[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 3 ダルエスサラーム[タンザニア] → ルサカ[ザンビア]

旧道に入り込む…

 タンザニアの首都ダルエスサラームから、ザンビアの首都ルサカに向かった。ルサカまでは2000キロある。ダルエスサラームの中心街から炎天下、大汗をかきながら歩き、郊外に出た。そこで車を待つ。うまい具合にあまり待たずにドドマまで行くトラックに乗せてもらえた。日本製のいすずのトラックで運転手はサンバラさん。チャリンゼを通り、ダルエスサラームから200キロのモロゴロでトラックを降りた。サンバラさんはここからドドマへの道に入っていく。ぼくはモロゴロのガソリンスタンドのすみで寝かせてもらった。

 翌日は大失敗。モロゴロからザンビア国境に向かったが、新道ができていたのを知らずに、旧道を歩いてしまった…。そのため交通量はきわめて少なく、ただひたすらに歩くしかなかった。やっと車が来たと喜んだらバスだった。ところがそのバスは止まり、運転手は手招きをしている。「乗れ」というのだ。ありがたく終点の村まで乗せてもらった。

 バスの終点の村からさらに歩きつづける。モロゴロから30キロほどの地点でやっと新道に合流した。

青年海外協力隊の山下さん

 そこでは1時間ほど待ち、ザンビア国境に近いムベアの町まで行く車に乗せてもらった。ムベアまでは約700キロ。プジョーの新車で、時速100キロ以上のスピードで突っ走る。ミクミ・ナショナルパーク内に入ると、車の窓越しにゾウやキリン、シマウマなどの野生動物を何度となく見た。

 インド洋に流れ出るルフィジ川の支流、グレート・ルアハ川を渡り、イリンガの町を通り、まだ明るいうちにムベアに着いた。

 プジョーを運転していたアフリカ人は「この町には日本人が住んでいる。今晩はそこで泊めてもらったらいいよ」といって、近くにいた子供を呼び、ぼくをその日本人の家に連れていくようにといった。どうしようか迷ったのだが、断りきれずに子供のあとについていった。

 その日本人は青年海外協力隊の山下さん。熊本県の出身の方で、突然の訪問なのにいやな顔もせずに、ぼくを迎え入れてくれた。夕食には山下さんの手料理をご馳走になった。ご飯と味噌汁の味が胸にしみる。ムベアでは良質な米がとれるという。

 夕食後、山下さんといろいろ話した。

 日本に帰ったとき、友人たちと話していても、何か物足りなさを感じて仕方なかった。自分たちがこうしてタンザニア開発の手助けをし、タンザニアが開発されていくにつれて、タンザニア人たちはほんとうに幸福になっていくのだろうか。日本政府の海外援助に対する及び腰が日本から遠く離れたムベアあたりにいると、手にとるようによくわからる。そんな山下さんの話の数々が心に残った。

 翌朝、ザンビアに向かって出発するつもりだったが、「もう1日、ここでゆっくりしていったらいい」といわれ、山下さんの好意に甘えることにした。

 次の日は1日中、山下さんが持っている本を読ませてもらった。活字に飢えているので、無性に本を読みたくなるのだ。1日で竹山道雄の『ビルマの竪琴』、三浦綾子の『塩狩峠』、松本清張の『分離の時間』、『速力の告発』と4冊の本を読んだ。

タンザン鉄道

 山下さんに別れを告げ、ザンビア国境へ。110キロほど。車はけっこう通るのだが、ヒッチハイクは成功しない。通過する車の大半はタンザン鉄道の建設資材を積んだ中国製のトラックだ。道路のわきには鉄道建設の中国人キャンプがあり、試運転をしているのだろう、「東方紅」の文字の入った青と白のツートンカラーのジーゼルカーがゆっくりと走っている。

 鉄道が道路をまたぐところでは、レールが敷かれていた。すさまじいばかりの人海戦術で、強い日差しのもと、アフリカ人と一緒に中国人もハンマーを振るっていた。

 中国という国はすごい国だ。1968年の「アフリカ大陸縦断」のときは、「タンザン鉄道」は調査段階で、測量する中国人のキャンプをあちこちで見た。そのとき出会った外国人たちは口々に「中国にできる訳がない」とタンザン鉄道には冷淡だった。また、まことしやかに、中国人キャンプでは南のモザンビークやローデシア、南アフリカに送り込まれるゲリラ部隊が養成されているといった噂も流れていた。

 タンザン鉄道は1970年になって本格的な工事が始まった。中国政府は2万人近い中国人技術者や労働者を送り込み、1977年の全線開通を目指したが、4万人以上といわれるアフリカ人労働者との関係も良好だとのことで、全線の開通は予定よりもはるかに早くなるだろうとのことだった。

 2、3時間、歩いただろうか、ンボジという所までいくトラックに乗せてもらった。その途中では、いたるところでタンザン鉄道の工事現場を見た。ンボジからザンビア国境のトゥンドゥマへ。真昼の太陽のもと、懸命になって歩いた。タンザニア軍のトラックに乗せてもらい、さらにZTRS(ザンビア・タンザニア・ロード・サービス)の大型トラックに乗せてもらい、国境のトゥンドゥマに到着した。

ザンビアに入国

 タンザニア側のイミグレーションで出国手続きをし、歩いてザンビア側に入り、入国手続きを終える。国境の店で残ったタンザニアのシリングをザンビアの通貨クワチャに替えてほしいと頼んだが、どこでも断られた。タンザニアのシリングはもうほかの国では使えないお金になってしまった。

 ザンビアの通貨クワチャをなんとか手に入れようと、もう一度、国境事務所に戻り、税関の役人に「なんとか両替してもらえませんか」と頼み込んだ。すると年配の人のよさそうな係官が個人的にだがといって、20シリングを両替してくれた。助かった。さっそく食堂に入り、肉入りの汁のかかったご飯を食べる。それが50ングウェ。日本円で200円ほどだ。ザンビアは食料の乏しい国。ザンビアに入ったとたんに食べ物の値段が跳ね上がる。タンザニアだったら2シリング(約80円)も出せば食べられるような食事が、2倍以上の値段になった。

 こうしてナイロビを出発してから7日目にザンビアに入ったが、ここまで交通費をまったく使わずにやってきた。使ったお金といったら食費に7シリング50セント(タンザニア)と50ングウェ(ザンビア)、家に出した手紙が2シリング50セントで合計すると日本円で700円ほどだ。

 夕方になると空は急に曇りだし、雷が鳴りはじめた。やがて激しい雷雨になる。近くに小学校があり、そこでひと晩、寝かせてもらった。

ベンバ語を教えてもらう

 翌朝、首都ルサカを目指してヒッチハイクを開始。きれいに舗装されたハイウエイを南に向かって歩いていく。タンザン鉄道建設の資材を運ぶ中国製のトラックは何台も通るが、乗せてはもらえない。

 昼近くまで歩き、小さな村で止まった。そこには店が1軒。何か食べるものが欲しかったが、口に入るものといったらコカコーラとペプシコーラだけ。店の女の子は英語がわかるので、「何か食べられるものはない?」と聞いてみた。すると彼女は庭のマンゴーの木から色づきはじめた実を2つ、3つ、取ってきてくれた。まだ熟れてはいなかったが、十分に食べられる。ありがたくそのマンゴーをもらった。

「さー、行くか」
 と腰を上げると今、食事をつくっているので「もうすこし待って」と彼女はいう。

 その間に彼女にザンビアのベンバ語を教えてもらった。ニャンジャ語とともに、ザンビアでは一番重要な言葉だ。

「おはよう」がマポレイニ、「こんにちは」がマオンベニ、「こんばんは」がイチェングロポ、「おやすみ」もイチェングロポ、「ごきげんいかが」がモリシャーニ、「ありがとう」がナトテラ、「さようなら」がシャレニュポ、「日本から来ました」がンフミコ・ジャパン、「ルサカに行きます」がンデアコ・ルサカ、「水」がアメシン、「食べ物」がンワジ、「私の名前はタカシ」がキシナ・タカシ…と、こんな具合だ。

 彼女は16、7歳くらい。英語は学校で習ったという。名前はイクシルダ・チャンダ。ベンバ語を教えてもらっている間に食事ができたという。なにしろ腹ペコだったので、遠慮なくご馳走になった。

 トウモロコシの粉を熱湯で煮固めて団子状にしたもので、それを青菜の入った汁につけて食べる。腹いっぱいいただいた。元気が出たところで、少女に別れを告げ、また南に向かって歩きはじめた。

ザンベジ川とコンゴ川の分水界を行く

 やっとヒッチハイク成功。400キロほど南のムピカまで行く車だった。幌をつけたトヨタのピックアップで運転手はンチョナさん。車の中では彼といろいろと話した。ンチャナさんが熱弁をふるったのは、「南は許せない!」ということ。南とはローデシアや南アフリカの白人政権のことだ。

「私たちはたとえ自分の国、自分たちの生活が犠牲になっても、南の開放に力を貸さなくてはならない」

「ザンビアが独立する前、北ローデシアの国名で白人に支配されていたころは、私たちはいいたいこともいえず、ビールもウイスキーも自由には飲めなかった。ましてや、今のように自動車を持つことなど、まったく考えられなかった」

「アフリカの大地はアフリカ人のもの。アフリカ人の手で真の独立を勝ち取らなくては」

 タンザニア国境からムピカに通じる道のあたりがインド洋に流れ出るザンベジ川と大西洋に流れ出るコンゴ川の分水界になっている。ただし世界の大河を分ける分水界とはいっても、見た目には広々とした平坦な大地だ。

 ムピカに着いたときはすっかり日が暮れていた。ひと晩、町の警察で泊めてもらう。なんとも親切な警官で、ひと部屋あけてくれ、床にマットレスを敷いてくれた。そのおかげでぐっすりと眠ることができた。

奇跡の再会

 翌日は朝から雨が降っていた。警官にお礼をいってムピカを出発。ルサカに向かって歩きはじめるとまもなくベンツが止まってくれた。560キロ南のルサカまで行くという。なんともラッキーなヒッチハイクだ。運転しているのはドイツ人のブルンスさん。西ドイツ政府から派遣された農業技術者で、ザンビアの前には、インドに6年半いたという。

「ローデシアや南アフリカの南部アフリカの問題は、今でも手遅れなのに、これ以上解決が遅れたら手のほどこしようがなくなる。人種間の戦争で多くの人命が失われるだろう」
 と、ブルンスさんは南部アフリカの問題を心配し、白人と黒人が平等に暮らす以外に、この問題を解決する道はないといった。

 コパーベルト(産銅地帯)に通じる道との分岐点のカピリンポシに昼前に着く。レストランで昼食をご馳走になり、ザンビアの首都ルサカにはまだ日の高いうちに着いた。

 ルサカに到着すると、ブルンスさんには「ウチに来ないか」と誘われた。ありがたく好意を受け、ルサカ郊外のブルンスさんの家に行く。広々とした庭には色とりどりの花々が咲いていた。ブルンスさんと奥さんの間には2人の男の子と2人の女の子と、全部で4人の子供がいた。

 こうして旅をつづけていると、時として、信じられないようなことが起きる。

 夕食の前に、「まず、さっぱりしたらいい。シャワーでも浴びたらいいよ」といわれた。ところがあいにくと電気の配線工事がおこなわれていてバスルームは使えなかった。するとブルンクスさんは「隣りの家に行こう。同じドイツ人でね。全然、気を使うことはない。彼は私よりも若いけれど、よく一緒に食事をするんだ」といって、隣りの家にぼくを連れていく。出てきたドイツ人を見て、一瞬、我が目を疑った。30なかばの背の高い、ガッチリした人。

「サワさんだ!」
 と、確信した。

 1969年8月、ぼくはバイクで西アフリカ・セネガルのダカールを出発し、南アフリカのケープタウンを目指した。マリ、コートジボアール、ガーナ、トーゴ、ダホメーと通り、ナイジェリアに向かった。しかし、ナイジェリアは激しい内戦の最中で、ナイジェリアへの入国は認められなかった。そこでやむをえずダホメーのコトヌーに戻り、船でナイジェリアを迂回し、カメルーンのドアラに渡ることにした。

 コトヌー滞在中のことだ。ランドローバーとフォルクスワーゲンのキャンピングカーでサハラ砂漠を縦断してきた4人のドイツ人グループと出会った。お互いの情報交換し、そのときはそのまま別れた。

 それから半月後、カメルーンから中央アフリカに入り、首都のバンギをバイクで走っていると、後ろからクラックションを鳴らしながら1台のランドローバーが追いかけてきた。運転していたのはコトヌーで出会ったドイツ人グループの1人だった。それがサワさん。彼に連れられ、友人だというドイツ人の家に行った。サワさんらは赤道アフリカを横断し、東アフリカに抜けるつもりだったが、メンバーの1人が重いマラリアにかかり、サワさんを残して3人はドイツに帰った。

 ぼくはバンギからウバンギ川→コンゴ川の船でブラザビルまで下る予定にしていたが、船が出るまで10日ほど待たなくてはならなかった。その間、サワさんと一緒に友人の家に泊めてもらったのだ。

 サワさんはそれ以前にもリビア砂漠を縦断したり、青ナイル源流のタナ湖(エチオピア)を歩いて一周したりしていた。

 ブルンスさんの隣りの人は、そのサワさんにそっくりだった。

 ぼくは意を決して聞いてみた。

「失礼ですが、車でサハラ砂漠を越えたことがありますか?」
「ええ」
「もしかして、サワさんではありませんか?」
「あー、あのときの。コトヌーで会った日本人の…。バンギでも一緒でしたよね」
 と、ビックリした顔だ。ブルンスさんも信じられないという顔をしている。

 1969年9月にバンギで別れたあと、サワさんはコンゴから東アフリカ、エチオピアと1年あまりアフリカをまわったという。

 サワさんは気の毒にも肝炎にやられていた。黄疸の症状がひどく、白眼も黄色くなっていた。すでに病気になってから1ヵ月がたつという。

 ぼくはシャワーを浴びさせてもらうと、サワさんの1日も早い病気の回復を願い、ブルンスさんの家に戻った。