モンゴル一周 1997年(1)
「死」に直面した40代
「生老病死」は誰もが避けて通れない人間の四大苦だ。
ぼくは30代の後半になった時、いやというほど「老」を感じた。気力も体力もすっかり衰えてしまった自分に愕然とした。
「何とかしなくては…」
40歳になるのと同時に、40リッターのビッグタンクを搭載したスズキSX200Rでサハラ砂漠を往復縦断した。自分の全精力を投入し、命を張ってサハラ砂漠を駆けまわったことによって、新たな力を得ようとしたのだ。
帰国するとすぐに、ハスラー50での「日本一周」&「世界一周」を計画し、1989年8月17日を出発の日と決めた。
出発直前のことだった。
市から送られてきた1通の通知を見てまたもや愕然とする。
その1ヵ月ほど前のことだろうか、「肺ガン検診」を受けた。すっかり忘れていたが、その結果、精密検査を受けるようにとのこと。すぐさま近くの「坂間医院」に行くと、大きく伸ばしたレントゲン写真を見るなり坂間先生は、「東海大学病院に行くように」と紹介状を書いてくれた。
東海大学病院ではCTスキャンで肺の断層写真をとられ、それを見て呼吸器内科の先生は「大きな腫瘍ができていますねえ。できるだけ早く手術したほうがいい」と言った。
それを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
「病」に徹底的に打ちのめされ、「死」を感じざるをえなかった。
かろうじて態勢を整えると、
「先生、じつはこれからバイクで日本一周に出るのですよ。手術はそれを終えてからということにしてもらえませんか」
と哀願した。
「いつ発症したのかわからないから、まあ、いいでしょう」
先生はそういってくれた。
ハスラー50での「日本一周」の毎日は暗いものだった。
「自分は肺ガンにやられた…。もう、そう長くは生きられないな」
と、勝手にそう思い込んでしまったからだ。
「日本一周」を終えるとすぐに、東海大学病院に行った。するとうれしいことに、肺の腫瘍はそのままの大きさだった。
それをいいことに、
「先生、じつは来年はバイクで世界一周に出る予定なんですよ。手術はそれを終えてからでどうでしょうか」
と恐る恐る聞いた。
すると先生は、いともあっさり「いいでしょう」といってくれた。
こうして2000年の7月から11月までの5ヵ月で、アメリカのロサンゼルを出発点にし、インドのカルカッタをゴールにして、同じハスラー50で「世界一周2万5000キロ」を走った。
手術をどんどん先送り、「病」から逃げつづけた
「世界一周」を終えてすぐに東海大学病院に行くと、肺の腫瘍の大きさは、やはりほとんど変わっていなかった。それを見て先生は、手術はしばらくおいて、定期的に経過を見ましょうといってくれた。
それをいいことに定期的な検診をすっぽかし、カソリは逃げまくった。
8年近くも「病」から逃げつづけ、49歳になったとき、東海大学病院の人間ドッグに入った。当然のことだが、肺の腫瘍でひっかかった。そのときはすでにかなりの大きさになっていた。ここでついに逃げ切れずに、肺の腫瘍の摘出手術を受けた。
すごくラッキーだったのは肺本体の腫瘍ではなく、肺を覆う胸壁の腫瘍で、それが肺の中にめり込んでいた。ゆで玉子ぐらいの大きさの腫瘍だった。
先生には「よくこれで苦しくなかったねえ」といわれた。
細胞検査の結果、悪性のものではなく良性の腫瘍だともいわれた。
これで「肺ガン」の恐怖は去った。
腫瘍が悪性化(ガン細胞化)しなかったのは、「キミがタバコを吸っていなかったからだよ」と先生に言われた。
退院すると、1日も早くバイクに乗りたい一心でリハビリに励んだ。
思いっきり息を吸って管の中の玉を浮かす器具などは、朝から晩まで1日中、吸った。そのおかげで回復は早かった。凹んだ肺はあっというまに元どおりになった。さすが「強運カソリ」、胸の腫瘍の痕跡はほとんど残らなかった。
東海大学病院は日本にさきがけて、内視鏡を使っての胸の腫瘍の摘出の手術を行ったからだ。それまでは胸をバッサリと切り開く開胸手術が一般的だったが、内視鏡を使っての手術のおかげで、背中に小さな傷が2ヵ所、ついただけだった。
バイクに乗れるような体になったところで、「道祖神」のバイクツアー「賀曽利隆と走る!」シリーズ第3弾の「モンゴル一周」に出発。1997年8月2日のことだった。
五体満足の体に戻り、またバイクに乗れるようになったことが、目茶苦茶にうれしかった。