[1973年 – 1974年]
オーストラリア編 04 ケアンズ → ブルーム
大分水嶺山脈を越えて
オーストラリア東海岸北部のケアンズからタウンズビルに戻ると、国道78号で内陸部に入っていく。チャーターズタワーの町までは、老人の車に乗せてもらった。老人はぼくが日本人だとわかると、さんざん日本を非難した。
「日本は危険な国だ。なにをしでかすか、わかったものではない。(太平洋)戦争のときもそうだった。私はあやうく日本軍の空襲でやられるところだった」
太平洋戦争中、日本軍は激しくダーウィンを爆撃したという。そのころ老人はダーウィンに住んでいた。日本軍の空襲で家は焼かれ、命からがら逃げ延びた。日本軍の空襲では多数の死傷者が出たという。そのときの恐怖のシーンが老人の脳裏に焼きつき、いまだに離れないという。
オーストラリアには猛烈な勢いで日本車が進出していた。老人の車も日本車だった。だが、老人はいった。
「私が日本を嫌っているのと、日本車が好きで乗っているのとは、まったく関係ないことだ。日本車はすばらしい。ほんとうにすばらしい。値段が安いのにもかかわらず、品質がきわめて高い。私はそれだから日本車に乗っている。ただ、それだけのことだ」
老人は70を過ぎている。年などまったく関係ないかのようにぶっ飛ばす。もっともオーストラリアの国道をノロノロ走っている車などはないが。
車はオーストラリアの東側を南北に連なる大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)に入っていく。山脈といっても別に険しい山並みがつづくわけでもないが、あたりの風景は一変し、サトウキビ畑は完全に消えた。
きれいな夕日を見る。雲ひとつない西の空はまばゆいばかりに輝き、やがて大きな夕日がゆっくりと山の端に落ちていく。チャーターズタワーの町に着いたときは、すでにあたりは暗かった。日本大嫌いの老人にお礼をいって車を下り、その夜は町外れで野宿した。
ブラドと走った2200キロ
チャーターズタワーの町を過ぎると、交通量はガクッと減った。ときどき、思い出したように車が通るが、乗せてくれない。ヒッチハイクのきわめて難しい内陸部に入ったのだ。シドニーからずっと楽なヒッチハイクをしつづけてきたので、それがこたえた。
日が高くなるにつれて、厳しい暑さになる。太陽が頭上に来るころは、まともに直射日光を浴びつづけているので、頭が割れるように痛む。日射病にかかったかのような辛さ。「地獄のあとは天国」。これは旅の法則だ。苦しんだかいがあり、午後になると、オンボロ車が停まってくれた。オイルがもるような車なので、どうせ近くまでだろうとタカをくくっていたら、なんと2200キロ先のキャサリンまで行くという。あのウォールさん一家と出会ったキャサリンだ。2200キロというと、日本だと東京から鹿児島、さらには沖縄の那覇あたりまで行く距離になる。
乗せてくれたのはユーゴスラビア人のブラド。1947年生まれで、ぼくと同年。それだけに気があった。チャーターズタワーからキャサリンまで、4日間のブラドとの旅が始まった。
目をキラキラと輝かせ、夢を見、夢を追いつづけている人に出会うと、無性にうれしくなるものだ。ブラドはそんな若者だ。
彼はユーゴスラビアのザグレブで生まれた。ユーゴスラビアの貧困と不自由から逃れたくて、19歳のときに、オーストラリアに単身で移住した。バイタリティーに富んだブラドは言葉のハンデをものともせずに、いろいろなことに手をだしてきた。今は北部地方のビクトリア川を中心にして、ワニの密猟をやっているという。
「真夜中の川に行って、明かりひとつで川を下っていくんだ。ワニをみつけ、パーッとサーチライトで照らすと、ワニはすっかり動けなくなってしまう。そこを銃でねらい射ちする
と、得意気に話す。1ヵ月で5000ドル(約200万円)も稼いだこともあるという。ブラドはその資金を元にして、オパールの原石を買い込んでいた。
「ワニの密猟はヤバイので、そろそろオパールに換えようと思っている。オーストラリア産のオパールを世界中に売るんだ」
ブラドとはいろいろなことを話した。
その中でもすごく印象に残っているのが、自由についてだった。
「人間にとって一番大事なものは自由だ。自由に自分の頭で考え、それを自由に行動に移せる、そんな自由だ。そうでなかったら、人間は人間とはいえないよ。ユーゴスラビアにいたときは自由がなかった。政治の批判はできないし、自分の将来の選択の自由もない。何を考えようと自由なのに、夢を抱く自由もなかった」
それだからブラドはオーストラリアに来てよかったといっている。しかしブラドはオーストラリア人に好意は持っていなかった。おそらく彼がオーストラリアにやってきたころは、英語も話せずに、オーストラリア人に冷たくされたと思い込んでいるからだろう。
「オーストラリア人といったって、もとはといえば、みんな自分と同じような移民。それなのに新しくやってきた移民をバカにして」
ブラドの話からも、いろいろな民族の混ざり合ったオーストラリアの抱える悩みを見ることができる。オーストラリアはいろいろな民族の寄り合い所帯なので、ドイツ系はドイツ系でかたまり、フランス系はフランス系で、イタリア系はイタリア系というように、民族ごとで固まっている。オーストラリア人の本家ともいえるイギリス人でさえ、イギリス国内の対立をそのままオーストラリアに持ち込み、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は、お互いに反目し合っている。
幅の広いグレート・ディバイディング・レインジ(大分水嶺山脈)を越え、内陸部に入っていくと、乾燥した大地がはてしなく広がっている。車窓からは車にぶつかって死んだカンガルーをひんぱんに見かける。カンガルーは暗くなると、車のヘッドライトをめがけて飛び込んでくる。
ブラドのオンボロ車にも、ルーバー(カンガルー・バー)がついている。ルー・バーというのは、車の前につける鉄製の頑丈なバーで、ぶつかたカンガルーをはね飛ばすようになっている。ルー・バーはカンガルーのためばかりでなく、牛と衝突したときも、車や運転者や同乗者のダメージを減らしてくれる。ブラドは買ったばかりの新車を牛にぶつけてしまい、車は大破、そこでやむなく100ドル(約4万円)でこのオンボロ車を買ったのだという。
日が落ちても走りつづける。睡魔に襲われてくると、ブラドは道のわきで車を止めた。そしてシートを敷き、我々は降るような星空のもとで野宿した。
泥沼地獄
翌日は夜明けとともに出発。雲ひとつない快晴で、朝日が草原を赤く染めた。単調な風景の連続に、疲れがたまり、思わずウトウトしてしまう。そこでブラドとは途中、何度か運転をかわった。ブラドは100ドルで買った車が予想以上に走るのでご機嫌だ。
トラブルもなく、2日目も夜になった。道はダートだが、それほど悪くはない。
ブラドにかわってぼくが運転しているときのことだった。車のヘッドライトは片側が壊れ、左側だけで走っていた。その頼りない明かりの中に、突然、道いっぱいに広がった水溜まりが浮かび上がった。とっさに急ブレーキをかけたが、間に合わずに、その中に突っ込んでしまった。その大きな水溜まりの手前には、草原の中をう回する道があったのだが、まったく気がつかなかった。
ブラドが車のアクセルを踏み、ぼくが車の後を押した。しかし、まったく動かない。真昼の暑さとはうってかわって、泥水は氷のような冷たさだ。ぼくたちは車を押すのをあきらめ、通りがかりの車を待った。
「悪いなあ、ブラド」
「気にするな、タカシ。こういうときのために、ロープを持ってきているんだ。車が来たら、助けてもらえばいい」
真夜中になって待ちに待った車が来た。懐中電灯を点滅させて、車を停めると、大型のタンクローリーだった。運転手は快く「よし、引っ張ってあげよう」といって、ブラドの車に結びつけているロープをタンクローリーで引っ張った。ロープはピーンと張りつめる。祈るような気持ちで見ていたが、無残にもロープはプッツンと切れてしまった。
タンクローリーの運転手は「ロード・キャンプに知らせておく。多分、明日の朝になれば助けだされるよ」といい残して走り去っていった。
ぼくたちは「明日の朝まで待とう」といって、車の中で寝た。ブラドに揺り動かされて目をさましたときは、まだ夜明け前で、あたりは暗かった。車がやってくる。懐中電灯を振って車を停める。それは回送中のバスだった。なんともラッキーなことに、バスは長い鉄製のワイヤーを積んでいた。それを使ってバスに引っ張ってもらうと、ブラドの車はジリジリと動きだし、ついに「泥地獄」から脱出できた。ぼくとブラドはバスの運転手と握手をかわし、「泥沼地獄」からの脱出を喜び合った。
マウントアイザ、テナントクリークと通り、なつかしのキャサリンに着くと、ブラドは友人のボブの家に行った。ボブは食べきれないほどのチキンとポテトチップを買ってくる。ぼくたちはビールをガンガン飲みながら食べた。そこへブルノが帰ってくる。ボブもブルノもユーゴスラビア人。彼ら3人は何度か一緒に仕事をしたことがあるという。
ひと晩、泊めてもらい、翌朝、キャサリンの郊外まで車で送ってもらった。そこでブラドとボブ、ブルノと別れた。
そこで車を待った。厳しい暑さ。頭がクラクラしてくる。車に乗せてもらえないまま、昼になった。そんなときにブラドがボブ、ブルノと一緒にやってきた。「昼食だよ」といって、冷たい飲み物とサンドイッチ、サラダを持ってきてくれた。ありがたい。ほんとうにありがたい。彼らのおかげで元気が出た。
恐怖の酔っぱらい
午後になって1台の車が停まってくれた。運転しているのは50過ぎの人。乗せてもらうなり、まずはアイスボックスに入ったカンビールをすすめられる。炎天下に立ちっぱなしだったので、一気に飲み干した。なんともいえずにうまいビール、だが、運転手はぼく以上に、2本、3本とたてつづけに飲んだ。それ以前にもかなり飲んでいるようで、危なっかしくて仕方がない。道を外れ、立木にぶつかりそうになったときは、思わず冷や汗が出た。「もう、これまで」と、ぼくが運転をかわった。そのとたんに、彼はグーグー、いびきをかいて眠ってしまうのだ。
おまけに車のトラブルに見舞われた。オイルランプがつきはじめ、さらにラジエター水も減ってオーバーヒート寸前になる。からくもガソリンスタンドにたどり着き、オイルを足し、ラジエター水を補給し、給油した。ところがこのオッサン、金を持っていないのだ。ガソリン代とオイル代の9ドルは、ぼくが払うしかなかった。
キャサリンから500キロのクヌヌラに着いたのは、夜も遅くなってからのことだった。酔っぱらいのオッサンは大分、酔いもさめたようで、何事もなかったかのように「じゃー、元気でな」といい残して走り去っていった。その夜はクヌヌラの町の中心の広場で野宿したが、蚊にさんざんやられ、よく眠れなかった。
自由奔放な空気
夜が明けたところで出発だ。クヌヌラはオード川をせき止めた感慨用のダムから水を引いてつくり出した広大な農業地帯の中心地。ホールズクリークからフィッツロイクロッシングに向かって歩いていく。おびただしい数の蠅。はらってもはらっても、まとわりついてくる。飛行場のわきを通る。そのとき、ものすごい数の鳥の群れを見る。一瞬、空が暗くなるほどの鳥の大群だった。
オード川を渡っているときに、ティモール海のケンブリッジ湾に面したウィンダムまで行く車に乗せてもらい、ホールズクリークとのT字の分岐で下ろしてもらった。
ホールズクリークまでは350キロあるが、すごくラッキーなことに、ほとんど待たずに次の車に乗せてもらった。若い男女5人の乗る車。それなのにぼくを乗せてくれたのだ。後の座席には女の子たち3人が乗っていたが、その中に割り込んで座らせてもらった。
彼女たちとはいやでもおうでもピッタリと肌を寄せ合い、彼女たちの体の暖かさがジンジン伝わってくる。なんと5人はパースまで一緒に行くとのことで、その途中のブルームで仕事をするという。舗装は途切れ、ダートに突入。ものすごい土ぼこりが車内に入り込み、彼女たちの顔はあっというまに真っ白になる。昼過ぎにホールズクリークに到着。レストランで5人と一緒に食事をしたが、ぼくの分はみんなが払ってくれた。
次の町、フィッツロイクロッスングへ。約300キロある。荒野には無数の蟻塚。まるで墓標のようだ。珍しく雲を見た。遠くの方では雨が降っている。夕方、フィッツロイクロッシングに到着。ここにはホテルがあって、パブがあって、郵便局があって、ガソリンスタンドがあってと、それだけ。とても町といえるようなところではない。
昼と同じようにレストランで5人と一緒に夕食を食べ、そのあとはパブで飲んだが、自分の分はまたしてもみんなが払ってくれた。5人はホテルに泊まり、ぼくは車中で寝た。またしても蚊の猛攻を受け、ひと晩中、蚊との戦いであまりよくは眠れない。
フィッツロイクロッシングを過ぎると舗装路になった。風景はほとんど変わらない。荒野が延々とつづく。ダービーの町に寄り、500キロ近くを走って、夕方、インド洋に面したブルームに到着した。5人はここでしばらく働くという。
男性2人は中国人の経営する漁業会社の船に乗り、女性3人はレストランで働くという。5人はシドニーを出発した。みんなでお金を出し合って中古車を買い、それで旅に出た。途中、ブリスベーンで働き、マウントアイザで働き、さらにダーウィンで働いてここまでやってきた。ブルームで働いたらパースまで行くという。そんな5人に自由奔放な空気を強く感じるのだった。
夕暮れのブルームで男性2人とは握手をかわし、女性3人とは熱き抱擁をかわして別れたが、いつまでも後髪を引かれるような思いがした。
カソリング43号 2003年11月発行より