第4回目(2)2012年3月10日 – 21日
一桁国道が未だ分断されたまま
小名浜を出発。ここからは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎…と4、5キロの間隔で連続する岬をめぐる。それらの岬は漁港とセットになっている。竜ヶ崎の中之作漁港、合磯岬の江名漁港、塩屋崎の豊間漁港…と。それらいわき市内の漁港はどこも閑散としていた。漁は再開できるような状態なのだが、風評被害で漁師さんたちは漁に出て魚を獲っても、水揚げできないのだ。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故の影響の大きさを目の当たりにする。
塩屋崎の南側は豊間海岸、北側は薄磯海岸で、海辺の集落はともに大津波に襲われて全滅した。いわき市内では最も甚大な被害を出したところで、300人を超える人たちが亡くなった。すでに瓦礫は撤去され、家々の土台が残っているだけで、一面の荒野にしか見えない光景が広がっている。住宅の高台への移転はまだ始まってはいない。
これが震災1年後の風化というものなのだろう、あの大津波に襲われた直後の生々しい光景は、まるで幻であったかのように思えてくる。
豊間と薄磯の両集落は全滅したが、岬の灯台の下に建つ美空ひばりの『みだれ髪』の歌碑は無傷で残った。ここはまさに浜通りの奇跡のスポットだ。
暗らや涯なや塩屋の岬
見えぬ心を照らしておくれ
ひとりぽっちにしないでおくれ
『みだれ髪』の歌詞はまるで大津波を予見しているかのようだ。
美空ひばり人気とあいまって、この奇跡のスポットをひと目見ようと、観光バスやマイクロバスが次々にやってくる。大津波の被災地を巡る観光バスを数多く見るようになったのも、震災後1年という時間を強く感じさせた。塩屋崎の灯台は高さ50メートルほどの海食崖の断崖上に立っているが、いまだに立入禁止。それだけ大地震の被害が大きかったということなのだろう。
塩屋崎からは新舞子浜を北上。松林の中の県道382号を走る。カソリのV−ストローム650が先を行き、渡辺さんのセローがフォローする。
県道382号は夏井川にかかる橋に大きな段差ができ、長らく通行止めになっていたが、今は通行可。問題なく走れる。
海岸には大きな瓦礫の山がいくつもできている。この瓦礫処理が終らないことには、復興は遠のくばかり。日本各地で被災地の瓦礫受け入れに反対している住民たちに見せたい光景だ。
四倉で国道6号と合流し、波立海岸へ。
国道沿いの「波立食堂」は大津波に押しつぶされたが、反対側の「波立薬師」は無傷で残った。それ以上に驚かされるのは岬の岩礁に立つ赤い鳥居が残ったことだ。
「なぜ、どうして…」
といいたくなるが、鳥居には何か目に見えない力があるのだろうか。
それとも鳥居の形に何か秘密があるのだろうか。
今回の大津波の被災地では、いくつもの鳥居が同じようにして残った。これはもう「鳥居の奇跡」としかいいようがない。
波立海岸から久之浜へ。
久之浜の海辺の町並みは壊滅状態。ここでは大津波に襲われ、それに追い討ちをかけるように大火に見舞われた。その中にあって秋葉神社だけが残った。一面の荒野と化した被災地にポツンと残った神社。ここでも、またしても「なぜ、どうして?」の声が出てしまう。秋葉神社は火除けの神としてよく知られているが、まるでそれを証明するかのように大津波から残っただけでなく、大火も秋葉神社の手前で止まったのだ。
久之浜から国道6号を北上。いわき市から広野町に入り、広野町と楢葉町の町境まで行った。
そこが爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所の20キロ圏で、警察の車両が国道を封鎖し、一般車両は通行止になっている。同行してくれている渡辺さんの家はここからすぐのところにあるのだが、行くことはできない。
この東電福島第1原発の20キロ圏を折り返し地点にし、国道6号を戻っていく。
それにしても信じられないようなことだが、国道6号という日本の幹線道路が1年たってもまだ通行止めなのだ。ぼくが知る限り、1桁国道がこのように長期間、通行止めになったケースは知らない。
迂回路の県道35号→県道34号も通行止め。東電福島第1原発の爆発事故は福島県の太平洋側の浜通りを完全に分断してしまった。
久之浜に戻ると、小学校の校庭の一角にできた仮設の商店街に寄った。そこの「からすや食堂」で夕食。ラーメンライス&餃子を食べた。ラーメンも餃子もじつにうまかった。
この店は夫婦でやっている。もともとの店は久之浜の町中で、秋葉神社の近くにあったという。2人も秋葉神社が残ったのは不思議だといっている。我々が最後の客。我々が食べ終わると、2人は店の電気を消し、車で仮設住宅のある勿来に向かっていった。
いわき市の北の久之浜と南の勿来では、かなりの距離がある。毎日、大変な距離を往復している。1日も早く久之浜に戻れるのを願うばかりだ。
久之浜から四倉へ。
今晩の宿、四倉舞子温泉の「よこ川荘」に到着。ここはいままでに何度となく泊まった宿。温泉に入ったあとは、渡辺さんと大広間でビールを飲んだ。
「よこ川荘」は海岸のすぐ近くにある宿で、大津波をまともに受けた。
大津波直後の光景を見た渡辺さんは、
「カソリさん、よこ川荘はもう無理ですよ…」
と、わざわざ電話をくれたほど。
それが全国からやってきたボランティアのみなさんの支援もあって、見事に宿を再開させたのだ。
「大広間の50畳もの畳を全部、私が運び出したのよ!」
というおかみさんの話は今や伝説だ。
そんな「よこ川荘」のおかみさんは、「これ、食べなさい」といってマグロやカツオ、ホタテ、タコの刺身の盛合わせを持ってきてくれた。
「鵜ノ子岬→尻屋崎」第1日目の四倉舞子温泉「よこ川荘」では、渡辺さんとしこたま飲んだ。というよりも飲まずにはいられないような気分。復興からは、はるかに遠い東日本大震災から1年後の浜通りだった。