第4回目(5)2012年3月10日 – 21日

閖上は無人の広野と化したまま

 相馬市の蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、大広間での朝食。この近くには東北電力の原町火力発電所があり、その復旧工事の作業員のみなさんで宿はほぼ満員。温泉卵、のり、塩ジャケの朝食を食べ、8時出発。カソリのV−ストローム650が先頭を走り、斎藤さんの四駆がフォローする。

 県道74号でいったん相馬の市内に入り、県道38号で松川浦に向かう。国道6号の相馬バイパスを横切ると、その途端、大津波に襲われた被災地に入っていく。この国道6号のバイパスという1本の線を境にして、世界がガラリと変ってしまう。それでも松川浦へとつづく被災地一帯の瓦礫は撤去され、乗り上げ船や散乱していた車の残骸はほとんど見られない。松川浦は「東日本大震災」から1年たってずいぶんと変わった。

 折り重なるようにして陸地に乗り上げた無数の乗り上げ船は、もう1隻も見られない。

 目抜き通り沿いのホテルや旅館、食堂の何軒かは営業を再開している。新しいビルの建設も始まっている。漁港には数多くの漁船が集結し、松川浦全体に活気を感じた。

 風光明媚な松川浦は北側の原釜と南側の磯部との間にある長さ7キロの潟湖。北端が海への出口で、そこには全長519メートルの斜長橋、松川浦大橋がかかっている。

 松川浦大橋を渡ったところが鵜ノ尾岬。そこから南へ、松川浦東岸の砂嘴が磯部まで延びていた。砂嘴上の道は大洲松川浦ラインと呼ばれる快適な2車線の海浜道路で、「日本の渚100選」の大洲海岸を通っていた。大津波の直撃を受け、大洲海岸の一帯でも多くの犠牲者が出た。

 大津波は松川浦東岸の砂嘴をズタズタに寸断した。ものすごい破壊力だ。砂嘴沿いに今、仮設の道路が造られているが、それが完成したらまた大洲松川浦ラインは復活する。それが楽しみだ。

 松川浦から海沿いの県道38号を北へ。相馬市から新地町に入ると、火力発電所の前を通っていくが、この石炭火力の発電所は操業を再開していた。

 新地に到着。漁港周辺の町並みは消え去り、家々のコンクリートの土台だけが残っている。まるで遺跡の町跡を見るかのようだ。

 JR常磐線の新地駅は跡形もない。震災2ヵ月後に来たときは流された線路や新地駅のグニャッと曲がった跨線橋が見られたが、それらはすべて撤去され、今ではどこが新地駅だったのかを探すのも難しい。駅前にあった巨大な瓦礫の山もなくなっている。

 巨大津波に襲われた新地の海岸一帯では、100人以上が亡くなった。今では家一軒、残っていない。まさに荒野としかいいようのない風景が広がっている。

 福島県道38号は県境を越えると宮城県道38号になるが、県境の手前の川にかかる橋は落下したままで通行不能。そこにカソリのVストローム650と斉藤さんの車を止め、青い太平洋を眺めるのだった。

 福島県の新地町から国道6号で宮城県の山元町に入った。

 山元町の海岸地帯でも、新地町同様、津波による大きな被害を出した。常磐山元自動車学校の送迎バス5台が津波に飲み込まれ、教官と教習生39人が犠牲になるといった悲劇を含め、700人もの死者・行方不明者を出している。

 山元町から亘理町に入っていく。

「亘理」といえば、亘理伊達家の城下町。伊達成実以来、亘理伊達家は15代つづいた。明治維新を迎えると、城下の士族たちは北海道に渡り、伊達紋別の新地を開拓した。JR常磐線の亘理駅は亘理城を模した造りだし、駅前には郷土資料館がある。郷土資料館ではそんな城下町としての亘理の歴史を見ることができる。

 亘理からは県道10号を行く。

 阿武隈川河口の荒浜に立ち寄った。ここは阿武隈川の船運の拠点として栄え、伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜も大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。

 荒浜漁港に行くと、港はずいぶんと復興し、漁も再開されていた。ちょうど漁を終えた漁船が戻ったところでスズキが水揚げされていた。魚市場では競りが行なわれていた。

 荒浜漁港の前には仮設の「鳥の海ふれあい市場」がオープン。マイクロバスでやってきた津波見学ツアーの観光客たちが海産物を買い求めていた。「東日本大震災」から1年、このような津波見学ツアーの大型バスやマイクロバスをあちこちで見かけるようになった。

 荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の亘理温泉「鳥の海」がある。大改装して5階建にして間もないのだが、1階部分はほぼ全滅。津波から1年たっているが、再開の見込みはまったくたっていない。「鳥の海」前の瓦礫の山は一段と高くなっている。瓦礫の処理がなかなか進まない様子が見てとれた。

 荒浜を出発。県道10号に戻ると、亘理大橋で東北第2の大河、阿武隈川を渡り、岩沼市に入っていく。県道20号との交差点を過ぎると仙台空港の滑走路下のトンネルに突入。「東日本大震災」の2ヵ月後に来たときは、このあたり一帯はすさまじい状況になっていた。車の残骸が散乱しているだけでなく、軽飛行機の残骸も何機も見られた。それがきれいさっぱりなくなっていた。

 仙台空港の滑走路下のトンネルを抜け、名取市に入っていく。仙台空港は名前は仙台でも岩沼市と名取市にまたがる空港。震災直後の仙台空港はターミナルビルも滑走路も大津波に襲われて浸水し、当分の間は使用は無理かと思われた。それがなんと2ヵ月もたたずに再開にこぎつけたのだ。仙台空港にいかにすごい津波が押し寄せたかは、その近くの海岸一帯の松林を見るとよくわかる。海岸線の松林はことごとくなぎ倒されていた。

 県道10号をさらに北上し、名取川河口の閖上へ。大震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていた。

 大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が焼き払われた跡のようだ。ここだけで1000人近い犠牲者を出している。そんな閖上だが、瓦礫はきれいに撤去され、今ではきれいさっぱりと何も残っていない。

 港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望する。復興の芽はまだどこにも見られない。

 日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、酒田や石巻の日和山はよく知られている。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを意味している。

 江戸時代の閖上は、伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を通して、阿武隈川河口の荒浜と七北田河口の蒲生の中継地として栄えた。ちなみに蒲生にも標高6メートルの日和山があった。「元祖・日本で一番低い山」として知られていたが、今回の大津波で蒲生の日和山は根こそぎ流され、山が消えた。

 ところで閖上(ゆりあげ)の地名だが、伊達政宗は豊臣秀吉から贈られた門を船で運び、ここで陸揚げしたことに由来しているという。

 そんな閖上の日和山には高さ2・5メートルの木柱が2本、立っている。1本には富主姫神社、もう1本には閖上湊神社と書かれている。これは2つの神社の、神が宿るための神籬だ。もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には日和山富士主姫神社がまつられていた。大津波は日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流された。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流された。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで、日和山に両神社の仮設の社ということで2本の神籬が立てられた。

 日本最長の運河、貞山掘を渡り、潟湖の広浦まで行ってみる。ここは荒浜の鳥の海と似た地形。残った橋で対岸に渡ったところには「サイクルスポーツセンター」がある。建物は残ったが、1階は大津波が駆け抜けた痕跡が生々しく、とても再開できそうには見えなかった。

 斎藤さんとはここ、閖上で別れた。斉藤さんは名取ICで高速に入り、横浜の自宅へと戻っていく。カソリはさらに北へ、下北半島の尻屋崎を目指して北上していく。