[1973年 – 1974年]
アジア編 04 サペ[インドネシア]→ レオ[インドネシア]
帆船の「ガディス・コモド号」
インドネシア・小スンダ列島のスンバワ島東部の町、サペの警察でひと晩、泊めてもらったが、翌朝、目をさますとすぐにデビッドに手鏡を借り、目のまわりの傷をみる。よかった! 昨日よりは、ひどくはなっていない。痛みもうすらいできている。
シュラフから這い出ると、ぼくたちは食料を手にいれるためにパサール(市場)に行った。そこでバナナなどを買った。エリッヒはまたしても怒鳴り出した。バナナを売っている露店のおばちゃんたちに向かって、「高すぎる。俺をだまそうとしているんだろう」と。
ついに日独開戦だ。ぼくは完全に頭にきた。
「おい、エリッヒ、いいかげんにしろよ。高かったら買わなければいいだろう。ドイツにいるときも、いつもこうして怒鳴りながら買っているのか、あんたは。いったい、何のために旅に出たんだ。会う人ごとに怒鳴っているんなら、旅に出ないで、ドイツにいればよかっただろ」
ぼくもデビッドも、サペのパサールではっきりとエリッヒにいった。
「もう、あんたとは一緒に旅をつづけたくない」
エリッヒは「ラブハンバジョまで一緒に行こう。そこで別れる」といった。
スンバワ島のサペ港から隣のフローレス島のラブハンバジョ港まで行くのは簡単なことではない。船便はきわめて少ない。それも動力船ではなく、帆船だとサペの町の人たちにいわれていた。そのために、インドネシア語をほとんど話せないエリッヒは、すでにかなりのカタコト語を話せるようになっていたぼくに頼って、とにかくフローレス島に渡ろうとしたのだ。何ともずるいヤツだ。日独開戦をしても、ちゃんと計算だけはしている。
ぼくたちは警察に戻り、警官たちにお礼をいって、サペの町から乗合馬車に揺られてサペ港に向かった。サペ港は魚の匂いで満ちていた。石畳の道の両側には、高床式の家々が立ち並んでいる。造船所もある。そこでは50トンとか170トンというかなり大型の木造船がつくられていた。港には何十隻もの帆船が浮かぶ。ここでは主役がエンジンつきの船ではなく、帆船なのだ。ぼくは一瞬、タイムトリップしたかのような気分になった。
サペ港では会う人、会う人、すべてに、「ラブハンバジョに行く船はありますか」と聞いた。その結果、ついに「ガディス・コモド号」という船をみつけた。明日の午後1時に出港するだろうという。次に、その「ガディス・コモド号」を探す。これがまた、なんとも難しい作業だったが、やっとの思いで、帆船の「ガディス・コモド号」にたどりつくことができた。
ところがこの船、遊園地のボートをひとまわり大きくした程度のもの。これでほんとうに、フローレス島に渡れるのだろうかと不安になった。が、今となっては、そんなこともいてられない。
「ガディス・コモド号」の船長のパダハランさんに会った。日焼けした、しわだらけの顔の老人。ほんとうに明日の午後1時に出港するのかどうかを確かめるのが大変だ。
「パダハランさん、ベソ(明日)、ジャム・サト(1時)、シアン(午後)、ペラフー(帆船)ブランカット(出発)?」
と聞くと、パダハラン老人は「うん、うん」とうなずいて、「ジャム・サト(1時)」といった。時計も持っていないので、どうして時間がわかるのか、ちょっと不思議な気もしたが、明日の午後1時出港というのは、間違いなさそうだ。
サペ港には食堂は1軒もない。日は暮れるし、腹はへるし、サペの町まで歩いていくのには遠すぎるし…で、ぼくたちは思案に暮れた。そんなときに、ありがたいことに村人が「ウチに来なさい」といって声をかけてくれた。飯と魚の夕食をいただき、家の片すみにシュラフを敷いて寝かせてもらった。
翌朝、石を積み上げてつくった簡単な桟橋に行く。おいていかれるのが心配だったので、早めに船に乗せてもらった。乗組員は船長のパダハラン老人のほかに、28歳のミラーと17歳のセイフー、それと14歳のロシディーンの3人だ。彼らはじつに陽気で、楽しいフローレス島への船旅を予感させた。
「アギン(風だ)、バグース(いいぞ)!」
9月5日午後1時過ぎ、「ガディス・コモド号」は雑貨を積み、帆を上げ、サペ港を出港した。時間どおりの出港だったのでびっくりした。フローレス島のラブハンバジョ港(ラブハンは港の意味)までは約100キロの距離だ。
出港したといっても、風が弱く、なかなかおもいどおりに進まなかった。ところが夕方になると風が強くなり、帆をいっぱいにふくらませ、ぐ〜と速力を上げる。真っ赤な太陽が水平線のかなたに沈む。水色の空はみるみるうちに紺青色に変わり、やがて空一面できらめく星空になった。「ガディス・コモド号」は星を目印にして暗い海を進んだ。浅瀬に来たところで、帆を下ろし、錨を下ろした。
「セラマッ・マラン(おやすみなさい)」
乗組員はみんな思い思いの格好をして、狭いスペースの中で、寝る。ぼくも体をエビのように曲げ、きゅうくつな格好でシュラフに入って寝た。船のまわりの海では、夜光虫がキラキラ光っていた。
翌朝はまだ暗いうちに帆を張り、錨を上げて出発する。夜が明けると、すぐ近くにスギヤン島が見え、アピ山(1949m)という火山(アピは火を意味する)がツーンと尖ってそびえていた。小さな島なので、アピ山は標高1949メートルという高さ以上に見えた。船のすぐそばに30頭あまりのイルカの大群がやってきた。イルカたちはピョコーン、ピョコーンと飛び跳ねながら船のあとをついてきた。
だが、そのような快適な船旅も朝のうちだけだった。日が高くなるにつれて風はなくなる。帆はダラーンとたれ下がり、船はピタッと止まってしまう。やりきれないほどの暑さ。海面には波ひとつない。鏡のようなトローンとした海だ。
退屈まぎれにパダハラン老人にインドネシア語を習う。
「サトゥ、ドゥア、ティガ、アンパット、リマ…」
と、1から10までを繰り返し繰り返し、何度も口に出していう。1から10の授業が終わると、パダハラン老人は今度は目を指して「マタ」、耳を引っ張って「テリガー」、口を指さし「ムールット」、口をあけ歯を見せながら「ギーギー」、頭をたたいて「ケパラ」、髪を引っ張って「ラムット」…と教えてくれた。それらをノートに書き、やはり何度も声を出していった。
パダハラン老人は日本の歌も知っていた。太平洋戦争中に日本兵に歌わさ
れたという。
「みよ とうかいの そらあけて…」
「しろじに あかく ひのまる そめて…」
「まもるもせめるも くろがねの…」
と、なつかしさをにじませて海に向かって歌うのだ。
頭上にあった太陽はいつしか水平線に近づき、暑さは幾分やわらいでくる。そのうちに待ちに待った風が吹いてきた。その瞬間、乗組員の顔に生気がよみがえり、
「アギン(風だ)、バグース(いいぞ)!」
と、手をたたいて喜び合う。ダラーンと下がっていた帆は、みるみるうちにふくらんでいく。それとともに船は心地よい風を切って進みはじめる。
コモドオオトカゲで知られるコモド島がはっきりと見えてくる。山がちな島。山肌にはほとんど緑が見られない。乾燥した島の風景だ。
コモド島に沿って進んでいるときのことだった。船尾で釣り糸を流していたパダハラン老人は、突然、「ベサール(大きいぞ)!」と叫んで糸をたぐり寄せる。最初は信じられなかった。というのは、釣り針に釣り糸をつけただけのもので、餌もつけていなかったからだ。釣り糸は引っ張られて今にも切れそうだったが、パダハラン老人は「大丈夫。これは日本製だから」と自信満々だ。
パダハラン老人は魚との格闘の末に、ついに5、60センチはあろうかという大物を釣り上げた。それをナイフ1本であっというまにバラバラにしてしまう。鮮やかな手さばきだ。魚料理の夕食はうまかった。それまでの赤米混じりのポロポロ飯と魚の干物、イモという決まりきった食事にいささかうんざりしていただけに、新鮮な魚の味は格別だった。
夕日がコモド島の山の端に落ちていく。すばらしい夕焼け。空も海も燃えている。目をこらし、我を忘れて自然の織りなすショーに見入ってしまう。だが熱帯の華やかな夕焼けは、あっというまに色あせてしまう。そのあとには、夕空に星が2つ、3つと輝きを見せるのだった。
こうして翌日も、翌々日もまったく同じような1日が過ぎていく。朝のうちは風が吹いて船は順調に進むのだが、昼近くなると、船はピタッと止まってしまう。そして夕方になると風がまた吹きはじめるのだった。
スンバワ島のサペから、わずか100キロの距離に4日もかかって「ガディス・コモド号」は、フローレス島西端のラブハンバジョ港に着いた。パダハラン老人と3人の乗組員と何度も握手をかわして船を降りた。
続・帆船の旅
フローレス島に上陸してやれやれと安堵したのもつかのま、村人たちに聞くと、なんとここからは道がないのでどこにも行けないという。レオという町まで船で行けば、そこからは島の中心のエンデに通じてる道があるという。
ぼくたちはすごくラッキーだった。スラウェシ島のウジュンパンジャンからきている大型の帆船「チンタ・コモド号」(50トン)が、ちょうどレオに向けて出港するところだという。急遽、その船に乗せてもらえることになった。
乗組員の1人がスルスルッと高いメインのマストに登り、帆を張る。次にサブのマストにも帆が張られ、「チンタ・コモド号」はラブハンバジョ港を離れていった。何か、南海の海賊船に乗り込んだかのような気分になった。船は東西に細長いフローレス島に北岸を見ながら進んだ。
「チンタ・コモド号」はフローレス島のあとは、スンバ島のビマ港、ジャワ島のスラバヤ港、カリマンタン(ボルネオ島)のバンジュルマシン港、スマトラ島のメダン港とまわり、4ヵ月あまりの航海ののち、スラウェシ島のウジュンパンジャン港に戻るという。大航海ではないか。船長はソーロンさんという32歳の人。顔つきが日本人に似ている。船乗りになってすでに20年になるという。「インドネシアの海は知り尽くしている」と自信満々。潮風にさらされた顔は赤銅色に光り輝いている。乗組員はソーロンさんを含めて全部で13人だ。
ラブハンバジョ港を出て2日目、朝のうちは風があって快調に進んだが、やがて風がやむと、「チンタ・コモド号」も帆のみなので、パッタリと止まってしまう。ただ、じっと風を待つだけだ。昼が過ぎ、午後3時くらいになったところで風が吹きはじた。船が進みはじめると、乗組員たちは大騒ぎをしはじめた。船が魚群の中に入ったのだという。小魚を餌にして、乗組員たちはおもしろいように次々と2、30センチくらいの魚を釣り上げた。全部で50匹以上は釣り上げただろうか。「チンタ・コモド号」は漁船へと変身。乗組員たちは忙しげに釣った魚を焼いたり、干物や燻製にした。
この「チンタ・コモド号」に乗るころには、うれしいことに、ぼくの目のまわりの傷も大分よくなってきた。毎日、デビッドに手鏡を借りて傷口のガーゼを取り替えていたが、潮風のおかげで化膿することもなく、傷口もふさがってきた。そこでこの日、「よーし、もうガーゼはいらない」と、赤チンを塗るだけで傷口の処置を終えた。右目をふさぐようにしてガーゼをしていたので、それが取れたときの解放感といったらなかった。世界が急に開けたようなものだ。
ラブハンバジョ港を出て3日目。雲の切れ間から朝日が昇る。遠くにレオの港のカリンディ港が見えてきた。いいペースでカリンディ港に近づいていったが、なんと港を間近にしたところで、無情にも風はパタッとやんだ。船も止まった。
ところが、ここからがすごかった! 船長のソーロンさんのひと声で、乗組員全員が懸命になって櫂をこいだ。50トンもの帆船を櫂だけで動かしたのだ。浜辺近くまで来ると、船から小舟が下ろされ、ぼくたちはそれに乗り移った。ソーロンさんをはじめ、乗組員のみなさんが手を振ってくれている。こうしてフローレス島に上陸したが、「チンタ・コモド号」のみなさんとの別れは辛かった。
カソリング37号 2003年5月1日発行より