常願寺川(14)
国鉄富山駅の隣には、富山地方鉄道の電鐵富山駅がある。富山地方鉄道、通称地鉄は富山平野の主要な交通機関。本線は富山から上市、滑川、魚津、黒部を通り、黒部川沿いの宇奈月温泉に通じている。本線のほかに上滝を経由して岩峅寺に至る上滝線、寺田で本線と分かれ、五百石、岩峅寺を経由して立山駅に至る立山線がある。
電車はA急行、B急行、準急、各駅停車に分けられているが、各停の上滝線まわりの岩峅寺行に乗った。青い車体に白線の入った2両編成の電車。一番前に座り、流れていく富山平野の風景を眺めた。車内はガラガラ。乗客は数えるほどしかいなかった。
1月には大雪に見舞われニュースにもなった富山平野だが、3月になると雪は見られなかった。立山連峰にかかっていた雲は切れ、白い峰々が富山平野越しに見られた。電車が進むにつれて、立山はどんどん大きくなっていく。
大川寺公園駅を過ぎると常願寺川を渡り、終点の岩峅寺駅に到着。岩峅寺駅は木造の古風な駅舎だ。
岩峅寺探訪の開始。駅舎を出たところには「雄山神社前立社壇」と書かれた看板が立っている。駅から常願寺川に向かって歩く。常願寺川沿いの小路には木立に囲まれた大きな家が建ち並んでいる。立山信仰が盛んだった頃は、岩峅寺には24の宿坊があったとのことだが、今でもその当時の宿坊の面影をそこかしこで見ることができる。
雄山神社の前立社壇には東神門から入った。表神門に対して裏門になる。境内はそれほど広くはないが、木立に囲まれてきちんと整っている。拝殿と本殿を参拝したが、本殿は北陸では最大の流れ造りで、屋根の反りが美しい。
芦峅寺は全国を檀那場にしたが、岩峅寺は加越能(加賀・越中・能登)の3国が檀那場。岩峅寺も芦峅寺と同じように、明治維新の廃仏毀釈で「仏」を捨て去り、「神」のみになった。
越中一宮の雄山神社は立山の雄山山頂の峰本社、芦峅寺の祈願殿、岩峅寺の前立社壇の3社から成っているが、芦峅寺と岩峅寺はどうも仲が悪いようで、それぞれに独立した神社になっているような感がある。
岩峅寺でぜひとも訪ねてみたかったのは、野田泉光院が泊った「南泉坊」。それは雄山神社前立社壇の東神門を出てすぐのところにあった。現在は宿坊をやっていないということだが、それでも「なんせんさん」と呼ばれていた。
「南泉坊はどこでしょうか?」
と尋ねた人が南泉坊のおばあさんだった。
野田泉光院のことを聞いてみたが、おばあさんは他所からお嫁にきたので、昔のことはわからないと言った。
野田泉光院は旧暦の6月4日に岩峅寺の「南泉坊」に着いた。ところが立山の山開きまでにはまだ間があった。
立山に登ろうとしていたのは野田泉光院だけではなくほかにも何人もいたので、岩峅寺の衆徒は協議の末、「明日にも山を開こう」と決めた。
翌6月5日、野田泉光院は立山に向けて出発。『九峰修行日記』には次のように書かれている。
六月五日 半天。卯の刻宿坊出立。先達には出家一人、上下吾々共迄に以上七人、足倉(芦峅寺のこと)と云ふ村まで岩倉(岩峅寺のこと)より三里。此村姥大明神とて立山権現の由緒の宮あり。当所より山麓まで一里、大川あり。藤橋を掛けたり。藤橋は格別に危なき橋にて軽業の綱渡りに同じ。長さ十五間。夫より山に登る。(後略)
その夜、野田泉光院らは桑名という所で泊った。
翌6月6日、室堂から立山の雄山に登った。その日は晴天で、山頂からは富士山や浅間山、白山が見えたと記している。別山には雪のために登れず、立山の地獄谷を見たあと、室堂に泊った。
翌6月7日、一行は室堂から岩峅寺に戻った。