3・11、2年後の東北を行く

『地平線通信』2013年5月号より

●「東日本大震災」から2年後の3月11日、東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬をスズキの250ccバイク、ビッグボーイで出発。東北太平洋岸最北端の尻屋崎を目指しました。小名浜の臨海工業地帯から小名浜漁港へ。魚市場は再開されているものの、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故による風評被害をモロに受け、水揚げされる魚はほとんどありません。小名浜漁港はいまだに閑散としていました。

●ここで東日本大震災発生の14時46分を迎えました。町中に鳴り響くサイレンの音に合わせ、海に向かって1分間の黙祷。塩屋崎の豊間では大勢の人たちが集まって盛大な慰霊祭が行なわれていました。次々にやってくる人たちが祭壇に花を供え、海に向かって手を合わせていました。慰霊祭の会場や堤防の上にはキャンドルが置かれていました。その数は3500。地元のみならず、日本各地から送られた3500のキャンドルは、日が暮れると、いっせいに火が灯されるということでした。

●「鵜ノ子岬→尻屋崎」の第1日目は四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まりました。ここには地元の渡辺哲さんと、東北各地を精力的にまわっている古山里美さんが来てくれました。3人で「よこ川荘」に泊まりました。夕餉の膳ではまずは犠牲者のみなさんに「献杯」。夕食を食べながら渡辺さんには「浜通り」の現状をいろいろと聞き、古山さんには今日1日まわったところの話を聞きました。

●大広間での夕食でしたが、同じテーブルで食事をしている女性がいました。札幌からやってきた小田原真理子さんです。何と小田原さんは被災地のみなさんに「鎮魂の舞踊」を見てもらいたくてやってきたのです。札幌にご主人とお子さんたちを残してきたとのことです。食事がすむと「アベマリア」と「ラブ」の2曲に合わせて、「鎮魂の舞踊」を踊ってくれました。一心不乱になって踊りつづける小田原さんの姿は感動的で。我々のみならず、「よこ川荘」のおかみさんもすっかり心を奪われてしまったかのように見えました。

●我々は部屋に戻ると、渡辺さんの差し入れで飲み会を開始。渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだに自宅には戻れないのです。3・11から2年もたっているというのに、いまだに家族がバラバラなのです。そんな大変な思いをしているのに、ライダー特有の明るさとでもいうのでしょうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまうほど。気持ちがいつも前向きなのです。翌日、渡辺さんは「よこ川荘」からバイクでいわき市内の勤務先に出社していきました。

●「鵜ノ子岬→尻屋崎」の第2日目は相馬市の蒲庭温泉「蒲庭館」に泊まり、第3日目は東松島市の民宿「桜荘」に泊まりました。「桜荘」は松島湾と石巻湾を分ける宮戸島にあります。窓を開けると、目の前には絵のように美しい松島湾が広がっています。この海が大津波の直後は瓦礫の海と化したということです。見渡す限り一面の瓦礫で覆いつくされ、海なのか陸なのか、わからなくなったほどだといいます。

●「松島四大観」の「壮観」(大高森展望台)のある宮戸島は松島湾の内海に面した里浜と太平洋の外海に面した月浜、大浜、室浜の4つの集落から成っています。人口はほぼ1000人。月浜、大浜、室浜はかなりの被害を受け、とくに月浜の民宿は大半が流されていました。大津波の直後、隣りの東名や野蒜で大きな被害が出たこともあり、宮戸島に入る橋が落下したこともあり、宮戸島の状況が東松島市の市役所に届かなかったこともあって、一時は1000人の島民全員が絶望視されました。

●ところが実際には1人の犠牲者も出なかったのです。これはすごいことだと思います。まさに「奇跡の島」。大地震の直後、「津波がやって来る!」ということで、島民のみなさん全員がすばやく避難したからなのです。みなさんは小さい頃から「地震が起きたら必ず津波が来る!」と頭にたたき込まれてきました。避難してからがまたすごいのです。残った家々に島の米を集め、すぐに炊き出しが始まりました。そのため島は孤立しましたが、救援隊が入ってくるまでの何日間かをみなさんは励ましあい、助け合って全員が生き延びたのです。

●「鵜ノ子岬→尻屋崎」の第4日目は大船渡の「冨山温泉」に泊まり、第5日目は三沢の「太郎温泉」に泊まりました。三沢からは国道338号を北へ。ビッグボーイで切る風は真冬と変わらないような冷たさです。凍傷のような状態になり、ひどい顔になってしまいました。あたりは一面の雪景色でしたが、ありがたいことに路面に雪はありませんでした。ガソリンスタンドで給油したときは、「ラッキーだったね。2、3日前だったらアイスバーンでとてもではないけど、バイクでは走れなかったよ」といわれました。

●ラムサール条約登録地の仏沼や小川原湖から流れ出る高瀬川を見たあと、六ヶ所村から東通村に入っていきました。物見崎が村境です。岬の突端には灯台が立っています。そこから南側は連続する断崖の風景、北側は活況を見せる白糠漁港と、岬をはさんで南と北ではガラリと風景が変わります。東北電力の東通原子力発電所の前を通り、ついに下北半島北東端の尻屋崎に到着。「着いた!」と、感動したのもつかの間、岬へのゲートが閉まっているではないですか。尻屋崎は3月末までが冬期閉鎖でした。

●それではと尻屋の集落を走り抜け、太平洋側の尻屋漁港を通り、もう一方のゲートまで行ったのですが、やはり冬期閉鎖でゲートは閉まっていました。歩いて尻屋崎の灯台まで行こうかとも思ったのですが、それはやめにし、尻屋漁港の岸壁にビッグボーイを止めました。そこを「鵜ノ子岬→尻屋崎」のゴールにしたのです。尻屋崎で折り返し、来た道を引き返し、鵜ノ子岬に戻りました。

●こうして「鵜ノ子岬→尻屋崎2013」を走って一番強く感じたのは、3・11から2年がたった落着きです。大津波の痕跡のほとんど見られなくなったところもあるし、瓦礫の撤去された広い更地を目の前にして、「ここはほんとうに大津波に襲われた被災地なのだろうか」と不思議な気持ちになることもありました。「東日本大震災」は確実に風化しています。震災1年後ではまだ生々しく残っていた大津波の爪痕はずいぶんと薄れ、それとともに「復興」が目に見えるような形になってきました。

●しかし地域によって復興の度合のばらつきがきわめて大きいのが現実です。震災1年後よりも2年後の方が、はるかに格差が拡大しています。とくに原発事故に見舞われた福島県の復興の遅れは目立っています。このような格差が広がっていくのは、あまりにも残酷なことではないですか。来年の3月11日には「鵜ノ子岬→尻屋崎2014」に出発します。これからも歴史に残る巨大津波に襲われた東北の太平洋岸を見つづけたいのです。(賀曽利隆)

※2021年も3月11日に「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発します。東日本大震災から10年目、今回が第26回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になります。

2013年の「鵜ノ子岬→尻屋崎」。ここは久之浜(福島)の秋葉神社。大津波にもその直の大火にも残った奇跡の神社