賀曽利隆の観文研時代[33]

常願寺川(1)

 ぼくが常願寺川に行くようにいわれたのは、昨年(1975年)の秋、というより、もう冬に近い11月のことだった。

 暖房が欲しくなるようなこの観文研(日本観光文化研究所)で、次年度の『あるくみるきく』の打ち合わせが行われた。

 観文研所長の宮本常一先生は、日本国内で歩いてみておもしろいであろう地域をいくつか上げられた。

 その中から観文研事務局長の宮本千晴さんに「カソリは常願寺川をやるように」と言われた。同時に伊藤幸司さんは人吉盆地、青柳正一さんは気仙沼をやるように言われた。日本をあまり歩いていない3人に機会を与え、もっと日本を歩かせよう、それによって新しい目を開かせようと、宮本千晴さんはそう考えたのに違いない。

 常願寺川といわれてもぼくは困ってしまった。一度くらいはその名前を聞いたことがあるのだが…。富山県の川だから北陸本線の車窓から見ているはずなのだが、それ以上のことは何も思い出せなかった。

 それより1年前(1974年)の同じ11月、ぼくは3度目の世界の旅となる「六大陸周遊」から帰ってきた。バイクとヒッチハイクで6大陸の63ヵ国をまわり、日本の土を踏むのは15ヵ月ぶりのことだった。

 最後の南米では野宿をしているときに荷物を盗まれ、「南米一周」を断念して日本に帰ってきた。そんないやな思いで帰らなくてはならなかったので、電車の中で立っていられないほど疲れきっていた。しかし、頭の中は冴えていた。そして。「今度こそ日本をまわろう」と思った。世界の国々をまわるうちに、自分の国、日本をあまりにも知らないことに気がついたのである。

 ぼくが初めて日本を飛び出したのは1968年のことで、友人の前野幹夫君とバイクを走らせ、東アフリカ経由でアフリカ大陸を縦断した。その時は日本を飛び出したい一心で、日本にはまったく興味がなかった。

 1年をかけてアフリカ大陸を縦断し、ヨーロッパに渡ったところで、前野君と別れた。彼は最初の計画通り、西アジアを横断して日本を目指した。一人になったぼくはアフリカ大陸に戻り、西アフリカ経由で縦断し、「アフリカ一周」を成しとげた。

 アフリカに夢中になったが、何に魅せられたかというと、大自然よりもその中で生きるアフリカの人たち。人への興味というのは、日本を出る以前のぼくにはまったく考えられないことだった。

「アフリカ一周」から帰ると、ふとしたきっかけで観文研の向後元彦さんに出会い、観文研に出入りするようになった。人との出会いには不思議さを感じるが、世界を歩きまわった向後さんには教えられることが多かった。

 2度目の旅は1971年〜1972年の「世界一周」で、3ルートでの「サハラ砂漠縦断」をメインにし、アジア→アフリカ→ヨーロッパ→アメリカと、13月をかけての「世界一周」だった。こうしてぼくは20代の大半を費やして世界を駆けまわった。

「アフリカ一周」(1968年〜1969年)。モザンビークの砂道を行く
「アフリカ一周」(1968年〜1969年)。モザンビークの砂道を行く
「世界一周」(1971年〜1972年)。パキスタンのパンジャブで
「世界一周」(1971年〜1972年)。パキスタンのパンジャブで
「六大陸周遊」(1973年〜1974年)。北部オーストラリアの泥道を行く
「六大陸周遊」(1973年〜1974年)。北部オーストラリアの泥道を行く