第1回目(10)2011年5月10日-20日

迂回路だらけの国道45号を北上する

 国道45号の道の駅「上品の郷」を出発する。

 国道45号はこの先の大崩落で通行止になっているので、北上川左岸の堤防上の道、県道197号を行く。

 国道398号は北上川にかかる新北上大橋の落橋で通行止なので、その手前で左折し、県道64号で山中に入っていく。山間の一軒宿、追分温泉の前を通っていく。温泉宿の建物は無傷で残っていたが休業中。ゆるやかな峠を越え、石巻市から登米市に入り、国道45号の横山に出た。

 このように国道45号の不通区間には迂回路があった。

 横山の町並みを走り抜け、横山峠に到達。ここは登米市と南三陸町の境。峠を下っていくと国道398号との分岐に出るが、国道398号はこの地点から北上川にかかる新北上大橋までが通行止になっていた。

 志津川湾を右手に見ながら志津川の町へ。

 東日本大震災以前は「海の畑」を思わせる志津川湾だったが、養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海に変わっている。何もなかったかのような穏やかな海。そんな志津川湾を見下ろす高台の南三陸温泉「観洋」は無傷で残ったが、今は避難所になって休業中だ。

 国道45号で志津川の町中に入っていくと、茫然とするような光景が広がっている。大津波に直撃された志津川の町並みは消え去り、ここだけで1000人以上もの犠牲者が出た。

 つづいて歌津へ。ここも大きな被害を受けた。国道45号の橋が落ち、迂回路を通って歌津の町を通り抜けていく。

 平成17年に志津川町と歌津町が合併して誕生した南三陸町だが、今回の東日本大震災で大きな被害を受けたことによって、「南三陸町」の町名は全国に知れ渡った。

 国道45号を北へ、南三陸町から気仙沼市に入る。

 国道45号は本吉地区が通行止だったが、ここも迂回路を行く。

気仙沼は大火事にも見舞われた

 気仙沼では「潮吹き岩」で知られる岩井崎に寄ったが、第9代横綱の秀ノ山像は大津波にも残った。そして国道45号のバイパスから旧道で気仙沼の市街地に入っていく。

 港周辺は壊滅的な状況だが、漁港には無傷で残った漁船が集結していた。魚市場はまだ再開できるような状況ではなかったが、カツオ漁には何とか間に合わせたいと岸壁にいた漁師さんたちはいっていた。

 気仙沼では大津波の被害のほかに大火事にも見舞われた。まさにダブルパンチだ。

 気仙沼漁港の奥まった一帯には、何隻もの大型漁船が乗り上げ、その下をくぐり抜けていく。まるで迷路をさまようかのようだった。

「乗り上げ船」は今回の大津波を象徴するもの。小名浜や松川浦、石巻、鮎川…といたるところで見てきたが、その撤去には巨額の費用がかかることだろう。だが「乗り上げ船」がきれいに撤去されたら、港の復興に弾みがつくことだけは間違いないので、1日も早く、すべての「乗り上げ船」が撤去されますようにと願うばかりだった。

 気仙沼からは大津波のあとの大火で焼きつくされた鹿折(ししおり)地区を通り、唐桑半島に入っていく。

 ここは牡鹿半島とは対照的で、それほど大きな被害は見られない。集落の大半が高台にあるからだ。唐桑半島を貫く県道26号も半島の背骨となる丘陵上を縫って走っているので道路沿いに被害は出ていない。

 三陸海岸屈指の海岸美を誇る「巨釜」、「半造」を見ていく。

 唐桑半島のシンボル、巨釜の高さ16メートルの「折石」は無事だ。

 海にそそり立つこの石柱は高さ16メートル、幅3メートルの大理石。明治三陸大津波(1896年)で先端から2メートルほどが折れ、折石と呼ばれている。今回の平成三陸大津波以上の被害を出した明治三陸大津波のすさまじさを今に伝える貴重な折石だ。

 唐桑半島最南端の御崎へ。

 夕暮れが迫ったところで御崎近くの民宿「堀新」に飛び込みで行ったが、ありがたいことに泊めてもらえた。夕食も用意してもらえた。

 民宿「堀新」の庭からは気仙沼対岸の大島がよく見える。

 大津波が押し寄せたときは、巨大な黒い海の壁がすべてを覆い隠し、大島はまったく見えなくなったという。「堀新」のおかみさんはそんな話をしてくれたが、ヘドロを巻き上げて真っ黒になった「海の壁」は、高層ビル並みの高さで気仙沼に襲いかかったのだ。