30年目の「六大陸周遊記」[099]

[1973年 – 1974年]

アメリカ編 12 カリ[コロンビア]→ 東京[日本]

カソリ、茫然自失…

 南米・コロンビアのカリでは、野宿をしている最中に、自分のすべての荷物を入れたバッグを盗られてしまった。

 残されたのは、身につけていたパスポートと「南米一周」の資金、シュラフ、それと水筒だけである。

 靴も盗られた。

 ぼくは途方に暮れ、思わず歩道に座り込んだ。

 ピーンと張りつめていた糸がプッツンと切れてしまったかのようだった。

 それまでの15ヵ月の旅の疲れが、堰を切ったかのようにドーッと噴き出し、その場を立ち上がる気力もなかった。

これが自分の顔?

 しばらく歩道に座り込んでいたが、気をとりなおし、裸足でカリの町を歩く。

 鉛のように重い足をひきづり、夜中に追い立てをくらったバスターミナルまで行く。

 洗面所の鏡で久しぶりに自分の顔を見ると、ほほはこけ、顔色も悪く、これがほんとうに自分の顔なのだろうかと愕然とする思いだった。

 エクアドルのキトに向かって、南へ足を前に踏み出そうとするのだが、どうしても足が前に出ない。そのときぼくは初めて疲れ過ぎた自分を自覚した。

 肉体的な疲れだけなら4、5日も休めばとれるかもしれない。

 だが、肉体的な疲労以上に精神的に疲れていた。

「もう、日本に帰るしかないな」
 と決断した。

「六大陸周遊」の拡大版を目指す!

 日本に帰ろうと決めると、ウソのように気持ちが楽になった。

「南米一周」は機会を改め、今度は南米だけで、バイクでまわろう。

「六大陸周遊計画」の拡大した部分、「サンフランシスコ→ニューヨーク→ロンドン→イスタンブール→カルカッタ」も、やはり機会を改め、これもバイクでまわろう。

「また、次の機会だな」

 日本への帰り道は、キチッと決めようと気合を入れた。

 カリで安い靴を買うと、北に向かって歩いていく。苦しいヒッチハイクの連続だったが、カリブ海の港町、バランキリャに出た。

 バリャンキリャでコロンビアのコンドル航空の安チケットを買い、アメリカのマイアミに飛んだ。

 旅の最後は「マイアミ→サンフランシスコ」のアメリカ横断。「ニューヨーク→ラレド」同様、またしても簡単なアメリカでのヒッチハイクだった。

 サンフランシスコからサイアム航空機で東京へ。

「六大陸周遊」の旅を終えて帰国したのは1974年11月13日。東京を出発してから456日目のことだった。