2024年10月26日
興味深い「鯖街道」
福井・滋賀県境の遠敷(おにゅう)峠には、かつての「鯖街道」が残されている。若狭湾で獲れたサバを京都に運んだ道だ。じつに興味深い鯖街道。その鯖街道を京都から小浜まで走った時の『ツーリングGO!GO!』(2004年10月号)の掲載記事を紹介しよう。
京都から若狭・小浜までの「鯖街道」を走ろうと、東京を午前5時に出発。スズキDR−Z400Sで東名→名神と駆け、午前11時には京都東ICに到着。距離はちょうど500キロ。京都市内に入ると「錦市場」へ。鯖街道を走る前に、どうしても錦市場は見ておきたかった。
錦小路を目指し、鴨川にかかる四条大橋を渡る。錦小路は京都の中心街を東西に貫く四条通りの1本、北側の通り。京都第一の繁華街の新京極から入っていく。目印は錦天満宮だ。
京都の台所といってもいいような錦市場は、この錦小路にある。魚屋、乾物屋、八百屋、肉屋、漬物屋、てんぷら屋、蒲鉾屋といった食料品店が、狭い通りの両側に140軒あまりもずらりと並んでいる。京料理には欠かせない湯波や生麩をつくる店もある。
ここで目につくのは塩サバや焼きサバ、サバの生姜焼き、サバのヘシコ、鯖ずしなどの若狭湾でとれたサバ。そのほかにも一夜干しのササガレイ(若狭ガレイ)や若狭湾産のアジやグチの開きも目についた。これで冬になると、京都人の鍋料理には欠かせないタラが並ぶが、それも「若狭ダラ」なのだ。
錦市場を歩いてみると、京都と若狭の海が直結していることがよくわかる。京都からいくつもの峠を越えて若狭の小浜に通じる鯖街道は、昔から京都に海の幸をもたらすものだった。京都名物の鯖ずしだが、若狭の浜でひと塩されたサバが峠を越えるころには塩がなじみ、錦市場に並ぶころには鯖ずしにはちょうどいい塩加減になっている。
錦市場の「市場歩き」の次は、京都の老舗の「食べ歩き」だ。
四条大橋の東詰にあるのが日本で最も古い劇場の南座。昔は四条河原の一帯は芝居小屋や見世物で賑わったという。南座にあるソバ屋が江戸時代からつづいている老舗の「松葉」。ここの名物のにしんそばを食べた。身欠きニシンの棒煮とソバの取り合わせを考案したのは明治の中頃のことだという。それが評判になり、今では「にしんそば」といえば京都の名物料理になっている。
八坂神社裏手の円山公園にある老舗の「平野屋」では、いもぼう定食のフルコース「花御膳」を食べた。いもぼうというのはエビイモと棒ダラを炊き合わせたもの。このエビイモと棒ダラの取り合わせがいかにも京都らしい。海から遠く離れた京都では、料理に鮮魚を使えないかわりに、塩魚や干物、乾物の料理が発達した。
にしんそばの身欠きニシンにしても、いもぼうの棒ダラにしても、北海の海産物は日本海から京都に入ってくる。京都ではニシンといえば越前の敦賀から入ってくるもので、敦賀にはニシン倉が残されている。このように「市場歩き」と同様、「食べ歩き」をしてみても、京都が若狭や越前の日本海に顔を向けた町だということがよくわかる。
「京阪神」というが、京都と大阪・神戸の決定的な違いは日本海に目を向けているか、いないかだ。
最後に八坂神社前の老舗「いづ重」で、鯖ずしを1本、買った。これは今は食べない。ザックに入れて、明日、食べるのだ。
翌朝6時、京都駅前を出発。中心街を走り抜け、出町から「鯖街道」の国道367号に入った。京都に通じる街道の出入口を「口」と呼び、「京に七口あり」といわれてきたが、出町は「大原口」になる。
国道367号で高野川沿いに走っていくと、あっというまに両側の山々が覆いかぶさるように迫ってくる。
三千院や寂光院のある洛北の大原でDRを止め、待望の鯖ずしの朝食。豪華版の朝食だ。鯖ずしとはひと塩のサバを三枚におろし、それを棒状にしたすし飯の上にのせ、昆布で巻き、竹の皮で包んだもの。これが発酵食品のマジックというもので、時間がたつと魚の生臭さが消え、脂っこさも消え、うま味がぐっと増してくる。さらに日持ちがするようになる。
ひと口、鯖ずしを口に入れたときの食感がたまらない。ほどよい塩加減のサバとすし飯が絶妙にマッチしている。鮮魚のサバでは味わえないさっぱり感がある。ひと切れ、もうひと切れと食べていくうちに、きれいさっぱりと1本、全部を食べた。京都人は昔から祭りや祝いごとがあると鯖ずしをつくってきたというが、「なるほど!」と思わせるうまさがあった。
鯖ずしに大満足したところで途中峠を越えて滋賀県に入る。さらに花折峠を越える。峠を越えながら、若狭の小浜からサバを背負ってこれらの峠を越えた人たちのことに思いを馳せた。
花折峠を越えると安曇川の清流沿いに走る。さすが山国、獣肉の猪肉料理や渓流魚のアマゴ料理、栃餅やワラビ餅などの看板を掲げた店を街道沿いに見る。その中にあって、「鯖ずし」の看板を掲げた店も何軒かあった。
鯖街道の宿場町、朽木から檜峠を越えて国道303号に出ると、さらに水坂峠を越えて福井県の若狭町に入った。福井県は旧国でいうと若狭と越前の2国から成っているが、そのうちの旧若狭国に入ったのだ。
水坂峠下の熊川宿には昔ながらの宿場町の風情がよく残されいる。ここには鯖街道資料館の「宿場館」がある。サバを背負って運んだ「背持ちさん」の姿が復元されている。背持ちは厳しい仕事だったが、「(背負子を背負う)負い縄1本あれば、生活ができる」といわれたほど稼ぎがいい仕事で、男も女もやったという。
男は16貫(約60キロ)、女は半分の8貫のサバを背負い、小浜を朝の8時から9時頃に出発した。わずかな仮眠をとる程度で夜通し歩き、翌日の午前11時前には京都・出町の市場に到着したという。小浜→京都間は18里(約72キロ)。それを重いサバを背負って30時間もかからずに歩き通したのだから、背持ちさんたちは誰もが強靱な体力と精神力の持ち主だった。
京都からの鯖街道を走りきり、小浜にゴールすると、小浜駅近くのビジネスホテル「山海」に泊まった。夕食は隣りの「食堂やまてん」で食べた。
ここがよかった。
アカイカ(マイカ)とアゴ(トビウオ)の刺し身を肴にビールをキューッと飲み干したあと、焼き鯖ずしを食べた。小浜名物の浜焼きサバをネタにした握りずし。浜焼きサバというのは、とれたての新鮮なサバの内蔵をとって竹の串に刺し、浜で炭火を使って焼き上げたもの。そのあとはサバのヘシコを肴にして小浜の地酒「熊川宿」を飲んだ。水のいい若狭は銘酒の産地。「熊川宿」はなんとも口当たりのいい酒で、いくらでも飲めてしまう。最後にサバのヘシコの茶漬けを食べ、女将さんの見送りを受けて店を出るのだった。
翌日は小浜湾のサバ漁を見た。定置網の大敷網でタイやブリなどと一緒にサバをとっている。サバ漁は5月中旬から7月中旬頃までが最盛期だという。
一本釣り漁でもサバをとっている。
「若狭フィッシャーマンズワーフ」裏手の「とれとれ市場」には、小浜湾でとれたばかりの生サバや浜焼きサバがズラリと並んでいた。観光客が次々とそれを買っていく。サバは鯖街道の出発点、小浜の名物になっている。
小浜漁港の岸壁で、かつての鯖街道を行き来した「背持ちさん」を想った。サバは傷みやすい。浜でひと塩したサバを「背持ちさん」は京都・出町の市場を目指し、いくつもの峠を越えて歩きつづけた。まさに峠を越えたサバ。今の時代の高速道路を疾走する鮮魚運搬車と「背持ちさん」の姿が、二重写しになってならなかった。