2024年10月27日
越前岬へ
10月27日5時、「湖上館PAMCO」を出発。三方から国道27号で敦賀へ。敦賀からは国道8号で武生へ。武生からは国道365号→305号を走り、7時30分に越前岬に到着。「湖上館PAMCO」からちょうど100キロだ。
越前岬は若狭湾の東端に位置している。海岸段丘上に越前岬灯台が立っている。12月から2月にかけては岬周辺の山肌に自生のスイセンが咲く。断崖が海に落ちる岬の突端は岩のゴツゴツした海食崖。越前岬は「越前ガニ」漁の漁船にとっては絶好の目印になっている。
越前港を出た漁船は岬の沖まで北上し、そこから西へと進路を変える。水深200メートルから400メートル、水温1度から3度の深い、冷たい海域に越前ガニは生息しているという。岬の北側には鳥糞岩や呼鳥門の奇岩。ここからは若狭湾西端の経ヶ岬がはるか遠くに見える。
越前岬からは国道305号で越前海岸を南下。ここは「越前ガニ」を食べた懐かしの地。もう何年も前のことになるが、越前玉川温泉の温泉宿で越前ガニ三昧をした。
大皿にはゆでた越前ガニが1匹、ドーンとのっていた。その足には越前ガニの新鮮さとうまさを保証する黄色いプラスチック製の標識票がついていた。表には「越前ガニ」、裏には「越前港」と書かれていた。
刺身の大皿にはヒラマサや甘エビ、イカ、ばい貝の刺身とともに生のカニ足、別の大皿には焼きガニ、カニすきの鍋にも越前ガニがまるごと1匹、入っていた。
越前ガニはなんといっても塩ゆでが一番。
ゆでたカニの足をバリバリバリッとへし折り、甲羅をカパッとあけ、越前ガニに喰らいつき、カニ味噌をチュッチュ吸った。
次に熱燗にした福井の地酒「すきむすめ」を飲みながらカニ刺しと焼きガニを食べ、グツグツ煮えてきたカニすきに箸をつけた。越前ガニのうまみがたっぷりとしみ出た汁のうまさ。鍋には白菜や青菜、しらたき、シイタケが入っていたが、とくに汁のよくしみ込んだ肉厚のシイタケはうまかった。鍋の具をあらかた食べたところで、汁にご飯を入れ、最後はカニ雑炊で締めくくった。これがまたとびきりのうまさ。一滴の汁も残さず、一粒のご飯も残さずに、きれいさっぱり食べ尽くした。
「う〜ん、たまらん!」
翌朝は越前海岸でも最大の小樟(ここのぎ)漁港に行った。水揚げされた越前ガニが、魚市場にズラリと並んでいた。壮観な眺めだった。水揚げされた越前ガニはゴソゴソ動き、まだ生きていた。
午前8時に一番競りが始まると、競り落とされたカニはすぐさま業者の車で港外に運び出されていった。保存のきかない越前ガニは鮮度が勝負。このあと二番競り、三番競りとつづき、競りは午前10時過ぎに終わった。越前海岸ではもう一か所、隣りの大樟(おこのぎ)漁港でも競りがおこなわれた。越前漁港というのは、これらの漁港の総称。懐かしの越前海岸にはまた「越前ガニ」を食べに来よう!
そんな越前海岸から国道305号→国道8号で敦賀へ。敦賀に到着すると越前一宮の気比神宮を参拝する。ここには北陸道の総鎮守。敦賀の敦賀湾に面した一帯は「気比」と呼ばれている。
参拝を終えると、大通りを渡ったところにある「お砂持ち神事」の像を見る。
正安3年(1301年)、時宗2代目の遊行上人は諸国巡錫の際、敦賀に滞在した。その当時、気比神宮の参道とその周辺は沼地だったという。
参拝者が難儀している様子を見ると、上人自らが先頭に立ち、神官や多くの氏子らと一緒になって浜から砂を運び、参道の改修にあたった。それにちなんで今日まで、時宗の本山、遊行寺(神奈川県藤沢市)の管長が交代するときは、「お砂持ち神事」がおこなわれるという。
敦賀港の近くには市立博物館がある。ここでは敦賀が大陸の玄関口だった頃の歴史が見られる。敦賀港西側の敦賀湾を望む砂浜一帯の松原は「日本三大松原」の気比の松原だ。東西1・2キロの松原は1万7000本のアカマツで覆いつくされている。ここは市民の憩いの場で、夏は海水浴場として賑わう。
松原内には松原神社やこの地で処刑された武田耕雲斉ら「天狗党」の水戸浪士の墓がある。「ニシン倉」も保存されている。北前船で敦賀港に運ばれた蝦夷産のニシンを保管する倉で、敦賀のニシンは京都に運ばれた。北前船は京都にもつながっていた。