2024年10月27日

敦賀半島北端の立石岬へ

 福井県は日本海に落ち込む大山塊を境に嶺北と嶺南に分かれているが、越前の敦賀は嶺南になる。古くから北陸道の玄関口として栄えてきた。

 そんな敦賀から敦賀半島北端の立石岬に向かった。立石岬は若狭湾東部に突き出た岬。この岬のおかげで北西の季節風が遮られ、敦賀は昔も今も天然の良港になっている。

 江戸期から明治にかけては日本海航路の北前船が頻繁に出入りし、帆船から汽船へと時代が変わっても敦賀の繁栄はつづいた。市内の「歴史民俗資料館」で見た昭和初期の絵図が印象深い。

 敦賀港の岸壁には大型船が何隻も接岸し、航路を示す線が樺太の大泊、真岡、ロシアの浦潮斯徳(ウラジオストック)、中国の大連、朝鮮半島の元山、清津、釜山へと延びている。東京からはこれら外国航路の船に接続する国際特急列車が出ていた。

 敦賀半島の行き止まり地点は立石という漁村。このあたりは磯釣りとダイビングのメッカのようなところで、釣り人やダイバーの姿が多く見られた。

 立石の集落から立石岬の灯台まで歩いていく。高さ100メートルほどの山上にある。山道を登りつめ、最後は石段を駆け上がって灯台に着く。石造りの白い灯台だ。

 立石岬から敦賀に戻ると、県道225号で関峠を越えた。関峠は越前と若狭の国境。県道225号の脇をJR小浜線が通っている。「若狭路」のゲートをくぐり抜け、国道27号に合流。美浜町から若狭町に入ると、道の駅「三方五胡」でVストローム250SXを止めた。

 ここで昼食。若狭路活性化研究所の中川晴菜さんが握ってくれた大きなおむすびを道の駅「三方五胡」で買った梅干で食べた。

 国道27号を西へ。小浜を過ぎ、高浜町に入ると正面に若狭富士の青葉山(693m)が見えてくる。さすが若狭富士、名峰だ。

 若狭・丹後国境の吉坂峠のトンネルを抜け、舞鶴へと下っていく。

 舞鶴からは国道175号→178号で丹後半島北端の経ヶ岬に向かった。

 宮津を過ぎると、日本三景の天橋立。

 天橋立は若狭湾奥の宮津湾と阿蘇海を分ける全長3272mの砂州。砂州には7000本以上の松がある。天の橋立は海辺から見ると、単に松林の緑の線でしかないが、南端のビューランドの展望台や北端の傘松公園の展望台から見下ろすと、「う〜ん」と思わずうなってしまうほどの景色。リフトで傘末公園に登り、展望台から天橋立を見下した。

 阿蘇海の沿岸には丹後の国府跡がある。天橋立の北端にある籠神社は丹後一宮。このあたりが丹後の府中で、近くには丹後の国分寺跡もある。ここは元伊勢とも呼ばれ、籠神社は伊勢神宮の元宮になる。古代の日本では太平洋側よりも日本海側のほうがはるかに先進地帯だった。とくに丹後は大陸との結びつきが強く、大陸の先進文化がこの地にもたらされた。

 籠神社を参拝すると、その北の伊根漁港へ。伊根湾奥の漁港沿いには200軒もの「舟屋」がある。1階が舟揚場、2階が民家になっている。1階はまさに伊根の漁民たちの生活の場で、舟置場になっているだけでなく、ここでは漁の準備をしたり、漁具の手入れをしたり、魚を干したりする。伊根といえば、関西圏では一番のブリの本場。「伊根ブリ」と呼ばれているが、伊根湾に入ってくるブリを定置網で獲っている。

 伊根から国道178号を北へ。丹後半島最北端の経ヶ岬に到達。若狭湾西端の岬で、近畿最北端の地でもある。

 駐車場から岬の突端まで歩くと、そこには白亜の灯台が立っている。絶景岬で、丹後半島東側の海岸線を一望。はるか遠くに若狭湾東端の越前岬を見る。高さ数十メートルの海食崖に囲まれた経ヶ岬だが、安山岩の柱状節理が経巻に見えるのでその名があるという。ここは昔も今も海の難所。対馬海流の潮流が激しく、複雑な流れになっているので、難破する船が後を絶たないという。

 経ヶ岬で折り返し、帰路は高速道を使って「湖上館PAMCO」に戻った。夕食を食べ終わったあとは、『若狭湾風遊騎』参加者のみなさんとの懇談会。参加者の一人、出口さんは「カソリ本」を持ってきてくれた。本にサインをして、台湾ツーリングの時に使ったVストローム250SXのTシャツにもサインして手渡した。

 心に残る『若狭湾風遊騎』の参加者のみなさんとの懇談会だった。