西原の麦食(2)
1986年
甲州の山村、西原の食を支えた雑穀、芋、麦の3本柱の中でも、とくに麦の占める比重は高かった。
昭和30年代以降、米が主食になってからというもの、西原での麦栽培は激減したが、それ以前はほとんどの家で大麦と小麦の麦を作っていた。麦は主食だったのだ。
とくに大麦の栽培が盛んで、8割が大麦、2割が小麦という割合。西原では麦といえば大麦を指すほどであった。なお、西日本で多く作られた裸麦は西原ではほとんど作られることはなかった。
大麦は10月中旬から下旬にかけて種をまき、芽が出たあと、冬の間に2、3度、麦踏みをする。
3、4月になるとグングン伸び、5月に入ると穂が出始める。下旬にはヤタと呼ぶ木の枝や竹を立てて倒れるのを防ぐ。
6月の中旬から下旬にかけて、根元から刈りとって収穫する。脱穀の方法は、まずセンバコキで穂を落とし、莚に広げ、エブリでたたいて穀粒を落とす。それをトウミにかけてゴミをとり除き、いったん干してから穀櫃に入れて保存する。
小麦もほぼ同様だが、ヤタは立てず、収穫は大麦よりも半月ほど遅い。そのため大麦だと収穫後に雑穀の稗やシコクビエを栽培したり、トウモロコシやアズキ、ササゲを栽培することができるが、小麦の収穫後というと、トウモロコシとか秋ソバぐらいしかできない。作物の重要度のほかに、畑をより有効に活用できるということもあって、西原では大麦の方が小麦よりもより多くつくられた。
大麦と小麦は水車で精白、製粉する。水車は昭和30年代までは20基ほどあったとのことだが、1986年の時点では2基が残っていた。
大麦は搗臼を使う。シラゲヅキといって搗いて精白する。小麦は碾臼を使い、碾いて製粉する。大麦と小麦では、食べ方がまったく違う。大麦は精白した穀粒の粒を食べる粒食である。それに対して小麦は、製粉した粉を加工して食べる粉食になる。