[1973年 – 1974年]

アジア編 03 ロンボク港[インドネシア]→ サペ[インドネシア]

日英独の旅行者たち

 インドネシア小スンダ列島のロンボク島からスンバワ島に渡り、アラス港に到着。ここでも小舟に乗り換えての上陸だ。暑さが厳しい。小スンダ列島も、スンバワ島まで来ると、交通がガクッと不便になる。アラス港から島の中心のスンバワ・ベサールまでは80キロほどの距離があるが、バスがわりのトラックに乗っていく。50人以上もの乗客がトラックの荷台に乗る。ぎゅうづめ状態だ。

 夕方、スンバワ・ベサールに到着。島の中心とはいっても、小さな町だ。ここでは1泊200ルピア(約160円)の「HOTEL SUCI」に泊まった。ホテルの宿泊者名簿を見せてもらうと、デビッドの名前があった。ついにここで、デビッドに追いついたのだ。さっそくデビッドの部屋を訪ねた。「やー、やー!」と固い握手。2人で一緒に夕食にしようと、路地裏の食堂に行く。その日は1973年9月1日。ぼくの26歳の誕生日だ。デビッドに「誕生日、おめでとう!」といわれ、ワインのかわりの水の入ったコップで乾杯した。

「HOTEL SUCI」には、ぼくたち2人のほかに、もう1人、外国人旅行者がいた。ドイツ人のエリッヒだ。彼もぼくたちと同じようにインドネシアの島々を東に進み、オーストラリアを目指していた。インドネシアの島々を経由してオーストラリアに向かう旅行者はそれほど多くはないのに、こうして3人が出会ったのも何かの縁。「旅は道連れ」とばかりに、ぼくたち3人は一緒に旅することにした。

 30を過ぎたデビッドはすでにアフリカ以外の全大陸をまわっている。オーストラリアも今回が3度目で、オーストラリアのあとはニュージーランドに渡り、そこでしばらく資金稼ぎの仕事をするという。

 エリッヒは27歳。高校の地理の先生だった。仕事を辞め、旅に出てからすでに13ヵ月になるという。ヨーロッパ各国から西アジア、インド、インドシナ諸国をまわり、シンガポールからインドネシアにやってきた。オーストラリアのあとは南太平洋の島々をめぐるという。

 翌日の午前中はスンバワ・ベサールの町を歩いた。学校の校庭のような競技場では、スンバワ島の6地区の代表が集まっての格闘技大会が開かれていた。「闘牛」ならぬ「闘人」といったところで、素手に藁を巻いただけの2人がハデに殴りあう。大勢の観衆は大声援を送る。

 夕方の5時、スンバワ・ベサールを出発。スンバワ島東部の中心、ビマの町に、トラックを改造したバスで向かった。荷台の真ん中に荷物が積まれ、その両側に木のベンチが2列ある。乗客はその固い木のベンチに座る。荷台を覆うようにして鉄製の屋根があり、その上にも大量の荷物が積まれていた。

 荷台の中よりも、外の方がはるかに気持ちいいので、ぼくは運転席の真上に座った。悪路の連続なので、揺れがひどく、振り落とされないように気をつけなくてはならない。ぼくの隣にはマンシュールさんという50過ぎの人が座った。彼はぼくが日本人だとわからると、すごくうれしそうな顔をし、日本の軍歌を歌いはじめた。そして「キチクベイエイ(鬼畜米英)、テンノウヘイカバンザイ(天皇陛下万歳)、ダイニッポンテイコクリクグンバンザイ(大日本帝国陸軍万歳)」と大声で叫ぶのだ。

 ぼくは気持ちよさそうだったので、運転席の真上に座ったのだが、マンシュールさんは別の目的でここに座っている。カモシカを撃つためだという。夜になるとカモシカが飛び出してくるので、それをライフル銃で仕留めるというのだ。日が落ちると、マンシュールさんは古ぼけたライフル銃の弾をこめ、いつでも撃てるように身構えたが、なかなかカモシカは飛び出してこない。

 トラックバスはスンバワ島の山岳地帯を走っている。道は曲がりくねり、揺れも激しい。うとうとっとすると、あやうくトラックバスから振り落とされそうになる。いつしか夜もふけ、やがて東の空が白みはじめる。マンシュールさんはとうとう1発も撃つことなく夜明けを迎えた。

 トラックバスはドンプーという町に着いた。ここでマンシュールさんは降りた。1時間ほど停まるというので、日英独のぼくたち3人は、食堂で朝食にした。ここでエリッヒは大声を張り上げた。

「エニーウエア、エニーボディー、チートミー!(どこでも、誰でも、みんなが自分をだます!)」

 そのあと、誰もドイツ語などわからないのに、ドイツ語でペラペラとまくしたてる。まるでかみつかんばかりの口調だ。原因はエリッヒは100ルピア(約80円)のものを頼んだのに、食堂のおばさんは150ルピアのものを持ってきたからだという。ぼくとデビッドはもう、うんざりだった。「またかよ」という顔で目を合わせた。

 スンバワ・ベサールでも、エリッヒは同じようにして何度も怒鳴った。彼はこの町に知人がいるといって、手帳に書いた住所を見せながら、「ジャラン××(××通り)はどこ?」と通りすがりの人に聞いた。相手の人が「英語はわからないんですよ」という顔をして逃げようとすると、「オー、インドネシア、ピープル、バッド!(インドネシア人はひどいヤツらだ)」とはきすてるようにしていう。そして、そのあとは、決まったようにドイツ語でまくしたてるのだ。

 市場で買い物をしても、食堂に入っても、5ルピアとか10ルピア、日本でいえば5円、10円にものすごくこだわり、ふた言目には「チートミー」になる。エリッヒはぼくたちに何度となく「インドネシアの自然はすばらしいけど、人間は最低だ」と繰り返しいうのだった。

 デビッドはデビッドで、エリックをすごく嫌っていた。彼はことあるごとにドイツとイギリスを比較し、「ドイツの方が上だ、ドイツ人の方がはるかに優秀だ」と強調した。デビッドがぼくに「エリッヒは英語だとエリックになる」と教えてくれたときは、「エリッヒはドイツ人の名前だ。イギリスとは関係ない」といってむきになって怒った。

 そんなエリッヒだったが、スンバワ・ベサールの教会に行ったときは、ころっと態度を変えた。そこには20年以上、この地で布教しているドイツ人神父がいたからだ。神父と話しているときのエリッヒは、まるで手のひらをかえしたかのように、素直な態度だった。教会で昼食をいただいたのだが、テーブルには教会自家製の白パンと黒パンが出た。ぼくとデビッドはほとんど白パンを食べたが、エリッヒはむさぼるように黒パンを食べつづけた。

「久しぶりに食べるドイツの黒パンだ」といって、なんと目には涙を浮かべていた。そんなエリッヒだったが、ドンプーの食堂で怒鳴りちらす彼の姿を見て、日独開戦か、英独開戦が間近だな…と思った。ぼくにしてもデビッドにしても、もう我慢の限界だ。

九死に一生!

 トラックバスはドンプーを出発。スンバワ島東部の乾燥したサバンナ地帯を行く。ぼくは運転席の真上から、さらに高い、荷台の屋根に積まれた荷物の上に移った。眺めがさらによくなり、スンバワ島を一望しているかのような気分になった。サハラ砂漠をトラックに乗って縦断したときのシーンが鮮やかによみがえってくる。そのときも積み荷のてっぺんに座ったのだ。

 ところがこれが災いし、あと10キロぐらいで終点のビマに着くというところで、とんでもないアクシデントに見舞われた。突然、顔面を貫く激痛に見舞われた。最初は何が起きたのか、さっぱりわからなかったが、声もたてられずに、その場にうずくまった。顔を覆った手の指の間からはポタポタと血が流れ落ちてくる。

 道を横切る電線に顔をひっかけてしまい、目をやられてしまった。脳天から「ズッキーン、ズッキーン」と響いてくる。目のまわりをザックリと切り、まぶたを開けることもできない。「失明したのではないか」という恐怖に襲われる。あいにくと、すこし前までは、「暑いから」と、何人かいた乗客も、下の座席の方に降りてしまっている。

 時間がたつにつれて、すこしづつ、落ちついてきた。まず、そっと左目を開けて見る。「大丈夫!」。左目は見える。次に、右目だ。右目を開けようとすると、全身がひきつるような猛烈な痛みに襲われ、開けることができない。これで右目をやられたのがわかった。もうしばらくしてから、今度はこじあけるようにして、右目を開けた。すると、どうだろう、右目も見える。はっきりとあたりの風景が見える。右目を電線にひっかけた瞬間、ぼくは無意識のうちに目をつぶっていたのだ。

 バスはビマに着いた。屋根から降りると、運転手や助手、他の乗客たちは血まみれになったぼくの姿を見て、驚きの声を上げた。デビッドとエリッヒは「すぐに病院にいかなくてはダメだ」といった。

 ぼくはまず、傷がどんな具合なのか、見ることにした。運転手に鏡を借りた。左目を開けて自分の顔を見た。なんとも情けない顔になっている。右目のまわりがザックリと切れ、その傷は鼻から左目の上に延びていた。見た目にはひどい傷だったが、眼球自体はやられていないようなので、ぼくは病院には行かないことにした。これから先の長い旅を考えれば、病院代には一銭も払いたくはなかったからだ。

 荷物の中から赤チンを取り出して傷口に塗りたくり、ガーゼをあてて絆創膏で止めた。赤チンが血と一緒に筋になって流れ落ちてくるが、いまさら気にしても仕方ない。心配そうな顔をしてぼくをとりまく人たちには、作り笑いをして、「いやー、もう大丈夫ですよ」といった。

 ぼくたち3人は、トラックを乗り換え、スンバワ島東端のサペに向かった。そこから次のフローレス島に渡るのだ。

 ビマからサペまでは、なんとも苦しい道のりだった。道がさらに悪くなり、揺れもひどくなる。トラックが大きく揺れるたびに、頭をブチ割られるかのような痛みに襲われる。ギューッと手を握りしめ、「一刻も早く、サペに着いて下さい!」と祈った。

 サペに到着すると、ぼくたちは警察でパスポートを調べられた。ぼくは気がきではなかった。というのは、インドネシアのビザの期限がすでに切れているのだ。ビザを延長するためには20ドルかかるといわれていたので、20ドルを払いたくないばかりに、「えーい、ビザ切れで行こう」と決めたのだ。幸いにも、サペの警察では、ビザ切れの件は一切いわれなかった。助かった。

 その夜は警察の一室で泊めてもらった。警官はぼくの顔を見てずいぶんと心配してくれた。消毒薬や塗り薬、新しいガーゼなどを持ってきてくれた。ありがたい。傷口を洗浄し、軟膏をつけ、新しいガーゼに取り替える。傷口の手当てが終わったところで、警官にいわれた。「キミはラッキーだったね」と。

 警官の話によると、トラックの荷台に乗った乗客が、電線に顔をひっかける事故は少なくないという。最悪の場合は電線が首に入り、死亡事故になるという。「キミは命を落とさなかったし、失明もしなかった。よかった、よかった」と、警官は我がことのように喜んでくれた。インドネシアの人たちは心やさしい!

カソリング35号 2003年4月1日発行より