2025年6月2日
琵琶湖を海に見立てて一周する
敦賀の「ルートイン」ではしっかりと朝食を食べた。朝食の会場で『ツーリングマップル』の舛木編集長から「SSTR2025の復路編は琵琶湖一周でどうでしょうか」との提案があった。
日本一の琵琶湖は古くから「淡海」、「水海」、「近江の海」なと呼ばれてきたが、琵琶湖は日本人にとっては昔から海なのである。ということでSSTRを拡大解釈し、琵琶湖を海に見立てて一周することにした。いや〜、おもしろくなりそうだ。
7時30分、敦賀を出発。国道8号で福井・滋賀県境の峠に向かって行く。
山中峠を越える国道161号との分岐点の一帯は旧愛発(あらち)村。ここには日本の古代三関のひとつ、越前の愛発関があったといわれている。そのほかの古代三関というと美濃の不破関、伊勢の鈴鹿関になる。
国道161号との分岐点を過ぎ、長い上り坂を登っていくと県境の峠に到着。この峠に名前はついていないが、峠近くの旧道沿いには新道(しんどう)の集落があるので、「新道の峠」といわれることもある。峠のバス停は「新道野」になっている。
県境の峠には峠の茶屋「孫兵衛」がある。新道の西村家がやっている茶店。残念ながら令和5年11月30日に閉店したが、ここはじつはすごい所。西村家というのは、国の重要文化財にもなっている芭蕉の「おくの細道素龍清書本」を所蔵している旧家なのだ。
芭蕉は「奥の細道」の旅を終えると、5年もの歳月をかけて『おくのほそ道』を書き上げた。それは推敲に推敲を重ねたもので、芭蕉の晩年のすべてをかけた本といっていい。
それを能書家の素龍に清書させたものが「素龍清書本」。芭蕉はその清書本を伊賀上野にいる兄に贈った。
間近に迫った死を予感し、最も世話になった兄に形見として贈ったものだが、それは元禄7年(1694年)の春のことだといわれている。
その年の10月12日(陽暦の11月28日)、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
の辞世の句を残し、芭蕉は大坂(大阪)で死んだ。
51歳だった。
『おくのほそ道』が京都の井筒屋庄兵衛によって出版されたのは、その8年後の元禄15年(1702年)のことだ。
「おくの細道素龍清書本」は数奇な運命をたどることになる。次々と所有者が変わり、最後に敦賀・新道の西村家の所蔵となった。文化元年(1804年)の頃だといわれている。「素龍清書本」が「西村本」といわれるのはそのためだ。
西村家には大変失礼なことだが、
「何で、よりによって…、ここなの?」
といいたくなるような所に残されている。
峠の茶屋「孫兵衛」が営業していた頃は、店の奥に「素龍清書本(複製)」がガラスのケースの中に入れられ、展示されていた。
それを初めて目にしたときは、
「すごいものを見た!」
という感動で、体が震えるような思いをした。
それが今でも忘れられない。
福井・滋賀の県境を越え、滋賀県側を下っていくと道の駅「塩津あぢかまの里」に到着。うれしいことにツバメがとびかっている。ここでは「ごパン」を食べた。近江米を炊いたご飯と小麦粉をまぜ合わせて焼いたパン。「ごパン」の名前がいいではないか。琵琶湖名産の「鮒寿し」も売っているが、残念ながらまだ店はオープンはしていない。
道の駅「塩津あぢかまの里」を拠点にして我々は琵琶湖を時計回りで一周し、またここに戻ってくるのだ。