」で体育館がある。そこで我々は有志でサッカーをした。サッカーで汗を流したあと、アンカラを歩いた。

 旧市街のウルス広場から市場へ。果物売場ではブドウやザクロが売られていた。魚売場は威勢がいい。その種類も量も豊富。黒海からも地中海からも遠く離れた高原の町アンカラ。その市場にこれだけの魚が並んでいるというのは、トルコ人が魚をよく食べるという証明にほかならない。乳製品の売場ではチーズがドサッと山積みされている。米売場には何種もの米が並んでいる。トルコ人は日本人と同じようによく米を食べる民族だ。

「私たちはヨーロピアン(ヨーロッパ人)でもないし、アラビアン(アラブ人)でもない。ターキッシュ(トルコ人)だ」

 そう言って胸を張るトルコ人だが、我々日本人と同じように魚が好きで、よく米を食べる。そんな国民性を見ると、「同じアジア人!」という思いを強くした。

 10月10日6時、トルコの首都アンカラを出発し、ゴールのイスタンブールを目指す。標高1570メートルのアクヤルマ峠では、霧の峠道でのトラック事故に巻き込まれ、延々とつづく大渋滞に巻き込まれるといったハプニングもあった。標高900メートルのボルダギ峠を越えると、スーッと高度を下げていく。アナトリア高原が尽きた。

 イスタンブール到着は14時。アジアとヨーロッパを分けるボスポラス海峡を見ながら我ら「シルクロード軍団」は、イスタンブール到着を祝って「万歳!」。東京を出発してから54日目のことだった。

 中国の天津からイスタンブールまでは12657キロ。天津から西安まではバスだったので、DR−Z400Sで走った距離は西安からの11407キロになる。ノントラブルで走りきってくれたDRには「よくやった!」と声を掛けた。

 我々は通関業者の倉庫にバイクを入れると、バスでボスポラス海峡を渡り、イスタンブールの中心街へ。「セディホテル」にチェックイン。ボスポラス海峡の見えるベランダで何度もビールで「乾杯!」を繰り返す。そのあとタキシム広場にくり出し、カバブーの店で夕食。食べ終えると、別な店でトルコの蒸留酒、ラキを飲みながらの「ラキパーティー」。ラキに酔い、足腰が立たないくらい飲んだところで「ラキパーティー」はお開きになった。

 翌朝はボスポラス海峡沿いの道を歩いた。手の届くようなところにアジア側のウスクダルの町並みが広がっている。ちょうど関門海峡の下関側に立って、門司側の町並みを眺めるようなものだ。イスタンブールとウスクダルを結ぶフェリーがひんぱんに行き来している。

 ボスポラス海峡探訪のあとは、バスツアーでイスタンブールをまわる。まずは「アヤソフィア寺院」へ。「アヤ」とは「聖なる」の意味のギリシャ語で、英語風にいえば「セントソフィア寺院」になる。

 325年にローマ皇帝のコンスタンチヌスによって起工されたこの建物はギリシャ正教の大本山だったが、1453年にコンスタンティノープル(イスタンブール)が陥落した後はイスラム教寺院に変り、今は建物全体が博物館になっている。

 次に「ブルーモスク」で知られている「スルタン・アフメット・モスク」に行く。イスタンブールを象徴するかのような壮大なモスクで6本のミナレット(尖塔)を持っている。これはイスラム教第1の聖地、カーバ神殿の7本に次ぐ。一歩、その中に入ると、天井一面に張られたタイルの青さに目が染まりそう。まさにブルーモスクだ。

 最後にトプカプ宮殿に行った。東ローマ帝国を滅ぼし、オスマントルコを打ち立てたメフメット王が、1564年から15年の歳月をかけて造営した宮殿。それ以降、350年間、オスマントルコの王たちが代々住む宮殿となった。1923年のケマル・アタチュルクの革命以降は博物館になっている。

 その展示がすごい。ダイヤを無数に散りばめた玉座や数多くの宝石類には目を奪われた。宝石のみならず、中国製陶磁器の展示も見事なもの。日本の伊万里焼のコーナーもある。赤絵の壷や皿などの「古伊万里」が展示されている。そこの説明板には次のように書かれていた。

「このコレクションは17世紀から19世紀にかけて日本から輸出されたもので、九州の有田でつくられました。伊万里焼で知られていますが、有田に近い伊万里から船積されたので、その名があります」

 バスツアーを終えるとイスタンブールを歩いた。まずは「ロンドン〜イスタンブール」のオリエント急行終着駅のイスタンブール駅に行く。列車の本数が少ないので、人口1000万人を超えるイスタンブールのターミナル駅とは思えないほど閑散としている。トルコは世界でも冠たる「バス大国」。長距離バスが発達しているので、鉄道を利用する人はそれほど多くない。

 イスタンブール駅の近くにはフェリー・ターミナルがある。ウスクダルやハイダルパシャ、カディキョイ…といったボスポラス海峡対岸のアジア側と結ぶフェリーがひんぱんに発着している。金角湾に面したフェリー・ターミナルの周辺はすごい人。人、人、人。

 人波をかきわけて歩いた。

 ここではイスタンブール名物のサバのフライをはさんだ「サバサンド」を食べた。金角湾にかかるガラタ橋の上では大勢の人たちが釣りをしていた。

 10月12日、我ら「シルクロード軍団」はイスタンブール17時30分発のトルコ航空で日本へ。成田到着は翌10月13日の11時00分。58日間の「シルクロード横断」が終った。

  • アンカラで泊ったホテル
    アンカラで泊ったホテル