[1973年 – 1974年]

オーストラリア編 03 シドニー → ケアンズ

南アフリカのビザに泣く…

 オーストラリアの首都キャンベラではユースホステルに泊まり、貸自転車に乗って、ビザを取るために南アフリカ大使館に行った。アジア、オーストラリアのあとはアフリカだが、西オーストラリアのパースから南アフリカのヨハネスバーグに飛ぶ計画なのだ。

「きっと、何日か待たされるに違いない」と覚悟していたら、なんとビザ担当の書記官に、「明日の午前中に来て下さい」といわれ、いささか拍子抜けしてしまった。

 その日は1日、自転車でキャンベラ見物をした。国会議事堂、官庁街、キャンベラ大学、キャンベラ駅と見てまわる。最後が「戦争記念館」だった。オーストラリア兵が出兵した数々の戦争の写真や絵画などが展示されている。その中には、太平洋戦争での日本軍との戦いのものも数多くあった。

キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く
キャンベラを歩く

 翌日、南アフリカ大使館を訪ねる。すんなりとビザをもらえるものとばかり思っていたが、ビザ担当の書記官に呼ばれ、
「あなたのビザは本国照会になった。返事が戻るまでには4週間ぐらいかかるので、そのころにもう一度、来て下さい」
 といわれた。なんということ。

 ぼくの計画ではシドニーに行き、バイクを借り、「オーストラリア一周」をする。そのあとヒッチハイクで大陸を横断し、西オーストラリアのパースから飛行機で南アフリカのヨハネスバーグに飛ぶというものだった。急遽、予定を変更し、先にヒッチハイクで「オーストラリア一周」をしてキャンベラに戻り、南アフリカのビザを取り、そのあとバイクで「オーストラリア一周」をすることにした。こうして「オーストラリア一周」が「オーストラリア二周」になった。

 そう決めると、気持ちがスーッと楽になった。さっそくヒッチハイクでの「オーストラリア一周」をスタートさせる。雨が降っている。雨に濡れながら、シドニーに通じる道を歩く。キャンベラの郊外まで歩いたところで車を待った。

 最初は80キロ先のグールバーンまで行く車に乗せてもらった。パイプオルガン奏者のデビッドの車。彼はスイスのバーゼルで5年間、音楽の勉強をした。32歳。独身。こうしていろいろな人たちに出会えるのが、ヒッチハイクの最大の魅力だ。

 きれいな田園風景の中を走る。ユーカリの林。牧場ではヒツジが群れている。グールバーンに着くと、デビッドはカトリックの教会に連れていってくれた。神父とは親しいとのことで、教会のパイプオルガンを弾いて聞かせてくれた。薄暗いドームにパイプオルガンの音色が響く。ステンドグラスを通して差し込む光りが、ムードを一段と盛り上げた。

 デビッドはグールバーンの町外れまで連れていってくれた。そこからシドニーまでは、ほとんど待たずに、テッドとシェーンの老夫婦の車に乗せてもらった。2人は1ヵ月間、キャラバンカーでオーストラリアをまわり、旅を終え、シドニーの家に帰るところだった。キャンベラから280キロのシドニーには、夜になって着いた。テッド、シェーンと別れ、夜のシドニーの町を歩き、建設中のビル内でシュラフを敷いて眠った。

 翌日の午前中はシドニーの中心街を歩いた。久しぶりに吸う大都会の空気のホッとする。東京生まれ、東京育ちの自分が、シドニーを歩きながら「都会っ子」だということを実感する。完成したばかりのオペラハウスに行き、そこからシドニー湾をまたぐハーバーブリッジを眺める。シドニーと対岸のノースシドニーを結ぶフェリーが湾内をひんぱんに行き来している。客船用の桟橋には、真っ白な大型客船が停泊していた。

シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
シドニーを歩く
ヒッチハイク編の「オーストラリア一周」に出発だー!

 1973年10月4日の昼過ぎにシドニーを出発した。ヒッチハイクでオーストラリアを一周するのだ。次にシドニーに戻ってきたときは、バイクでの「オーストラリア一周」になる。最初は電車に乗ってシドニーを離れた。中央駅からホンズバイ駅まで行き、そこから歩いて国道1号に出た。いよいよ「オーストラリア一周」のヒッチハイクの開始だ!

 シドニーの北、160キロのニューカッスルまでは若い女性に乗せてもらった。30代前半のすごくきれいな人。彼女の香水の匂いに頭がクラクラッとする。映画のディレクターをやっているとのことで、着ているものや化粧の仕方、話し方など、彼女のセンスの良さはきわだっていた。

「タカシが次の車に乗せてもらいやすいように、ね」
 といって彼女はニューカッスルに着くと、町を走り抜け、郊外まで連れていってくれた。別れるときは、思わず彼女の手を握りしめた。つかのまの恋!?

 彼女のおかげで、すぐに、次の車に乗れた。テリーとロイの2人組が乗っていたニューカッスルから750キロ北のサウスポートまで泳ぎに行くという。2人は運転を交替しながら夜通し走りつづけ、翌、早朝にはサウスポートに着いた。

 10月初旬のシドニーはやっと春になったといったところで、雨も冷たく、夜も寒く、震えながら野宿した。ところがニューサウスウエルス州からクイーンズランド州に入り、南緯28度のサウスポートまで来ると、初夏のような陽気。すっかり寒さからは解放された。この一帯の太平洋岸はゴールドコーストと呼ばれ、オーストラリアでも屈指のリゾート地になっている。

 サウスポートからクイーンズランド州の州都、ブリスベーンまでは85キロ。その間もほとんど待たずに乗せてもらえた。オーストラリアでのヒッチハイクは楽だ。シドニーから1000キロのブリスベーンに到着したのは午前10時前。なんと1日もかからなかった。オーストラリアでの距離感は、日本とはまるで違う。1000キロといえば、東京からだと山口県の岩国あたりで、相当な距離になる。ところがオーストラリアだと1000キロというのは、東京から大阪どころか、名古屋ぐらいの感覚だった。

シドニーから郊外へ
シドニーから郊外へ
ブリスベーンに到着
ブリスベーンに到着
すさまじい豪雨

 ブリスベーンの中心街を歩き、そのまま国道1号を北へ。シドニー→ブリスベーン間の国道1号は「パシフィックハイウェー」だが、ブリスベーンを過ぎると「ブルースハイウェー」と名前を変える。

国道1号を北へ
国道1号を北へ

 ここでは信じられないような出来事があった。

「早く郊外に出よう!」
 と、急ぎ足で歩いているときのことだった。

 鉄道のガードをくぐったところに1台の車が停まっていて、運転している人がぼくを手招きし、「乗りなさい」というのだ。「キミの歩いている姿を見て、きっとヒッチハイクしているんだなと思ったんだけど、あそこだと道幅が狭くって、車を停められなかった。それでキミが来るまで、ここで待っていたんだよ」

 なんともありがたいこと!

 彼はダニーといって、40を過ぎていた。だが、若いころにはヒッチハイクでオーストラリア中を旅した。ぼくの姿を見て「あのころの自分を思い出したんだよ」という。

 ダニーにはよくしてもらった。車中ではサンドイッチをもらった。腹をすかせているぼくを見て、それだけでは足りないと思ったのだろう、さらにハチミツのたっぷりかかったクッキーや白身の魚のフライも出してくれた。ダニーにはブリスベーンから50キロほど先まで乗せてもらったが、別れぎわにはオレンジをゴソッと袋に入れて持たせてくれた。

「これから北に行くと、ものすごく暑くなるから」といって、帽子までくれるのだった。

 ダニーと別れたあとは、ブリスベーンから280キロ北のマリーボロまで行く車に乗せてもらった。ブリスベーンを出るときは、きれいに晴れ渡っていたが、マリーボロに向かうにつれて天気は崩れ、やがて雨が降りだした。雨はあっというまに豪雨に変わる。すさまじい豪雨。まるで空が抜けたかのような降り方だった。

 丘陵地帯を走っていたが、道路はあっというまに川に変わり、濁流が渦巻いている。車のワイパーはまったく役にたたず、前方はほとんど見えない。車は10キロ以下のノロノロ運転。そこまで速度を落としても、ボンネットを越えて、バケツでたたきつけるかのような雨水がフロントガラスを打った。背筋が寒くなるような光景。

(オーストラリアはその年の年末から翌年の1974年にかけて、広範囲な地域で、記録的な大洪水に見舞われた。ブリスベーンもブリスベーン川の氾濫で大きな被害を受けた。ぼくはそのころはアフリカに渡っていたが、現地の新聞でオーストラリアの大洪水のニュースを見たときは、まっさきにこの豪雨のシーンが頭をよぎった)

 マリーボロまで来ると、ついいましがたまでの、すさまじい豪雨はまるでうそのように空は晴れ渡っていた。抜けるような青空。強い日差しがさんさんと降りそそいでいた。

熱帯圏に入っていく

 マリーボロからは若者の車に乗せてもらった。背がすらりと高い。イアン、20歳。1200キロ北のタウンズビルまで行く。

 車はホールデンのワゴン車。ひどいオンボロ車。バッテリーは上がり気味で、エンジンがなかなかかからない。タイヤはツルツルで、おまけにブレーキのききも悪い。乗っているのが怖いくらいだ。が、イアンはそんなこともおかまいなしに飛ばす。カーブにさしかかったときは身が縮むような思い。車は横滑りし、思わず「あーっ!」という声が出てしまう。日がくれかかったころ、カンガルーが道に飛び出してきた。イアンは急ブレーキをかけたが間に合わない。カンガルーに激突かと、目をつぶってしまったほど。だが、幸いにも尻尾にヒットしただけで済んだ。カンガルーは大丈夫だったようで、ピョンピョン跳ねて逃げていった。イアンの車はといえば、片一方のヘッドライトが破損しただけのダメージで済んだ。

 南回帰線を越え、熱帯圏に入っていく。ロックハンプトン、マッケイと大きな町々を通り過ぎていく。イアンは夜通し走りつづけ、一睡もしない。そして夜が明ける。あたりは一面のサトウキビ畑だった。

 昼前にタウンズビルに着いた。イアンに誘われるままに、彼の家に行き、昼食をご馳走になった。イアンは母親、弟と一緒に住んでいる。お母さんはガンの手術で左腕を切断、弟の小学生のバディーは障害児で、なんともはや気の毒だった。だが、イアンには暗さは微塵もない。それから2日、彼の家で泊めてもらった。

 翌日は日曜日。一家と一緒に太平洋のマグネティックアイランドに行った。ここはタウンズビルにも近い島なので、ちょっとした観光地になっている。浜辺でイアン、バーディとボール投げをし、昼にはお母さんがつくってくれたお弁当を一家と一緒に食べた。

 イアンの家を発つときは、お母さんもバーディもぼくとの別れを惜しんでくれた。お母さんは「途中で食べなさい」といって昼食のお弁当を持たせてくれた。

 タウンズビルから370キロ北のケアンズへ。その間では全部で9台の車に乗せてもらった。そのうち20キロほど乗せてもらった車は、スピード違反でパトカーに捕まり、警官に切符を切られた。罰金は10ドル(約4000円)。かなりの額だ。運転している人に何か、すごく申し訳ない気持ちになる。もし彼がぼくを乗せなかったら、パトカーに捕まらなかったかもしれないと思ってしまうからだ。そんなぼくの顔を見て、「スピード違反は、キミにはまったく関係ないよ」と運転している年配の人はいってくれた。

 道の両側には、行けども行けども、広大なサトウキビ畑が広がる。アルトゥールさんという老人の車に乗せてもらったときは、そんなサトウキビ畑の一角にある製糖工場を案内してもらった。工場には次々とトロッコ列車でサトウキビが運び込まれる。そのサトウキビが粗糖になっていく過程を工場を歩きながら、わかりやすく説明してくれた。工場見学が終わると、しぼりたてのシュガーケーン・ジュース(サトウキビジュース)を飲ませてくれた。

北部オーストラリアのサトウキビ畑
北部オーストラリアのサトウキビ畑
北部オーストラリアのサトウキビ畑
北部オーストラリアのサトウキビ畑
製糖工場
製糖工場
製糖工場
製糖工場

 ケアンズへの9台目はドイツ系移民のゲーリック・ロドラーさんの車だった。ケアンズに着いたのは夜の8時過ぎで、ゲーリックには「今晩はウチで泊まっていったらいい」といわれた。ありがたくそうさせてもらう。彼は40代の半ば。ドイツ人の奥さんと10代の2人の娘さんがいる。夕食をいただいたあと、世界地図を真ん中に置き、ロドラー一家とおおいに世界を語り合った。

ケアンズに到着
ケアンズに到着

 翌朝、ゲーリックにケアンズ港まで送ってもらった。船でグリーンアイランドに渡るのだ。グリーンアイランドは珊瑚礁のグレート・バリア・リーフ(大保礁)の島。南北2000キロにも渡って延びるグレート・バリア・リーフは世界最大の大保礁なのだ。

 船は1日1便。9時の出港だ。往復で2ドル(約800円)。グリーンアイランドは手軽に渡れる島なので、観光客も多い。外国人観光客の姿も見受けられた。

 1時間ほど船に揺られると、グリーンアイランドに到着。すばらしくきれいな海の色で、スーッと吸い込まれそうになってしまう。島を取り巻く遠浅の海の向こうで、太平洋の波が白く砕けている。ここでは海中を展望するガラス張りのアンダーウォーターオブザーバトリーや、船底がガラス張りになったグラスボートで、色鮮やかなサンゴや熱帯魚を存分に見ることができた。夢の世界のようだった。

 グリーンアイランドからケアンズに戻ると、ゲーリックが車で迎えに来てくれていた。もうひと晩、彼の家で泊めてもらった。2人のかわいい娘さんたちと一緒の夕食はなんとも楽しいものだった。

船でグリーンアイランドへ
船でグリーンアイランドへ
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド
グリーンアイランド

カソリング42号 2003年10月発行より