2025年12月5日

バイクのふるさと浜松2025 4

 国道301号の三遠(三河・遠江)国境の宇利峠で折り返し、次に県道68号→県道308号で真言宗の大福寺へ。大福寺の「大福寺納豆」は「浜納豆」の元祖だ。

 大福寺の参拝を終えると、県道308号で三遠国境の瓶割峠を登っていく。峠道に沿って「三ケ日ミカン」のミカン園がつづく。

 三遠国境の瓶割峠に到達。峠の周辺は砕石場でダンプカーが出入りしている。ここも宇利峠同様、浜松市と新城市の境になっている。

 瓶割峠も「峠返し」で折り返し、次に県道68号で風越峠を越え、奥山の臨済宗方広寺派の大本山、方広寺を参拝した。

 ここは我が懐かしの地だ。もう何年も前のことになるが、門前の茶店で休憩したことがある。そのときぼくは劇的な「食」との出会いをした!

 茶店の奥さんは、「これ、関東の人には食べられますかね」といいながら、お茶と一緒に皿に盛った茶色い味噌の固まりのような豆粒を出してくれた。

 さっそく何粒か手でつまんで食べてみると、焼き味噌のような風味があり、山椒の香りがする。何か、昔ながらの懐かしさを感じさせるような素朴な味わい。それは「食べられますか?」などというものではなく、茶請けにはちょうどいい。

 これがぼくにとって初めての「浜納豆」との出会いになった。

 日本には大きく分けると、2種類の納豆がある。水戸納豆で代表される糸引き納豆と、浜松の浜納豆や京都の大徳寺納豆のような乾燥納豆である。ぼくは乾燥納豆は食べたことがなかったので、「いつの日か食べてみたい!」と思っていた。その乾燥納豆の浜納豆に出会ったのだ。

「この浜納豆は富塚町(浜松市)の法林寺さんでつくっているんですよ。それで法林寺納豆といいます」と茶店の奥さんにいわれると、ぼくは猛烈な興味を抱き、佐鳴湖の北東1キロぐらいのところにある法林寺に行き、そこで「法林寺納豆」のつくり方を聞いた。

 よく洗って水に浸した大豆を6、7時間かけて、ゆっくりと蒸す。

 次に酵母菌の混ざったコウセン(麦こがし)をまぶし、麹室で3、4日、寝かせる。

 それをキアゲ(生醤油)に漬けて半年近く熟成させる。

 最後にゴザの上に広げて天日で乾燥させる。そのときに、ひと粒づつをころがしながら形を整え、醤油漬けにしたショウガをまぶして風味を出す。

 袋詰めのときにサンショの実を入れる。

 このように「法林寺納豆」は大変な手間と時間をかけて作られていた。

 さきほど参拝した真言宗の大福寺は貞観17年(875年)に創建された幡教寺が元になっているとのことだが、この寺が「浜納豆」発祥の地。中国(明)の僧が伝えたというので、当時は「唐納豆」といわれた。

 茶店のご主人と奥さんの漫才のようなやりとりは今でも忘れられない。

 ご主人は地元の方で、奥さんは福島県のいわき市の出身。2人は昭和20年代に東京で出会った。

 ご主人にとって納豆といえば浜納豆のような乾燥納豆のことだった。当時、このあたりには糸引き納豆はまったくなかった。東京に出た時、「なっと、なっとー、なっと!」の納豆売りの声に引かれて、初めて東京の納豆を買った。そのときは、飛び上がらんばかりに驚いたという。経木につつまれた糸引き納豆はご主人の想像をはるかに越える食べ物で、まったく食べられなかったという。

 ご主人が奥さんと出会ってまもなくのことだ。

「これは故郷の浜納豆だよ」
 といって奥さんに手渡した。

 奥さんはてっきり「甘納豆」だと思い込み、何粒かを口の中に入れた。その瞬間に吐き出した。とても食べられるものではなかったという。結婚し、浜松のこの地に来て30年以上になるとのことだが、奥さんは今だに浜納豆は食べられない。納豆といえば糸引き納豆のことで、故郷の四倉(いわき市)の納豆は水戸納豆に負けないくらいに味が良いという。四倉の納豆の味がなつかしく思い出されて仕方ないという。

 浜松は日本を東西に分ける分岐点。糸引き納豆は浜松以東のものだし、浜納豆などの乾燥納豆は浜松以西のものになる。

 奥山の方広寺を出発すると、県道303号で三遠国境の陣座峠まで行き、ここも「峠返し」で折り返し、国道257号で三遠国境の引佐峠へ。峠は炭焼田トンエルで貫かれている。引佐峠も「峠返し」をしたが、ここを最後に三遠国境の「峠越え」を終えた。

  • 国道301号の三遠(三河・遠江)国境の宇利峠