[1973年 – 1974年]

オーストラリア編 05 ブルーム → シドニー

最長記録の2459キロ

 ブルームから10キロほど歩き、ポートヘッドランドへの道とのジャンクションで野宿。翌朝は夜明けとともに起きた。「早起きは三文の得」ではないが、起きるのとほぼ同時にダットサンのピックアップが停まってくれた。ペンキ屋ジム。彼はダーウィンからやってきて、これからパースまで行くという。ラッキー。ブルームからパースまでの2500キロ近い距離を1台の車で行けるのだ。

ブルームの町を離れる
ブルームの町を離れる

 彼は6年前にイギリス・ヨークシャーのハルからオーストラリアにやってきた。

「オーストラリアに来れば、誰でも金持ちになれると思っていたんだけど、それはもう昔の話。ハルに帰りたいよ」
 と、ジムは「ハルに帰りたい!」を連発した。

 ブルームからポートヘッドランドまでは未舗装路。560キロ間にガソリンスタンドが1軒あるだけ。乾燥した風景がつづく。ジムとは途中で運転を交替した。

 ニューマン鉄山の鉄鉱石の積み出し港、ポートヘッドランドからはインド洋岸のルートを夜通し走り、翌日は南回帰線を通過した。そこには「Tropic of Capricon」の表示板が立っている。

 カーナボンではNASAの大きなパラボラアンテナが目についた。

 ノーザンプトンに近づくと植生が変わり、緑がぐっと増え、野花が咲いている。広大な小麦畑も見られるようになった。

 さらに南下し、ジェラルドトンの町を過ぎると、気温がグッと下がり、肌寒くなる。

 第2夜目は国道沿いに車を停め、仮眠したが、寒くて目がさめてしまった。無数の星が青白く光っている。ジムも同じで、我々は運転を交替しながらほとんど寝ずに走りつづけ、夜明け前にパースに到着した。

 ブルームからパースまでジムには2459キロもの長い距離を乗せてもらった。これはブラドに乗せてもらった2200キロをはるかに上回るもので、1台の車に乗せてもらった距離としては、我がヒッチハイクの最長記録だ。

 パースの中心街で下ろしてもらったが、ジムとは固い握手をかわして別れた。

ナラボー平原を行く

 午前中は西オーストラリア州の中心都市、パースを歩いた。のびやかな町並み。ハンバーガーとコヒーの昼食を食べて出発。パースの郊外に向かって歩く。きついヒッチ。交通量は多いのだが、乗せてもらえない。車に乗せてもらえるまで歩きつづけるというのがぼくのやり方なので、パースの中心街から20キロ以上も歩いた。日が暮れかかったころ、やっと大型トラックに乗せてもらえた。日が落ちると、ググググッと寒くなる。そのトラックで720キロ先のサウスオ−シャンに面した港町、エスペランスまで行った。

パースの町並み
パースの町並み
パースの町並み
パースの町並み
パースの郊外へ
パースの郊外へ

 エスペランス到着は翌日の昼前。トラックの運転手はジャック。エスペランスに着くと、大型トラックで港を案内してくれた。西ドイツのハンブルグからの貨物船や日本のKラインの貨物船が接岸していた。

 町中でジャックと別れると、国道1号で内陸のノーズマンへ。2台の車に乗せてもらい、ノーズマンに到着すると、そこからはナラボー平原を横断する。町外れで車を待ったが、乗せてもらえないままに日が暮れた。強烈な色彩の夕焼け。ひと晩、ぐっすり眠りたくて国道沿いのブッシュの中にシュラフを敷いて寝た。だが、あまりの寒さに何度も目がさめ、ほとんどひと晩中、ウトウト状態だった。

 夜が明ける。じつについていた。シュラフをまるめ、国道1号に出るなり、最初のトラック(冷凍車)でバラドニアへ。広大なナラボー平原に入っていく。バラドニアでもほとんど待たずにグレッグのオンボロ車に乗せてもらった。

 バラドニアを過ぎるとまもなく、約120キロ、一直線の道になる。まったくカーブがない。直線路はナラボーの大平原をズバーッと貫いている。約120キロ走って最初のコーナーにさしかかったときは、グレッグと一緒に手をたたいて喜んだ。一直線の道をただひたすらに走るというのも、変化がなく、けっこう辛いものなのだ。

 西オーストラリア州から南オーストラリア州に入ったとたんに舗装路は途切れ、ダートになる。夜遅くにセドゥナの町に着いた。この町の手前、約80キロの地点からまた舗装路になった。町中に車を停め、車内で眠った。

 翌日は日の出とともに出発。昼過ぎ、ノーズマンから1500キロのポートオーガスタに到着。ここでグレッグと別れたが、彼はさらにブリスベーンまで行く。

ナラボー平原を行く
ナラボー平原を行く
グレッグの車でポートオーガスタへ
グレッグの車でポートオーガスタへ
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原の風景
ナラボー平原を貫くエアー・ハイウエー(国道1号)の案内板
ナラボー平原を貫くエアー・ハイウエー(国道1号)の案内板
西オーストラリア州と南オーストラリア州の州境
西オーストラリア州と南オーストラリア州の州境
大陸横断鉄道
大陸横断鉄道
ポートオーガスタまであと41マイル
ポートオーガスタまであと41マイル
エアーズロックを断念

 世界最大の一枚岩、エアーズロックはどうしても見てみたかった。エアーズロックまでヒッチハイクで行くのは無理だといわれていたが、それにチャレンジ。「ダーウィン→ポートオーガスタ」の大陸縦断ルートを今度は南から北に向かう。

 多民族国家オーストラリアにふさわしく最初はインドネシアのスラバヤ生まれのトムのトラック、つづいてウクライナ人のトラックに乗せてもらった。ウクライナ人とはいろいろと話した。とくに戦争の話題になったときの「いつも一般の国民が苦しめられ殺される」との彼の言葉が頭に残った。その夜はピンバで野宿。夜の寒さがきつかった。

 翌朝は寒さに我慢できず、シュラフを首に巻いて車を待った。ポリスの車が通りがかり調べられた。パスポートはキャンベラの南アフリカ大使館にあるので、一瞬、まずいなと思ったが、ビザ担当の書記官の名刺を見せたらOK。ほっとした。

 1時間ほどたったところで、いったんは通りすぎていったキャラバンカーが、すこし先で停まった。運転手は車を下りて、「乗れ」と手招きしてくれる。車まで走っていった。アリススプリングスまで行く車。ところが運転手は「おこりんぼ」。ハンドルを握りながら、やたらとブツブツ文句をいう。そしてすぐに「バーステッド」、「ファッキン」、「ブラディー」と、ののしりの言葉を連発する。一人言なので、何に怒っているのか、よくわからなかった。こういうときは「さわらぬ神にたたりなし」で、黙ってじっと車窓を流れていく風景を眺めた。

キャンピングカーに乗せてもらい、スチュワートハイウエーを北へ
キャンピングカーに乗せてもらい、スチュワートハイウエーを北へ

 舗装路からダートに突入し、オパール鉱山の町、クーバーペディーでひと晩、泊まった。翌日、南オーストラリア州からノーザンテリトリーに入った。すると急に暑くなる。

 クルゲラの町から70キロほど北の地点、エアーズロックに通じる道との分岐点で「おこりんぼ」さんの車を降りた。

 時間は午後3時。分岐点には「エアーズロック」の標識があるのみ。エアーズロックに向かう車はほとんど通らない。たまに来ても乗せてはくれない。エアーズロックに行けないまま、日が暮れてしまう。荒野での野宿だ。

 翌朝もただじっと、分岐点でエアーズロックに向かう車を待った。けっこう辛いヒッチハイク。あっというまに暑くなる。おびただしいハエ。分岐を示すドラムカンの影で横になり、顔をハンカチで覆ってひと眠りする。午後になると黒雲がモクモクと出はじめ、あっというまに空全体を覆い、強風が吹きはじめた。まるで嵐。強風はますます激しくなり、体ごと吹き飛ばされそうになる。稲光が大空を駆けめぐる。近くに雷が落ちたときは、一瞬、青ざめた。「やばい!」。この荒野の中では遮るものは何もない。

 午後3時になったところで、「エアーズロックは断念しよう」と決めた。

 そう決めたとたんに、マットレスや生活道具一式を積んでアデレードまで行くデビッドのホールデンの旧型車が通りがかり、乗せてもらった。チンタラチンタラ走る車で、なんと5日がかりでアデレードに到着した。

 アデレードで読んだ新聞には、サイクロンに襲われたアリススプリングスの記事が写真入りで大きく出ていた。ぼくがエアーズロックへの道で車を待ったのと同じころ、最大風速100マイル(166キロ)の強風が吹き荒れ、アリススプリングスだけで数百万ドルの被害が出たと報じている。あの嵐では仕方ないか…と諦めようとするのだが、エアーズロックに行けなかったのは残念でならなかった。

ヒッチハイク編「オーストラリア一周」終了!

「さー、キャンベラだ!」
 と、気分も新たにヒッチハイクを開始。国道1号を行く。1発でヒッチ成功!

 メルボルンまで行くトラックに乗せてもらった。南オーストラリア州からビクトリア州に入り、州都のメルボルンに到着。オーストラリアでは例外的に、歴史を感じさせる都市。中心街を歩きまわったところで、フリンダー・ストリート駅から郊外電車に乗り、終点のタンデノン駅へ。近くのフットボール場の屋根の下で寝た。夜中に雨。屋根があるので雨も気にならない。屋根の下で寝られるありがたさをしみじみとかみしめた。

メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地
メルボルンの市街地

 翌日も国道1号を行く。1日中、雨…。おまけにヒッチもうまくいかない。辛い1日だ。何台かの車に乗り継ぎ、モーウェルの町に着いたところで銀行で1万円を両替。あまりのレートの悪さに情けなくなる。1万円で22ドル09セント。1ドルは約455円だった。ダーウィンで両替したときは、USドルをオーストラリアドルに替えた。40USドルで26ドル65セント。1ドルは402円だった。それが日本円でオーストラリアドルに替えると、1ドルが455円になってしまう。あまりにも弱い円に泣きたくなるような思いだった。

 ビクトリア州からニューサウスウエルス州に入り、ベガの町で国道1号と別れ、キャンベラへの道に入っていく。何台もの車に乗り継ぐ。きつい勾配の山道をのぼりつめると、上は平坦な高原状の台地。スノーウィ山脈の玄関口の町、クーマへ。そこからはキャンベラまではイタリア人の運転するトラックに乗せてもらった。彼は開口一番、「オレはオーストラリア人ではない。イタリア人だ!」と胸を張っていう。かといって、今さらイタリアには戻れないともいう。彼は21年前にユーゴスラビアとの国境の町、トリエステから新天地を求めてオーストラリアにやってきた。だが、21年ぐらいの年月では彼をイタリア人からオーストラリア人にはできないようだ。

 11月2日午前11時、キャンベラに到着。ヒッチハイク編「オーストラリア一周」の終了だ。キャンベラを出発してから32日目のことだった。すぐにビザをもらいに南アフリカ大使館に行ったが、なんということ、まだ本国照会の返事は来ていないという。仕方がない。次のバイク編「オーストラリア一周」を終えてからもう一度、来よう、そのときはきっと大丈夫だと、落ち込んだ気分を立て直した。

 その夜はキャンベラのユースホステルに泊まった。1ヵ月ぶりの宿泊費を払っての宿泊。シャワーを浴び、洗濯をしてさっぱりした。

「キャンベラ→キャンベラ」の「オーストラリア一周・1万7464キロ」では全部で88台の車に乗せてもらった。使ったお金は22ドル。1日平均0・68ドルだった。

奇跡の再会!

 キャンベラのユースホステルではイギリスのニューキャッスルで生まれたフィリップと一緒になった。彼はオーストラリアに来てからすでに3年。シドニーに住んでいる。フィリップのワーゲンに乗せてもらい、翌日、シドニーへ。冬を思わせるような寒々とした天気。国道沿いのカフェでフィッシュ&チップスの昼食を食べ、シドニーに着くと、フィリップのアパートで泊めてもらった。夜はレストランでステーキを食べ、パブでビールを飲んだ。昼食代も夕食代もビール代も、すべてフィリップが出してくれた。ありがたくご馳走になっておく。

シドニーに到着!
シドニーに到着!
シドニーに到着!
シドニーに到着!

 翌日はシドニーでの休日。朝は10時過ぎまで眠った。こんなに寝たのはいったい何日ぶりのことだろう。午前中はコインランドリーで洗濯し、午後はフィリップとハバーブリッジのすぐ下にあるルナ・パークに行った。フィリップはここで半年ほど働いたとのことで、タダで乗れるチケットをたくさん持っていた。それを使わせてもらい、ジェットコースターや回転飛行機、電気自動車と次から次ぎへと乗った。そのあとノースシドニーの浜辺に行く。シドニーの中心部からわずか10数キロしか離れていないのに、すぐ近くに大都市があるとは思えないような自然の美しさ。きれいな浜辺が延びている。

 もうひと晩、フィリップのアパートで泊めてもらった。

 翌朝、フィリップはブリスベーンに向かう。朝食を一緒に食べると、彼のワーゲンでフェリー乗り場まで乗せてもらう。そこで別れた。さようなら、フィリップ。彼は北へ、ブリスベーンへ。ぼくはフェリーに乗り、シドニーの中心街へ。フェリーは朝の通勤客で混んでいた。

 シドニ−の中心街を歩き、地図を頼りにキャンベル・ストリートの「HAZELL&MOORE」社を訪ねる。ここはスズキのニューサウスウエルス州の代理店。ここで「オーストラリア一周」のバイクを用意してもらうことになっている。ジェネラルマネージャーのシャノンさんに会うと、「明日までに整備して用意しておきましょう」とうれしいことをいってくれる。バイクでの「オーストラリア一周」に出発できると思うと、胸がワクワクしてくる。

 シャノンさんはすぐに「モーターサイクル・ニューズ」社に電話した。そしてチーフ・エディターのジェフ・コラートンさんに会って欲しいという。ぼくのバイクでの「オーストラリア一周」を取材したいのだという。「モーターサイクル・ニューズ」社を訪ね、ジェフに会ったときはびっくりした。驚きの再会。なんと彼には4年前に会っているのだ。

 1969年4月、アフリカ大陸縦断を終え、ロンドンに着いたとき、『モーターサイクル』紙のジョン・エブローさんに取材された。そのときエブローさんの下で仕事していたのがジェフだった。

 彼はこのときのことをとってもよくおぼえてくれていた。

「(ロンドンの)ウーターロー・ブリッジの上で撮ったキミの写真、あの写真は忘れられないね」
 といってくれた。このような偶然の再会があるのも旅のおもしろさ。ジェフには昼食をご馳走になった、食事が終わると、コーヒーを飲みながらおおいに語り合った。

 ジェフと別れると、午後はシドニーの町をクタクタになるまで歩きまわり、夜はシドニー郊外のクーリングガイ国立公園にあるユースホステルに泊まった。泊まり客はぼく1人。管理人のニュージランド人のビルと一緒にマグロのかんづめの夕食を食べ、ビールを飲んだ。いよいよバイクでの「オーストラリア一周」が始まる!