[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 13 エイラート[イスラエル] → テルアビブ[イスラエル]

地中海岸のガザ

 イスラエルの紅海の港町、エイラートからネゲブ地方の中心地ベルシェバを通り、地中海岸のガザへ。イスラエルでのヒッチハイクは楽だ。車の止まってくれる確率が極めて高かった。

 ガザで驚かされたのはユダヤ人の世界からパレスチナ人の世界にガラリと変わったことだ。町のいたるところにイスラム教のモスクがあり、道端では黒い布をすっぽりとかぶった女たちがオレンジを売っている。言葉もヘブライ語からアラビア語に変わり、道行く男たちもダラーンとたれさがったアラビア服を着ている。

 その日はサバット。ユダヤ教徒にとっては休息日となっている土曜日で、休日だ。そのためユダヤ人の町々の店はすべて閉まっていた。ところがガザに来ると、もうサバットなどはまったく関係ない。イスラム教徒にとっての休息日は金曜日だからだ。

 ガザはパレスチナの大きな紛争地点。そのため大型の無線機を背負い、腰には手榴弾をぶら下げ、機関銃を手にしたものものしい装備のイスラエル兵が町中をパトロールしている。そんなパトロールしている兵士の姿を町のあちこちで見かけるのだ。パレスチナ紛争の最前線にやってきたという緊張感が自分の体の中をピピピッと電気のように走っていく。

ネゲブ砂漠を貫く舗装路
ネゲブ砂漠を貫く舗装路
ネゲブ砂漠の標識
ネゲブ砂漠の標識
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
ガザ
シナイ半島に入る

 ガザからシナイ半島に入り、地中海沿いに西へ。できたらスエズ運河の見えるところまで行きたいと思った。西に進むにつれて緑は消え、砂地が広がっていく。乾燥した原野にはわずか4、5ヵ月前の第4次中東戦争の残骸が、無残な姿をあちこちでさらしていた。焼けただれた戦車、原型をとどめない装甲車、るいるいとつづく破壊された軍用トラック…。これでもか、これでもかといわんばかりに戦争の残骸を見せつけていた。

 いったいシナイ半島の荒涼とした原野は、どれだけ多くの人間の血を吸ったことか。ジッと耳をすますと、大地の底からは、あえぎ苦しんでこの世を去った兵士たちの、悲痛な声が聞こえてくるようだった。

シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
シナイ半島に入っていく
戦争の残骸をあちこちで見る
戦争の残骸をあちこちで見る
「戦争」を考える

 このような、すさまじいばかりの戦争の残骸を見せつけられると、「戦争」について、考えずにはいられなかった。

 戦争はなんて非人道的な行為なのだろう。戦争はよくないと、世界中の誰もがわかりすぎるくらいにわかっている。戦場で肉親や友人たちの命が奪われて喜ぶ人はいない。それなのに、どうして戦争をやめることができないのか。

 国と国との強烈なエゴがぶつかりあう国際社会。国というなんとも得体の知れない存在が戦争をなくさないのか。

 戦争で死ぬのはいつも一般の国民だ。戦争をひき起こした責任をとらなくてはならない政治家や高級軍人、さらには戦争で大もうけする経済人たちが戦場で死ぬことはめったにない。国家権力と結びついてぬくぬくと肥え太っていく人間たちが、彼らの利益を守るために戦争を引き起す。そして、その戦争で死んでいくのはいつも一般の国民だ。

 そんな一部人間たちのつくり出す大儀名分に踊らされ、「さー、敵を倒せ!」と繰り返し繰り返しいわれると、みんながそう思い込んでしまうのだろうか。戦争は1人1人の人たちに、強い意志、確固とした信念がないから引き起こされてしまうのだろうか。

 人間にとって一番楽な生きかたは抵抗しないことだ。何ものにも逆らわず、権力に従い、上の人間にいうようにすることだ。人は誰も自分が、子供が、家族が大事だ。しかし、時には勇気を持って大きな流れに逆らわなくてはならない。とくに独裁国家や全体主義の国では、権力に抵抗することは死を意味する。それでも各人が勇気をふるって自分の信念を貫いたとき、きっとこの世から戦争はなくなると、そんなことを考えながらシナイ半島を西に進んだ。

検問所で

 行く手にはあいかわらず、荒れた大地が広がっている。道路沿いには点々とイスラエル軍のキャンプがあり、何台もの戦車がこれみよがしに置かれている。それはシナイ半島を制圧した側の力の誇示のように見えた。

 シナイ半島をさらに西へ、西へと進み、スエズ運河まであと100キロという地点までやってきた。そこではイスラエル軍がバリケードを築き、通行車両を検問していた。そこから先はイスラエル軍兵士と軍から許可証をもらった人、この先の村に住むアラブ人以外は通行禁止だった。

 イスラエル軍の兵士たちはここまで来たのに残念だったなといって冷たいジュースをコップについでくれた。別に何しに来たのかとか、パスポートを見せろとか、一切、いわれなかった。スエズ運河まで行けないのはなんとも残念なことだったが、「まあ、ここまで来ればいいだろう」という満足できる気分でもあった。

バスが止まった!

 その検問所から再び、ヒッチハイクでガザに戻ることにした。しかし、このあたりは交通量がきわめて少なく、おまけに夕暮れが迫っていた。ヒッチハイクを諦め、イスラエル軍の兵士たちに頼んで検問所で野宿しようかと考えているときだった。1台のカラのバスが止まり、運転手が中から手招きしている。シュミエルフィールドさんという年配の人だった。テルアビブで兵士たちを乗せ、スエズ運河地帯まで行って兵士たちを下ろし、テルアビブに戻るところだった。なんともラッキーなことに、テルアビブまで乗せてくれるという。ぼくは運転席のわきに座り、シュミエルフィールドさんにもらったサンドイッチを食べながら彼の話を聞いた。

シュミエルフィールドさんの話

 シュミエルフィールドさんは第2次大戦後、ユダヤ人にとっての「約束の地」、パレスチナにドイツからやってきた。戦時中は大変な迫害を受けたに違いないのだが、あまりそのことにはふれたくないようだった。1948年にイスラエルが建国されたときは仲間たちと大喜びしたという。二千数百年にも及ぶ民族の流浪の歴史に終止符が打たれたのだ。

 パレスチナ戦争(1948〜1949年)の結果、イスラエルは領土を拡大し、国民は一丸となって新生イスラエルのために働いたという。しかし、このパレスチナ戦争のせいで100万人ものパレスチナ難民が発生し、そのことが後の中東情勢に大きな影響を与えるようになってしまった。
「中東の紛争はすでに私たちの手の届かないところにいってしまっている」
といってシュミエルフィールドさんは顔を曇らせる。イスラエルにとってもパレスチナにとっても、この果てしない戦いは必要なのだともいった。

 イスラエルには多様な人たちが集まり、ひとつの国家を形成しているが、たえずこのような緊張状態にないと国がバラバラになってしまう危険性があるという。

 一方、アラブにもそれなりの事情があるという。たとえばエジプトの場合だと、厳しい国内情勢が上げられる。ナイル両岸の、国土の数パーセントにも満たない狭い地域に3000万という膨大な数の人たちが住んでいるが、経済もドン底で、国民の不満は爆発寸前。国をも倒しかねない不満の渦をかわすためにも、「我らの敵、イスラエル」がどうしても必要なのだ。アラブ全体からいえば、イスラエルという天敵はてんでんばらばらなアラブ諸国をまとめる強力な接着剤になっているという。

「サラーム」と「シャローム」

 シュミエルフィールドさんの話を聞いて、ぼくは「国って、何なのだろう」と、あらためて考えてみた。「国益」だといって自己の利益しか考えず、自己の主張のみを押しつけようとするが国家なのではないかと思った。ユダヤ人とアラブ人は戦う必要などまったくないのだ。イスラエルの建国以前はパレスチナの地でお互いに仲よく暮らしていたではないか。

 アラブ人はあいさつに「サラーム(平和)」といい、ユダヤ人は「シャローム(平和)」という。朝から晩まで「サラーム」、「シャローム」といっている人たちが、何でお互いに銃を向けあわなくてはならないのか。

シュミエルフィールドさんの家に行く

 シュミエルフィールドさんは途中で何度となく兵士を乗せた。それは彼に限ったことではない。イスラエルでは兵士たちがいたるところでヒッチハイクしていたが、人を乗せる余裕のある車は、次々と彼らを乗せてあげていた。町の人たちが道端のテーブルを並べ、軍のトラックやジープなどが通るたびに、飲み物や果物をふるまっているのを見たこともある。イスラエルの国民がまさに一丸となって国を守っているといった印象を受けた。

 テルアビブの市街地に近づくと、シュミエルフィールドさんのバスは一転して市内バスに早変わりする。停留所ごとに止まり、乗客を乗せる。もちろん料金を取ってである。そこにユダヤ人の持つ合理性を見る思いがした。

 終点の車庫に着くと、シュミエルフィールドさんは事務所で報告し、料金箱を渡す。それが終わるとぼくを家に連れていってくれ、奥さんが用意してくれていた夕食をご馳走になった。

 食事がすむと、「さー、これからナイトクラブに行こう」といわれビックリ。何しろぼくの格好といったらひどいもので、ジーパンはすでにボロボロで、膝から下を切って半ズボンにしていた。ナイトクラブとは縁遠いものだ。

 奥さんは「お風呂がわきましたよ。さあ、どうぞ」とバスルームに案内してくれた。

「よーし、この格好で一緒にナイトクラブとやらに行ってやろう」
 と覚悟を決めて風呂に入らせてもらったが、ぼくが風呂から上がると、奥さんは「これを使って下さい」といってズボンとセーター、ソックスを用意しておいてくれた。

 ナイトクラブには熱気が充満していた。若い人たちに混じって夫妻は仲むつまじく音楽に合わせて踊っている。そこには戦争の匂いなどまったくなかった。ビールのグラスをかたむける男たち、踊りに夢中になっている若者たち、熱く語り合う恋人たち、そんな人たちを見ていると、「(中東全域に)一日も早く、真の平和が訪れますように!」と願わずにはいられなかった。

 ナイトクラブではほんとうに楽しい時間を過ごすことができた。そのあとシュミエルフィールドさんの家に戻ると、夫妻とビールを飲みながら語り合い、その夜は泊めてもらった。なんとも心に残るシュミエルフィールドさんとの出会いだった。