[1973年 – 1974年]
アフリカ南部編 5 タナナリブ[マダガスカル] → スプリングス[南アフリカ]
「世界一周」中の福田さん
1973年12月25日、クリスマスの日にマダガスカルのタナナリブから南アフリカのヨハネスバーグへSA(南アフリカ航空)191便で飛んだ。
機内では日本人旅行者の福田さんという65歳の方と席が隣どうしになった。福田さんとはタナナリブのイバト国際空港で会ったのだが、最初に見たときは日本人かどうか判断がつきかねた。中国人かもしれない、ベトナム人かもしれないと思った。だが、その人がバッグから日本のパスポートを取り出したときに、思いきって声をかけた。その人が東京の福田さんだった。
福田さんもきっと驚いたことだろう。なにしろぼくは日に焼けて色が真っ黒。おまけに汚れきった格好をしている。そんな男にマダガスカルの空港で日本語で話しかけられたのだから。福田さんは会社を経営していたが、現役を引退し、一人で飛行機を乗り継いでの「世界一周」の旅を楽しんでいた。ヨハネスバーグで乗り換え、ブラジルのリオデジャネイロに飛ぶところだった。そのようないきさつがあったので、チェックインのときに隣どうしの席にしてもらったのだ。
飛行機はモザンビーク海峡をひとっ飛びし、南アフリカのダーバンの上空にさしかかる。まばゆいばかりの夜景が眼下に広がっている。世界中が第4次中東戦争後のオイルショックで大揺れに揺れていたが、ダーバンの夜景はまるでそれをあざ笑うかのようで、福田さんは「資源のある国は違いますねえ」とため息まじりにいった。
南アフリカに入国
飛行機はヨハネスバーグの前にインド洋の港町、ダーバンに寄っていく。
「いよいよ、アフリカ大陸だ」
と、すごく気分が高揚する。南アフリカの入国手続きは、ここでおこなわれた。南アフリカといえば、「人種差別の国」という強烈な先入観念がある。ぼくも福田さんも、白と黒の激しい区別にとまどった。空港内のトイレは白人用、非白人用と区別されているので、気の毒なことに福田さんは「どっちに入っていいのかわからないから…」というのでトイレを我慢したという。
ダーバンを飛び立つと、じきにヨハネスバーグ。さきほど、ダーバンの夜景のすごさに驚いたが、ヨハネスバーグの夜景はその比ではなかった。広大な平坦な大地全体が、光り輝いていた。
福田さんは翌日の便でリオデジャネイロに飛ぶことになっていた。航空会社はホテルを用意しているはずなのだが、時間がすでに遅いということもあってか、それらしき係員はいなかった。ぼくがかわりに聞いてまわったところ、空港内のホテルだそうで、福田さんには何度もお礼をいわれた。そんな福田さんと「お互いに体に気をつけて旅をつづけましょう!」と握手をかわして別れた。
空港のターミナルビルを出ると、ヨハネスバーグの市内に通じるハイウエーを歩いた。
「これで、やっと南アフリカに入れたなあ…」
と、感慨深かった。
南アフリカのビザには泣かされた…
オーストラリアでは南アフリカのビザを取るのにずいぶんと苦労した。ビザがすんなりと取れなかったばかりに、バイクのみならず、ヒッチハイクでもオーストラリアを一周した。「オーストラリア一周」の予定が「オーストラリア二周」になったのは、すべて南アフリカのビザのせいなのである。
1968年から1969年のバイクでの「アフリカ一周」では、それ以上に南アフリカのビザでは泣かされた。モザンビークのロレンソマルケスを出発点にして北上したが、ほんとうはケープタウンを出発点にしたかった。だが東京で南アフリカのビザが取れずに泣く泣くモザンビークのロレンソマルケスを出発点にしたのだった。
ロレンソマルケスから東アフリカを経由してアフリカ大陸を縦断し、1年後にヨーロッパに入った。日本を出発する前の計画ではヨーロッパから西アジアを通ってインドまで行き、そこから日本に帰ってくるというものだったが、ぼくはすっかりアフリカに魅せられ、ヨーロッパから今度は西アフリカ経由で南アフリカを目指したくなったのだ。ケープタウンまで行ったら、そこから船でアルゼンチンのブエノスアイレスに渡ろうと思った。
ロンドンでバイトをしながら計画を練り、ある程度の資金ができたところで南アフリカを目指して出発した。西アフリカは雨期の最中で、雨と泥道との闘いの連続。ナイジェリアは内戦の最中で、船で迂回しなくてはならなかった。中央アフリカのバンギからウバンギ川、コンゴ川を船で下り、旧フランス領土コンゴから旧ベルギー領コンゴへ。首都のキンシャサからは決死の覚悟で国境を越え、激しい戦闘のつづくアンゴラに入った。首都ルアンダに着いたときは「これでもう、ケープタウンまでは問題なく行ける」と、おお喜びだった。
ところがルアンダにある南アフリカ領事館に行き、パスポートを見せるなり、「日本人にはビザを出せない」といわれた。南アのビザを拒否され、前に進むことも、後に戻ることもできなくなってしまった。ほかにルートのとりようがなかった。ルアンダにある船会社をしらみつぶしにあたったが、南米に行く船はなかった。ついにぼくはアフリカの旅をルアンダで断念し、ポルトガルのリスボンから来た船でモザンビークのロレンソマルケスに戻った。そこからバイクを船で日本に送り返し、ぼく自身は飛行機で日本に帰った。
夜更けのヨハネスバーグに通じるハイウエーを歩いていると、そんな苦い思い出がつい昨日のことのように思い出されてくるのだった。
スプリングスの町
クリスマスの夜はヨハネスバーグ郊外のハイウエー沿いでの野宿。夜が明けると、ヒッチハイクでヨハネスバーグの東にある町、スプリングスに向かった。そこはスズキの代理店があって「南部アフリカ一周」用のバイクを借りることになっている。ヒッチハイクは簡単で最初が黒人、次が白人が乗せてくれた。
ヨハネスバーグ周辺は世界最大の産金地帯だ。スプリングスはその産金地帯の東はずれにあたり、金鉱の白っぽいボタ山がいくつも見える。南アフリカは世界一の金産出国で、1972年の産出量は910トン。全世界の金産出量の6割を超えている。
スプリングスの町に着くと、町全体があまりにも静まりかえっているので、どうしたのだろうと不安になった。大半の店がシャッターを下ろしている。開いている小さなスーパーマーケットに入って聞いてみた。するとクリスマスの次の日は「ボクシングデー」で休日なのだという。もともとこの日は使い走りの少年や郵便配達夫などにプレゼントする日なのだという話も聞いた。
アパルトヘイト初体験
仕方がないので、スプリングスには次の日にまた来ることにして、電車でヨハネスバーグまで行くことにした。駅の切符売り場は白人(ホワイト)用と非白人(ノンホワイト)に分かれていた。ぼくは非白人の切符売り場に行った。電車は1等、2等、3等に分かれていて、ヨハネスバーグまで3等の切符を頼んだ。切符売りは黒人の女性だった。
切符を受け取り、なにげなく見ると1等になっている。あわてて切符売り場に戻った。
「あの、3等の切符を頼んだのだけど」
「さっき、あなたは日本人だといったでしょ。だから1等の切符を渡したのよ。日本人が3等に乗ることはないから」
たしかに切符を買うとき、「何人?」と聞かれた。ぼくはてっきり「この人はどこから来たのだろう」という興味半分で聞いたものだとばかり思っていた。ところがそうではなかったのだ。日本人ならば、白人と同じように1等の切符にしなくてはと、黒人女性の切符売りはそう考えたのだ。
ぼくは3等の切符に替えてもらい、差額を返してもらって駅舎に入る。駅舎内のトイレも白人用と非白人用に分かれている。線路をまたぐ横断歩道橋も白人用と非白人用に分かれている。電車に乗れば乗ったで、白人用車両と非白人用車両に分かれている。すべてが白人用、非白人用に分かれているのだ。こんなことが許されていいのかと、ぼくは怒りに震えてしまった。
南アフリカでは人間は白人と非白人に分けられ、非白人はさらに黒人(バンツー)、混血(カラード)、アジア人の3つに分けられている。アジア人の大半はインド人である。白人が360万人、黒人が1300万人、混血が190万人、アジア人が60万人という人口の構成だ。黒人のバンツー系アフリカ人はヌグニ、ソト、ベンダ、ジャガナ、トンガに分けられるが、そのうちヌグニが最大で、コーザ族やズール族が多数部族になっている。非白人では日本人だけが白人待遇(オーナブル・ホワイト)になっている。駅員がぼくに1等の切符を売ったのも、そのあたりのことが理由になっている。
南アフリカの人種差別はすさまじい。白人でなければ人でない。非白人に選挙権はなく、職業は制限され、労働組合の結成やストライキは禁止されている。悪名高いパス法によって、身分証明書なしではうかうか外も歩けない。白人の移民は大歓迎だが、非白人の移民は厳重に制限されている。
電車はヨハネスバーグに向かって走っている。車窓からは金鉱のボタ山をいくつも見る。金で栄えるブラックパン、ベーニ、ボクスバーグ、ジャーミトンといったラントの町々を通り過ぎていく。「ラント」こそ、南アフリカの心臓部。この一帯は標高1700メートル前後のウィットワーテルスラントと呼ばれる高原地帯で、普通はそれを略して「ラント」といっている。このラント(RAND)こそ、世界最大の金鉱地帯なのだ。
ヨハネスバーグを歩く
ヨハネスバーグ中央駅に着くと、町を歩く。高層ビルが建ち並ぶ近代的な大都市。人口130万人。アフリカには人口だけでいえばカイロやカサブランカのように、はるかに人口の多い都市もある。だが、「近代的都市」とはほど遠い。その意味でいうと、ヨハネスバーグはアフリカ最大の都市といえる。それというのも豊かな金鉱脈と、南アフリカ国内はもとより、レソト、スワジランド、ボツワナ、モザンビーク、ローデシア、マラウィといった近隣諸国からの大量の、それもきわめて安く使える労働力のおかげなのである。
町を歩いていてひとつ気のついたことは、何人もの人がヨハネスバーグ(Johanesburg)をジョーバーグ(Joburug)といったこと。ヨハネスバーグは南緯26度。日本とは季節が逆になり、春から夏に入ったところ。気持ちのいい天気で、公園のベンチでしばらくうたた寝した。
目が覚めると、再び町を歩いた。ヨハネスバーグは19世紀後半のゴールドラッシュ後にできた新しい都市で、南北に、東西にと碁盤の目状に道路が延びている。中心街を歩いていて気がつくのは、大きなホテルはどこも南アフリカと関係の深い主要国の国旗を掲げているが、イギリス、オランダ、アメリカ、フランス、西ドイツといった国々と並んで、必ずといっていいほどに日本の国旗をも掲げていた。つまり、それだけ日本人の利用客が多いということだ。観光でこの国を訪れる人はほとんどいないので、その大半はビジネスマンの利用ということになる。このことひとつをとってみても、日本と南アフリカの結びつきの強さをうかがい知ることができた。
南アフリカの輸出先を見ると、日本はイギリスに次いで第2位、輸入先ではイギリス、アメリカ、西ドイツに次いで第4位。南アフリカにとって日本はきわめて重要な国。それだからこそ、ノンホワイトの日本人を例外的にホワイト扱いにしているのだ。
ヨハネスバーグ郊外へ
電車に乗ってヨハネスバーグの郊外に行ってみた。意地でも3等に乗りつづけた。最初は南の工業都市のフェリーニヒングへ。ヨハネスバーグに戻ると、次は西のラントフォンテインへ。その車中では、帽子をかぶり、ほころびた背広を着た中年の人と話した。
話題はアパルトヘイト(Apartheid)。アフリカーンスで「分離」とか「隔離」を意味するそうだが、一般的には南アフリカでの人種差別を表す言葉になっている。「黒人と白人が同じ仕事をしても、給料が全然、違うんだ。もっともっと、給料を上げて欲しいよ」と彼はしきりに白人と黒人の給料の違いを訴えた。
産金地帯の西はずれにあたるラントフォンテインの町に着いたのは夕暮れどきで、ひと晩、泊めてもらおうと教会に頼んでみることにした。通りすがりの人に「教会はどこですか」と聞くと、「白人の教会か、黒人の教会か」といわれ、愕然とした。駅も、トイレも、電車も、バスも、エレベーターも、レストランも、学校も、郵便局も、役所…も、そしておまえもかという感じで神のもとでの人間の平等を説く教会までもが白人用と黒人用に分かれていた。
ぼくは黒人用の教会に向かった。途中、草原では黒人の子供たちがボールを蹴って遊んでいたが、彼らを見ていると、胸がしめつけられるようだった。彼らは大きくなるにつれて、肌の色が違うばかりに受ける様々な差別をどのような思いで受け止めていくのか。
肌の色の違いによる差別はあまりにも酷い。人間のいかなる努力によっても、それを克服することができないからだ。能力による差別ならば、多少は先天的なものがあるにせよ、同じ人間なのだから各人の努力次第でどのようにでもなる。しかし、肌の色はどうしようもないではないか。南アフリカのアパルトヘイトはあまりにも人権を無視し、人間の尊厳を踏みにじっている。その夜はアフリカ人用の教会で泊めてもらったが、黒人の神父さんにはほんとうによくしてもらった。
ガラガラの白人用1等車
翌朝、電車でヨハネスバーグへ。ラントフォンテイン駅はちょうど通勤の時間帯で混んでいた。といってもそれは黒人用の改札口だけの話で、白人用はガラガラ。電車も黒人用はぎゅうぎゅうづめの満員なのに、白人用の車両では乗客はゆったりとシートに腰掛けている。タバコをくゆらせながら新聞を読んでいる人が多い。ぼくが乗ったのは3等で、満員電車にもみくちゃにされながらヨハネスバーグに着いた。
朝のヨハネスバーグをひと歩きしたところで、電車でスプリングスに向かった。黒人用の3等の切符売り場は長蛇の列。その列はすこしも前に進まない。早くスプリングスに行きたかったので、イライラしてくる。やむをえず白人用の切符売り場で1等の切符を買った。黒人用の3等の車両は超満員なのに、白人用の1等の車両はやはりガラガラだ。ぼくのほかには、たった1人の乗客。あきれてものがいえない。電車は動きだした。ヨハネスバーグの中心街を抜け出し、郊外へ。
白人の中年女性の車掌が検札にやってきた。彼女はぼくの顔を見るなり、アフリカーンスでペラペラとまくしたてた。「ここはあんたの乗るところではありませんよ」ぐらいのことをいっているのだろう。ぼくはまったく無視し、「私はアフリカーンスはわからない。英語で話して下さい」といって相手にしなかった。そのすぐ後で、今度は英語を話す白人男性の車掌がやってきて、「この車両は白人用なんですよ」といった。
「よくわかってますよ。だからぼくはこの車両に乗ったのです。日本を出る前に、南アフリカでは日本人は白人になっているので、電車に乗るときは白人用に乗りなさいといわれたんです」
と、いい返した。そのようなことは出発前に一度も言われたことはなかったが…。
ぼくが日本人だというと、車掌は態度を一変させた。「あなたが日本人だとは思わなかったので許して下さい」といった。車掌も暇なのだろう、しばらくはぼくの話相手になってくれた。彼はイギリス人だった。知人に「南アフリカに行けば金持ちになれる」といわれ、この国にやってきたという。だが、人種差別は想像したよりももっと激しいもので、この国に対してすっかり嫌気がさしたという。できるだけ早いうちにオーストラリアかカナダに移り住みたいというのだ。彼の話によると、人種差別はヨハネスバーグを中心としたトランスバール州がとくにひどいという。
彼と話しているうちにスプリングスに着いた。町は昨日と比べると、うってかわって人通りが多く、にぎやかだった。
「これからバイクで南部アフリカを一周するんだ!」