第1回目の「聖地巡礼」

 日本観光文化研究所(観文研)をつくられた宮本常一先生の故郷、周防大島は、ぼくにとっては聖地だ。バイクで「日本一周」をするたびに、周防大島には立ち寄っている。

「30代編日本一周」(1978年)は空冷のスズキ・ハスラー50でまわった。

空冷のハスラー50を走らせての「30代編日本一周」。スズキの本社で

 宮本先生の故郷はご子息の宮本光さんと紀子さん夫妻がしっかりと守っていた。光さんは「農業こそ人間にとって一番大事な仕事!」と東京農業大学卒業後、農業の実習を積み重ね、故郷の周防大島に戻ってミカンづくりをしていた。奥さんの紀子さんは武蔵野美術大学の出身で宮本先生の教え子だ。

 11月5日に有料の大島大橋で周防大島に渡り、宮本家に行った。光さんとは「ヤーヤーヤー」と久しぶりの再会を喜び合った。

 その夜は宮本家で泊めてもらった。腹いっぱい夕食をご馳走になったのだが、その中で出たソーメンウリが珍しく、またおいしく、遠慮もせずに丼1杯、食べた。その名の通り、煮るとソーメンのように細長くほぐれてくる。

 食後は大島の話、大島の農業の話、島の青年たちの話、さらには光さんの大好きな時刻表や地図の話と、夜遅くまで光さんとの話で盛り上がった。

 翌日は宮本光さん、紀子さん夫妻についてミカン園に行った。

 仕事は肥料の鶏糞をまくこと。軽トラックの荷台に鶏糞の入った袋を満載にし、山道を登っていく。周防大島は島全体が山がちで、平地が少ない。そんな山々の斜面を耕しているので、決して楽な農業ではない。道が行き止まりになると、そこから先は「ネコ」と呼ばれるエンジン付きの一輪車と、背負子に袋を積み替え、急な山の斜面を登った。

この格好で宮本光さんのミカン園(周防大島)での手伝いをした

 ミカンの木には鈴なりのミカンが成っていた。もう半月もすれば収穫が始まり、そうなると猫の手も借りたいほどの忙しさになるという。宮本夫妻の手伝いをし、一緒になって鶏糞をまいた。休憩時間になると光さんには「カソリさん、食べたいだけ食べていいよ」といわれ、大粒のミカンをもぎとり食べたが、周防大島のミカンの甘さといったらなかった。

 午後は標高377メートルの白木山に登った。山頂まで自動車道がついている。中腹まではミカン園が続き、その上は森林。松が多いのだが、すっかり松くい虫にやられ、無残にも赤茶色に枯れていた。白木山の山頂からの眺めはすばらしいもので、宮本先生の故郷の集落を眼下に見下ろし、周防大島の海岸線を一望した。まるで地図を見ているかのようだった。

 翌日は周防大島を一周し、もうひと晩、宮本家で泊めてもらい、伊保田港から四国の松山にフェリーで渡った。

 四国を一周したあと、11月11日に周防大島に戻ってきた。

 再度、宮本家に泊めてもらい、翌日は地元の東和中学校で話をすることになった。光さんがすべて段取りしてくれたことだった。1年生2クラスの生徒80名を前にして、アフリカ大陸をオートバイで旅したこと、今こうして50ccバイクで日本一周をしていることなどを話した。

 45分の授業だったが、最後の10分間は質問の時間。どのようにしてアフリカの人たちと話したのか、毎日何を食べていたのか、病気になったときはどうしたのか、動物は怖くなかったのか…と、次々に質問が飛んできた。

 大汗をかいた授業だったが、誰もが行儀よく、生徒たちの澄んだ目に圧倒されてしまった。そのあと宮本夫妻と固く握手をかわして別れ、周防大島を離れたのだ。

 こうして第1回目の「聖地巡礼」は終わった。

「日本一周」を終えて東京に戻ってからのことだが、観文研で宮本先生にお会いしたとき、周防大島に立ち寄り、光さん夫妻にすっかりお世話になったことを伝えた。すると先生は「そうか、それはよかった!」と言われてたいそう喜んで下さった。
『民俗学の旅』(文藝春秋刊)の中で宮本先生は、次のように書かれている。

「私の若いときからの一つの夢は六十歳になったら郷里へ帰って百姓をすることであった。そして地域社会の持っている問題を郷里の人たちと考えてみたかった。ところが隠居する年になって学校へ勤めるようになった。勤めているうちに十年余りたってしまった。帰住するために、古くなった家を建てなおしたら次男が郷里へ帰って百姓することになった。私の郷里は昭和三十二年頃からミカンの植栽が進んだ。米や麦を作るよりはミカンを作る方が経済的にも安定するし苦労も少なくなると思ったが、生産過剰になって、ミカン作りでは生活がたちにくくなった。そしてミカンを作っていた若い者は都会へ出てゆくか、役場や農協へ勤めるようになった。そして人口7000余の町で二十歳代で百姓をしている者は一人もいなくなった。そうしたところへ帰ってミカンを作っても生活のたつ道を見つけたいと努力している。ミカンを台木にして、新しい品種の穂木を接木している。私にできなかったことをやってくれるのではないかと期待しているけれど、人間のあるいてゆく道の長さを近頃思い知らされることが多い。人の生きてゆかねばならない道は無限につづいているのである」

 宮本先生はこのように書かれているが、その行間には光さんが先生の故郷をしっかりと守り、先生の夢を受けつないでくれたことへの感謝の気持ちが読み取れる。