30年目の「六大陸周遊記」[020]

[1973年 – 1974年]

アフリカ南部編 6 スプリングス[南アフリカ] → ダーバン[南アフリカ]

スプリングスのスズキの総代理店

 ヨハネスバーグの東、スプリングスの町にあるスズキの総代理店ではずいぶんと歓迎され、スズキのGT550を貸してもらった。このバイクで南アフリカ、スワジランド、レソト、南西アフリカ、ブツワナの南部アフリカ5ヵ国をまわる予定。いよいよ「南部アフリカ一周」のはじまりだ。

 オフィスでチーフマネージャーのイチコビッツさんに会い、いろいろと話を聞いた。イチコビッツさんはユダヤ人で、若いころは世界のあちこちを旅してまわった。ぼくと同じような貧乏旅行で、その日の食事にこと欠くような日々もあったという。しかし、若い時代に自分の肌を通して得た世界観が、今の仕事で大きなプラスになっているという。日本にも何度も行ったとのことだが、今度行くときは仕事抜きで観光地でない普通の日本をまわり、普通の日本人と膝をまじえて話したいという。

 夜はイチコビッツさんの部下のアクレスさんの家で泊めてもらった。スプリングス郊外のきれいな芝生に囲まれた家。広々とした庭には色とりどりの花々が咲いている。奥さんと2人の子供。アクレスさんは南アフリカの白人の中では中産階級ということになるのだろうが、ヨーロッパのそれと比べると、はるかに余裕のある生活をしている。アクレスさんの家ではボーイが1人とメイドが2人、働いている。車もアクレスさんのと奥さんのとで2台ある。その夜は奥さんの友人の農場主の家で夕食会があるとのことで、ぼくも一緒に連れていってもらった。彼らにとっては夕食をともにし、お茶を飲みながら話すのが、何よりもの楽しみになっている。

「南部アフリカ一周」の出発の準備

 翌日は「南部アフリカ一周」の出発の準備で大忙しだった。GT550は1日かけて整備してくれるというので、別なバイクを借りてヨハネスバーグへ。まずは内務省に行き、南アフリカに再入国出来るように、リエントリー・ビザを申請する。1週間かかるといわれたが、強引に頼み込み、その場でやってもらった。そのため、首都のプレトリアにテレックスを打ったとのことで、ビザ代のほかにテレックス代も払った。

 次にイギリスの領事館に行く。旧英領のスワジランド、レソト、ボツワナの3国のビザを申請。スワジランド、レソトのビザはすぐにもらえたが、ボツワナのビザは代行していないという。ボツワナ本国への照会が必要だとのことで、1ヵ月はかかるといわれた。まいった…。「どうしよう…」と、頭を抱え込んでしまったが、結局ボツワナを諦めた。

 今回のアフリカの旅では、今までに行ったことのないアフリカ大陸内の国にはすべて足を踏み入れるつもりでいたが、最初からつまずいてしまった。それにしても腹がたつのは、南アフリカのパスポートならばボツワナへの入国はビザが必要ではないこと。日本のパスポートでも、ビザなしでいいではないか…。国の壁にこうしていつも泣かされる。

 イギリスの領事館から再度、内務省へ。南西アフリカへの入国について聞くためである。特別な許可証のようなものが必要なのか、それともビザが必要なのか。南西アフリカは1884年にドイツ領になったが、第1次世界大戦後の1920年に南アフリカの委任統治領になった。第2次世界大戦後は国連の信託統治領への勧告を拒否し、南アフリカは実質上、南西アフリカを支配していた。

 内務省では次々と、「あっちだ、こっちだ」と窓口をたらい回しにされたが、最後まで明快な回答を得ることができなかった。というよりも、わざとはっきりとさせないような節を感じた。ということで、南西アフリカはビザなしで行くことにした。

 これで「南部アフリカ一周」のすべての手続きは終わった。ボツワナは非常に残念だけど、「仕方ない。また、次の機会だ」と自分にいい聞かせた。

 スプリングスのスズキの総代理店に戻ると、GT550の整備は終わっていた。持っていく予備パーツもすべてとりそろえられていた。さっそく試乗。エンジンは快調。スプリングスの町を走りながら体がゾクゾクッとするような感動を味わった。

南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ
南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ
南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ
南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグ
さー、出発だ!

 アクレスさんの家で泊めてもらい、翌日の12月29日土曜日、いよいよ出発だ。南アフリカの高原地帯は10月から3月までが雨期だが、幸いなことにこの日は快晴。雲ひとつない青空が広がっている。スズキGT550のエンジンをかけると、軽快なエンジン音があたりに響きわたる。何ともいえないうれしさが胸にこみあげてくる。アクレスさん一家の見送りを受け、走りだす。まずはスプリングスからスワジランド国境に近いエルメロに向かった。

「南部アフリカ一周」での最大の問題はガソリンだ。世界中を襲った石油危機の影響で、資源大国の南アフリカも大幅な規制をおこなっていた。すべてのガソリンスタンドの営業時間は朝の6時から夕方の6時までとし、土曜、日曜は休日、予備のガソリンは1台の車につき10リッターまでとする。最高速度は市外で時速80キロ(それまでは130キロ)、市内で時速50キロ(それまでは60キロ)に制限するという非常に厳しい規制の内容だった。

 金、ダイヤモンド、アンチモンが世界第1位、ウラン、クローム、マンガン、バナジウムが世界第2位、そのほかにも鉄鉱石、石炭、銅、プラチナ、アスベストスなどの生産が世界の上位の南アフリカだが、唯一、石油が泣きどころになっている。

 しかし、南アフリカの場合は石油危機が直接、エネルギー危機には結びついてはいなかった。豊富な石炭を利用した火力発電が電力の中心になっているからだ。さらに驚くことには、国営企業のSASOLがヨハネスバーグ近郊で石炭を液化し、石油の生産をおこなっている。この類の企業としては世界最大で、ここで生産される石油は南アフリカの全需要の1割をまかなっているという。

 南アフリカの白人にとって車はなくてはならない生活の必需品。彼らにとってガソリンが手に入らないということは、手足をもぎとられたのも同然。ぼくにとっても非常に厳しし事態で、金曜日の夜にガソリンを満タンにし、土曜日、日曜日はできるだけ走行距離を抑えるしかなかった。

スワジランド入国

 スプリングスから東へ、スワジランド国境に向かって走った。ちょうど日本の初夏のようなさわやかさで、まさにバイク日和。広々とした高原の風景がつづく。GT550を停め、小休止。牧場の片すみの草の上にゴロンと横になると、プーンと牧草の匂いが鼻をつく。見上げると、吸い込まれそうな青空だった。

 ベサールの町を過ぎ、エルメロに近づくと、炭田のボタ山が見えてくる。ヨハネスバーグ周辺の金鉱の白っぽいボタ山と違って黒々としたボタ山。エルメロの町は標高1735メートルで、周辺にはあっちにも、こっちにもという感じで炭田がある。南アフリカはオーストラリアと同規模の南半球最大の石炭生産国で、日本にも年間20万トン近くを輸出している。

 エルメロからスワジランドに向かった。スプリングスから320キロ、アムステルダムの町に着く。前方にはゆるやかな山並みが連なっている。それに向かって走っていくと、やがて舗装路は途切れ、ダートの山道を登っていくようになる。その山並みが南アフリカとスワジランドの国境になっている。

 国境はネルストン。南アフリカ側にはイミグレーションがあり、そこで出国手続きをした。しかし南アフリカのトランスバール州からスワジランドに入ると、イミグレーションも税関もなく、「首都ムババネの警察で入国手続きをするように」と書かれた立札があった。スワジランドは1万7000平方キロで、四国をすこし小さくした程度の面積。人口は43万人。アフリカに残された数少ない王国のひとつで、1968年9月6日にイギリスから独立した。国名の表すとおりで、国民の大半はスワジ族。スワジ族は南アフリカに住むズール族と同じ部族だったという。スワジ族もズール族も勇猛果敢な民族として知られている。

 スワジランドに入ってまっさきに気がつくのはお金である。南アフリカのラントが使われていて、スワジランド独自の通貨はなかった。南アフリカの人種差別政策に反対し、他のアフリカ諸国に同調しようとしているスワジランドだが、小国の悲しさで、南アフリカに頼らなくては国として成り立っていかないようだった。

 しかし、スワジランドに入れば、公用語は英語とスワジ語になる。道路標識などを見ていても、英語と並んでスワジ語が盛んに使われている。それを見て、スワジ族の国をつくっていくのだという意気込みは見てとれた。

スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る
スワジランドに入る
首都ムババネへ

 国境から首都ムババネへの道は、山間部を縫うようにして走っている。植林が盛んにおこなわれ、松やユーカリ林がすがすがしい。目にしみる緑を両側に眺めながら走る。すれ違う車はほとんどない。この一帯、スワジランド西部の植林は見事なものだった。

 谷間に下ると、パルプ工場があった。パルプは砂糖、鉄鉱石、アスベストと並んでスワジランドの主要な輸出品目になっている。

 首都のムババネに着いたのは夕暮れ時。町をグルリとひと回りした。人口が3万人にも満たない小さな首都。標高1143メートルの高原の町である。

 暗くなったころに警察に行くと、その場ですぐに入国てつづきをしてくれた。そのあとで、「ひと晩、泊めてもらえないだろうか」と頼むと、係の警官はぼくを上司のところに連れていく。係の警官も、上司も黒人。独立国のスワジランドなのだから当然のことかもしれないが、その当然のことが何か、すごくうれしかった。

 その上司に「会議室を自由に使ってもいい」といわれ、部屋にあった机を2つ並べてベッドにし、その上にシュラフを敷いた。さらに宿直の警官が夕食を持ってきてくれた。スワジランド警察の客人になったかのような気分。翌朝は警官たち総出の見送りを受けながら出発。スワジランド警察のみなさん、ありがとう!

植林地帯を行く(スワジランド)
植林地帯を行く(スワジランド)
植林地帯を行く(スワジランド)
植林地帯を行く(スワジランド)
ゆるく波打つ丘陵地帯(スワジランド)
ゆるく波打つ丘陵地帯(スワジランド)
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
スワジランドの首都ムババネ
なつかしのモザンビークとの国境地帯

 ムババネを出発。8キロほど北西のオショエックへ。南アフリカとの国境の中でも、一番の幹線道路がそこを通っている。ムババネに戻ると、今度は東へ。高地を下り、40キロ東のマンジニに行く。バイクのガソリンがすでに残り少なかった。スプリングスを出るときに10リッターの予備ガソリンを積んだが、それもすでに使っている。

 南アフリカでは土曜日、日曜日はすべてのガソリンスタンドが休日だが、スワジランドは規制がゆるやかで、土曜日は午前6時から午後2時まで、日曜日は午後2時から午後6時まで給油できる。その日は日曜日なので、マンジニの町で午後2時まで待った。

 バイクはどこに行っても人気の的だが、とくにGT550のような大きなバイクは南部アフリカではあまり走っていないので、よけいに人気が高かった。マンジニでバイクを停めていると、何人もの人たちが集まり、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくる。そのおかげで退屈することもなく、あっというまに午後2時になった。オープンしたガソリンスタンドで給油し、マンジニからさらに東へと走る。やがて前方に山脈が見えてくる。

 上部が平坦な帯のように長い山脈が南北に連なっている。スワジランドとモザンビークの境を成すレボンボ山地だ。1968年にぼくはこの山脈を初めて見た。「アフリカ一周」の出発点、モザンビークのロレンソマルケスからスワジランドとの国境のナマアチャに向かったときのことだった。胸を打たれる風景で、「あー、これがアフリカだ!」と、大感激した。

「今、そのときの風景を反対側から見ている」

 そう思うと、過ぎ去った5年の歳月が一瞬にして蘇ってくるようだった。

 マンジニから50キロ走ると、鉄道の線路を越える。1964年に開通した鉄道で、モザンビークのロレンソマルケスとスワジランドのングウェニャ鉄山とを結んでいる。このングウェニャ鉄山の鉄鉱石の大半はロレンソマルケス港から日本に輸出されている。

 モザンビークの国境まで行ったあと、曲がりくねった山道を走り、レボンボ山地を登っていく。山上のステギという村まで行き、来た道を引き返し、今度は南へと下った。レボンボ山地の麓の低地を行く。この一帯は西部の山岳地帯と比べると、はるかに降水量が少なく、乾燥地帯の様相を見せていた。ところどころにはサトウキビ畑も見られ、製糖工場もあった。

 ビッグベンドを通って国境のゴレラへ。ゴレラへの道は舗装こそされていないが、道幅は広く、路面もよく整備されていた。ゴレラにはスワジランド、南アフリカ両国のイミグレーションがあり、スワジランドを出国し、再度、南アフリカに入国した。

モザンビークとの国境地帯(スワジランド)
モザンビークとの国境地帯(スワジランド)
快適な高原の道を行く(スワジランド)
快適な高原の道を行く(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
南アフリカ国境へ(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)
国境の町、ゴレラで(スワジランド)
ダーバンのインド人

 国境を越えてスワジランドから南アフリカに入ると、すばらしいハイウエイが南に延びていた。N14(国道14号)だ。交通量はきわめて少ない。石油危機後の新しい制限速度の80キロを無視し、時速120キロから130キロで走った。スズキGT550の高速性能のよさに酔いしれる。と同時に、南アフリカの整備された国道網には目を見晴らされた。

 N14を南下すると、すぐにポンゴラ川(モザンビークのマプト川の上流)を渡り、トランスバール州からナタール州に入った。ナタール州北部の低地には、ゲームリザーブ(動物保護地域)が何箇所のもある。ズールランド(ズール族の居住エリア)を南下していくと、やがてゆるやかな丘陵地帯になり、広大なサトウキビ畑がつづくようになる。

 ナタール州最大の都市、ダーバンに到着。中心街には高層ビルが林立している。ダーバンをひとまわりしてみてすぐに気のつくことは、じつにインド人が多いこと。ダーバン市だけの人口を見ると、白人、黒人よりも、インド人の方が多いという。

 ナタール州のインド人は19世紀後半から20世紀にかけて、サトウキビのプランテーションの労働者として移民した。華僑と同じように、世界中のどこにいっても商売上手なインド人はみるみるうちに勢力を拡大し、小売、流通で確固とした地盤を築いていった。ダーバンで何人かの人たちから聞いた範囲では、インド人は白人からも黒人からも嫌われているようだった。物を動かすだけで利益を上げているずる賢い民族、といった印象をもたれていた。

 そんなインド人は被差別民族。裏通りの小さなスーパーマーケットに入ったときのことが忘れられない。店の主人と立ち話をしたが、「あんたは日本人か。日本人はいいなあ。私らはいくら金を出しても一流のレストランでは食事をできないし、一流ホテルにも泊まれない」といった彼の言葉が、トゲのようにいつまでも心にひっかかってならなかった。