[1973年 – 1974年]
アフリカ南部編 7 ダーバン[南アフリカ] → 喜望峰[南アフリカ]
ドラケンスバーグ山脈の峠越え
インド洋の港町、ダーバンをあとにし、N3(国道3号)で内陸部に入っていく。
ナタール州の州都ピーターマリツバーグを過ぎると、南部アフリカの屋根、ドラケンスバーグ山脈の山々がぐっと迫って見えてくる。ナタール州とケープ州との海岸線に平行して、北東から南西へと山並みが連なっている。南部アフリカの地形はスープ皿のようなもので、縁が高くなっている。そのスープ皿の縁は西側よりも東側の方がはるかに高くなっている。東側の一番高い部分がドラケンスバーグ山脈の最高峰、タバナヌトレンヤナ山で標高3482メートル。この山を含めてドラケンスバーグ山脈には3000メートル峰が全部で9峰もある。
ダーバンから250キロ北のレディースミスで、国道は2本に分かれる。N3(国道3号)はそのまま北へ、ヨハネスバーグへと通じている。もう1本がN5(国道5号)で、レディースミスから西に延びている。このN5に入り、レディースミスから50キロほど走ったところでドラケンスバーグ山脈のファンレーネン峠を越えた。ドラケンスバーグ山脈の峠の中でも一番有名な峠で、このほかに主な峠として10峠余がある。
ファンレーネン峠を越えてナタール州からオレンジ自由州に入ると、天気は一段とよくなり、真っ青な空に白い綿のような雲が浮かんでいる。高原を吹き渡る風がなんともいえずにさわやかだ。
国境で迎えた新年
ベスレヘムの町でN5(国道5号)を離れ、もうひとつの小国、レソトに向かっていく。国境に近づくと、舗装路は途切れ、ダートになった。
行く手にはなだらかな山並みが連なっている。その向こうはドラケンスバーグ山脈。国境のカレドンズ・ポイントに到着。オレンジ川の源流のひとつ、カレドン川が流れている。オレンジ川は南部アフリカではザンベジ川に次ぐ大河で全長2090キロ。最後は南アフリカと南西アフリカの国境となって大西洋に流れ出る。水資源がそれほど豊かでない南アフリカにとっては、オレンジ川はきわめて重要な川。このカレドン川を含めて、その源はレソト領内のドラケンスバーグ山脈である。
南アフリカの出国手続きをするために国境のイミグレーションに行くと、なんとすでに閉まっていた。まだ日も沈んでいないので、おかしいなあと思ったら、国境が開いているのは午前8時から午後4時までだった。こういうときは待つ以外にない。
GT550を停めると、そのわきにシートを広げ、シュラフを敷いて野宿の用意をする。ゴロンと横になると、きれいな夕焼け空を見上げた。幾筋もの細長い雲が、残照を浴びて輝いていた。日が沈み、暗くなると、今度は満天の星空に変わった。
その日は大晦日。近くの集落からは太鼓の響きにのって、歌声が聞こえてくる。目前に迫った新年を祝い、火を囲んで歌い踊っている村人たちの姿が容易に想像できた。
シュラフにもぐり込んで星空を見上げた。集落から聞こえてくる歌声には、一段と熱が入る。それを聞いていると、無性に日本の正月がなつかしくなってくる。雑煮の味が恋しくなってくる。ちょっと辛い大晦日の夜だった。
夜中に目をさましたのは、異様な空気を感じたからだ。すでに集落からは太鼓の音も歌声も聞こえなかった。夜空のあちこちで稲妻が光り、冷たい風がヒューッと吹き抜けていく。じきに雨が降りだし、逃げる間もなく土砂降りになった。暗い夜空を一瞬、明るくして稲妻が何本も走り、大地を揺るがすような雷鳴が轟き渡る。
「とんだ新年だ」
と、腹立たしくなってくるが、天に怒ってもどうしようもない。
逃げ込むところもないので、体もシュラフもびしょ濡れになった。シートを頭からかぶり、バイクのわきでじっとしていた。もう、なすすべもない。幸いなことに雷雨はそう長くは降りつづかなかった。稲妻も雷鳴も遠ざかり、やがて雨はやみ、また星が見えてきた。だが、体もシュラフもずぶ濡れなので寝ることもできず、うずくまったまま、うつらうつらしながら夜明けを迎えた。
うれしいことに、猛烈な雷雨がうそのような晴天で、日が昇ると濡れた服を脱いで乾かす。シュラフも広げて干した。カラッとした気候なので、国境が開く8時までには大分、乾いた。
レソトに入国
8時になると、イミグレーションに行き、係官に「ハピー・ニューイヤー!」と新年のあいさつをして、アフリカの出国手続きをする。晴々とした気分。カレドン川にかかる橋を渡ってレソトに入る。それほど大きな川ではない。正面には立ちふさがるような岩山が見える。カレドン川が国境で、橋を渡ったところがレソト。そこにイミグレーションがあった。
レソトに入ると同時に、子供たちがワーッと集まり、「ギブ・ミー・マネー」と声をかけてくる。大人たちもやってきて「ギブ・ミー・マネー」だ。
同じ小国といっても、スワジランドとはえらい違い。スワジランドではこのような経験は1度としてなかった。「山国のレソト」はきれいにいえば「アフリカのスイス」。だが、見捨てられたような大地にしがみついて生きているレソトの人たちは貧しい。それが「ギブ・ミー・マネー」の大合唱となって表れている。
レソトはおもしろい国だ。何がおもしろいかというと、南アフリカというひとつの国にぐるりと囲まれている。アフリカではレソトのほかにはセネガルに囲まれたガンビアがあるが、ガンビアの場合だと、一方は大西洋に面している。
レソトは面積が3万平方キロという小国。日本でいえば四国よりも大きく、九州よりも小さい。スワジランドと同じような王国だ。人口は100万人ほどで、その大半はバスト族。1966年にイギリスから独立するまではバストランドと呼ばれていた。
レソトは出稼ぎの国で、国民の2割近くが南アフリカに出稼ぎに行っている。出稼ぎたちの南アフリカからの送金が、国の経済を支えているといっても過言ではない。レソトの通貨もスワジランド同様、南アフリカのラントで、地理的にも経済的にも南アフリカに依存しなくては国としてやっていけない。レソトの公用語は英語とセソト語だが、セソト語が公の場ではずいぶんと使われている。
レソトの首都マセル
国境のすぐ近くの町がブタブテ。そこから南西へ、レソト唯一の幹線道路が首都のマセルに通じている。とはいってもダート。アフリカ南部の道路地図を見るとひと目でわかることだが、南アフリカの道路網は網の目状に発達しているのに対して、南アフリカに囲まれたレソトはぽっかりと空白になっている。それほどに道路がない。
マセルに向かって走っていると、アメリカ西部を走ったときのことが思い出されてならなかった。ここはアメリカ西部のインディアン保留地と「同じだなあ!」と思った。
南アフリカでは青々とした牧草地帯や豊かな農地を見たが、国境を越えてレソトに入ったとたんに、カサカサに乾いた荒野へと一変する。レソトの人たちは、この荒野で主食用作物のトウモロコシを細々とつくっている。アメリカ西部でも緑が薄れたなと思うと、そこがインディアン保留地だったということがよくあった。
レリベの町を過ぎると、マセルへの幹線道路は舗装路になった。ひと筋の舗装路がゆるやかに波打つ高原を一直線に貫いている。上がまっ平なテーブル状の岩山が高原のあちこちにポコッ、ポコッとのっている。途中で見かける集落には円形の家が多い。屋根は草ぶきで壁は土か石。牛や羊を飼っている家が多かった。
レソトの首都マセルに到着。スワジランンドの首都ムババネよりもさらに小さな町。首都をひとまわりしたあと、マセルの町外れを流れるカレドン川を見に行く。そこにかかるマセル橋が南アフリカとの国境になっている。
マセルからさらにレソト国内を走り、南に80キロほど行ったマフェターグの国境でレソトを出国し、再度、南アフリカに入った。南アフリカに入ったとたんに道がよくなった。
再度、南アフリカを走る
山国レソトから南アフリカに再入国したのは正月の2日のこと。日本と違って正月らしい気分もなく、おまけに季節もここでは真夏なのである。ただしこのあたりは南緯30度前後、標高1500メートルほどの高原地帯なので、それほど暑くはない。
南アフリカの国境の町、ウェペネールはシーンと静まりかえっている。スーパーマーケットが開いていて、冷えたコカコーラを買って飲んだ。
ここではギリシャ人の店の主人と話した。親類を頼って移民したという。
「この国に移民する前に、人種差別の話は聞いていたけれど、これほどひどいとは思わなかったよ。それも白人と黒人だけでなくて、同じ白人の中でも、ものすごい差別があるのだ。私らのようなギリシャ人は、この国ではいつも低く見られている。金をいっぱい貯めたら、さっさとギリシャに帰りたいね」
ウェペネールからN6(国道6号)に入り、アリウル・ノースの町へ。その町の手前でレソトから流れてくるオレンジ川を渡った。南アフリカ最大の大河、オレンジ川は高原地帯を悠々と流れ、川には長い銀色の橋がかかっていた。オレンジ川がオレンジ自由州とケープ州の境。川を渡ってケープ州に入り、アリウル・ノースの町に入っていった。
南アフリカはオレンジ自由州とケープ州、それとトランスバール州、ナタール州の4州に分かれているが、その中でもケープ州が最大で、国土の6割近くを占めている。
ドラケンスバーグ山脈の峠越え
アリウル・ノースの町は、きれいに晴れ渡り、雲ひとつなかった。ところが60キロ南のジェームスタウンを過ぎると、急に曇りはじめ、冷たい風が吹いてきた。行く手にはドラケンスバーグ山脈がたちふさがり、山々には気味悪いほどの黒雲がたれこめている。標高1815メートルのペンホーク峠に向かって走る。峠道にさしかかり、峠を登っていくと、急激に気温が下がる。夏とは思えないほどの寒さで、GT550に乗りながらガタガタ震えてしまった。そのうちにすっぽりと霧に包まれた。
視界はきわめて悪く、突然、霧の中に対向車のライトを見たときはギョッとし、思わずブレーキをかけたほどだ。
やっとの思いでペンホーク峠を越える。
峠を南へと下っていくと、霧はすこしづつ切れ、ドラケンスバーグ山脈のゆるやかな山並みが見えるようになってきた。天気は悪い。雨雲が重く垂れ込め、細かい雨が降りつづいている。
夕方、クイーンズタウンに到着。すっかり寒さにやられ、もうそれ以上、バイクに乗る元気もなく、町外れの鉄道の駅構内にある駐車場で夕食のパンをかじると早々と寝た。ありがたいことに、その駐車場には屋根があり、雨に濡れることなく、シュラフにもぐり込んで眠れた。
N2(国道2号)を行く
翌日も雨…。クイーンズタウンから南に150キロ走ると、N6の終点のキングウイリアムズタウンに到着。そこでN2(国道2号)にぶつかる。N2を西に行けばケープタウンの方向だが、その前に東へ、港町のイーストロンドンまで行ってみた。
南アフリカには東から西へ、ダーバン、イーストロンドン、ポートエリザベス、ケープタウンと4つの主要な港があるが、イーストロンドンは4港の中では一番小さい。イーストロンドンでは町をぐるりとひとまわりし、港にも行った。岸壁には日本の貨物船も見られた。
イーストロンドンの北側を流れるグレートケイ川の向こうはバンツースタンのトランスケイ。南アフリカの人種差別政策の中でもとくに重要なのは「バンツースタン計画」。政府はある程度の自治を与えて黒人のコーザ族をトランスケイに押し込めようとしている。
イーストロンドンを出発。N2を西へ。キングウイリアムズタウンまで戻ると、さらに西へ、西へとケープタウンに向かって走った。イーストロンドンから320キロ、ポートエリザベスに到着。ここでもイーストロンドンと同じように町をぐるりとひとまわりした。中心街には高層ビルが建ち並び、中心街から郊外へと高速道路が延びている。イーストロンドンよりも大きな港には、何隻もの貨物船が停泊している。その中には3隻もの日本の貨物船が見られ、日本と南アフリカの経済的な強固なつながりをあらためてみせつけられた。
ポートエリザベスを過ぎると、N2は海沿いのルートになる。山々が海岸近くまで迫り、目の前には次々ときれいな風景が展開される。山があって、高原があって、峡谷があって、森林があって、湖があって…と、まるで絵の中を走っているかのような錯覚にとらわれる。インド洋岸を走るこの一帯のN2は「ガーデンルート」と呼ばれているが、まさにピッタリの愛称だ。
アフリカ大陸最南端のアグラス岬
ポートエリザベスから340キロ西のジョージの町外れで野宿し、翌日、アフリカ大陸最南端のアグラス岬を目指した。モーゼルベイ、スウェレンダムと通り、ジョージから西に260キロ走ったところでN2を左折。ゆるやかに波打つ丘陵地帯をバサーッと断ち切るかのように道が一直線に延びている。アップダウンの連続。大牧場や大農場がつづく。大牧場の牧草は枯れ、一面、茶色の世界になっている。気候が変わったのが、よくわかる。このあたりのアフリカ大陸南西端は地中海性気候で、夏は雨が少なく、冬に多い。
ブレダースドープの町からアグラス岬へ。岬に到着すると、灯台のわきの道を走り、岬の先端まで行った。ゴツゴツした岩場にバイクを停めた。
アグラス岬は大西洋とインド洋の2つの大洋を分けている。
「右側が大西洋、左側がインド洋。今、2つの大洋を見ている!」
そう思うと、地球をポケットからとり出し、自分の手のひらでコロコロころがしているかのような、気宇壮大な気分になってくる。
もちろん目の前の青い海に境目などあるわけもないが、ブーツを脱いで海に入ると、岬の右側で海水をすくって顔を洗い、次に岬の左側で同じようにして顔を洗った。
「これで大西洋とインド洋で顔を洗った!」
といって一人で喜んだ。
アグラス岬に着いたときは晴れ渡り、雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。
だが、このアグラス岬沖というのは、船乗りにとっては大きな難所。アフリカ大陸の東側を北から南に流れる暖流のアグラス海流と、アフリカ大陸の西側を南から北に流れる寒流のベンゲラ海流が激しくぶつかり合い、しばしば濃霧に見舞われるからだ。
1969年にアンゴラのルアンダ港からモザンビークのロレンソマルケス港までポルトガル船に乗った。そのときアフリカ大陸の西岸は寒流のベンゲラ海流の影響で寒くてとてもではないが甲板に出られなかった。船室には暖房が入った。それがケープタウン港を過ぎ、アグラス岬沖にさしかかると、急激に気温が上がった。アグラス岬沖は濃霧で、船はグッと速度を落とし、何度も警笛を鳴らした。
アグラス岬の岩の上に座り、大海原を見ていると、この沖を通ったときの船旅がなつかしく思い出されてくるのだった。
なんとも立ち去りがたかったが、アグラス岬に別れを告げ、ブレダースドープの町に戻った。そこからN2のカレドンへ。25キロ走ったところでN2から海沿いのルートに入り、ケープタウンに向かった。海がインド洋から大西洋に変わった。ファルス湾に沿った道は、海にスーッと落ち込む山々の中腹を縫っている。眼下には紺青の海、その向こうにはケープ半島の山々と突端の喜望峰になる。
すばらしい風景を眺めながらGT550を走らせ、南アフリカ第2の大都市、ケープタウンに到着。ケープ半島の付け根に位置するケープタウンの周辺には、ヨハネスバーグと同じように、いくつもの衛星都市がある。中心街を走ったが、どこからでも見える上のまっ平なテーブルマウンテン(1100m)が印象的。ケープタウンからはケープ半島突端の喜望峰まで行った。