アジア大陸横断 2016年(3)
イランに入った
2016年8月28日、トルクメニシタンの首都アシュハバートを出発。南方に連なる山脈の峠を越えてイランに入る予定だったが、山崩れで国境への道は閉鎖。急きょ、平原の国境を越えてイランに入った。道標はペルシャ語に変わった。
我が相棒のスズキDR−Z400Sを走らせ、国境に近いダルガスの町に到着。町中の食堂で昼食にする。イランに入って最初の食事は「チェローカバブー」。羊肉を串焼きにしたカバブーに長粒米の白飯がついている。チェローはこの白飯のこと。生タマネギを添えたナンもついている。食後にはチャイ(紅茶)を飲む。角砂糖を口に含んで飲むのがイラン流だ。
ダルガスを出発し、2000m級の峠を越えていく。ペルシャ語で「峠」は「ギャルダネ」。シルバンからA1(アジアハイウエイ1号)でボジュヌールドへ。その間では峠を貫くトンネルを抜けた。それは驚きというか、感動の瞬間だった。ウラジオストックから1万1135キロを走って初めてのトンネルだったからだ。トンネルを走り抜けるとボジュヌールドの町明かりが見えてきた。
ボジュヌールドの「ネギン・ホテル」に泊まった。
翌朝は夜明けとともに町を歩く。公園は無数のテントで埋めつくされていた。ちょうど巡礼の季節で、イスラム教シーア派の聖地メシェッドに行く大勢の人たちのテント。家族連れを多く見かけた。
朝一番で早いのは町のナン屋。ナンづくりを見せてもらった。店を出るときは、主人に焼き立てのナンを1枚もらった。それを食べながら、ボジュヌールドの町をさらに歩くのだった。
カスピ海が見えてきた
ボジュヌールドを出発すると、広々とした大豆畑が広がっている。南側にはエルブルーズ山脈の山々が連なっている。一番奥の4000メートル級の山々は雪山だ。
サーリーではA1沿いの「サラールダレ・ホテル」に泊まった。カスピ海のすぐ南に位置する町なのだが、まだカスピ海は見えない。ここはカスピ海南岸一帯の中心地で、遠い昔はササーン朝ペルシャ(224年〜651年)の中心都市として繁栄した。
サーリーを過ぎたバーボルで、イランの首都テヘランへの道が南へと分岐する。エルブルーズ山脈の最高峰ダマバンド山(5671m)のすぐ近くを通るルート。我々は反対方向の北へ、カスピ海の湖岸へと向かった。
世界最大の湖、カスピ海が見えてきた。
カスピ海の面積は3万7400平方キロで九州よりも大きい。生あたたかい風が吹き、空気は湿り気を帯びている。周囲の山々も緑で覆われている。湖岸の一帯は、イランでも一番の穀倉地帯。そのためイランでも一番の人口密集地帯になっている。
湖岸の町々を走り抜け、アンザリで「カドゥーサン・ホテル」に泊まった。湖岸のホテル。さっそくカスピ海で泳いだ。若干の苦みを含んだ塩水。砂浜は家族連れでにぎわっている。バイクや4輪バギーが砂浜を走っている。能登半島の「千里浜なぎさドライブウェイ」を思い出させるような光景だ。
夕食は町中のレストランで。ナンにカスピ海産のチョーザメと焼きトマトをのせて食べる。それとチョーザメの唐揚げがのったライスというメニュー。ここではメンバーの一人がアルコールを頼んだ。イランはアルコールの飲めない国。ノンアルコールのビールはあるが、まずくて飲めたものではない。コッソリと出てきたのはスプライトの瓶に入った無色透明の蒸留酒。おそらく40度以上の度数であろう。ちょっと飲ませてもらったが、まあまあの味。料金はUSドルで20ドルだった。
バザールを歩いた
カスピ海を離れると、トルコ国境に近いタブリーズへ。ここはイラン第4の都市。古来よりシルクロードの要衝の地として栄えてきた。町の起源はササーン朝ペルシャの時代までさかのぼるが、一番、栄えたのは13世紀の頃。モンゴル軍の占領後、イル汗国の首都として繁栄を謳歌した。この町のシンボル、アルゲ・タブリーズはイル汗国の時代につくられた巨大な城塞だ。
タブリーズではバザール(市場)を歩いた。野菜売場や果物売場が並び、様々な日用雑貨を売る店が並ぶ。金細工、銀細工、銅細工などの工芸品や宝石類、ペルシャ絨毯を売る一角もある。さすがシルクロードの要衝の地だけあってバザールの規模は大きく、品ぞろえも豊富だ。
タブリーズから280キロ走ると、国境の町バザルガンに到着。シルクロードもここまでがA1(アジア・ハイウェイ1号)、国境を越えてトルコに入るとE80(ヨーロッバ・ハイウェイ80号)に変わる。ヨーロッパがぐっと近づいた。
アナトリア高原を横断する
トルコに入ると国境に近いドーバヤジットへ。ここはクルド人の町。トルコとイラン、イラクの3国にまたがって住むクルド人は国を持たない民族。人口は3000万人ほどといわれ、その半数がトルコに住んでいる。国境周辺でのトルコ軍と独立を求めるクルド人との争いは絶えない。町外れの軍の基地にはおびただしい数の戦車が並べられていたが、砲身はドーバヤジットの町の方に向いていた。
ドーバヤジットでは「テヘラン・ホテル」に泊まった。レストランでの夕食を食べ終わると、夜の町を歩いた。警察署の前まで来ると、装甲車が道をふさいでいた。怖いもの見たさでその脇を歩いていくと、突然、サーチライトで照らされた。スピーカーで何か、言われたが、「ここに入ってはいけない!」ぐらいのことを言われたのだろう。こういうときは逃げるが勝ちで、来た道をすばやく引き返した。
翌朝はホテル最上階のレストランでの朝食。すばらしい眺望だ。町並みの向こうには雪をかぶったアララト山(5165m)がよく見えた。アララト山といえば『旧約聖書』の「ノアの箱舟」伝説の山。
ドーバヤジットからはトルコ中央部のアナトリア高原を横断する。2000メートル級の峠をいくつも越えて、相棒のDR−Z400Sを走らせる。
エルジンジャンの町からはユーフラテス川の流れに沿って走る。ユーフラテス川は下流のメソポタミアの平原でティグリス川と合流し、ペルシャ湾に流れ出る。全長2800キロ。中東第一の大河だ。そして奇岩が林立する「世界の奇景」のカッパドキアへ。その中心のギョレメの町で泊まったが、我々の宿は「岩窟ホテル」だ。
イスタンブールの休日
イスタンブール到着の前日は、シルクロードの要衝の地サフランボルに泊まった。ここにはキャラバンサライ(隊商宿)が残っているが、我々の宿はそのキャラバンサライ。夕食のあとは「金ちゃん」こと伊藤金二さんと最年少参加者の宮本さんと一緒に、ハマムにくり出した。ハマムとはトルコやアラブ圏特有の蒸気風呂。蒸気浴しながら大理石の上でゴロンと横になる。全身の垢すりをやってもらったが、「ヒェー」と声が出るほど痛いけれど、これがすごく気持ちいい。
9月6日、我々はマルマラ海の海岸に出た。ウラジオストックで日本海に別れを告げて以来、初めて見る海。そして欧亜を分けるボスポラス海峡をフェリーで渡ってイスタンブールへ。ウラジオストックを出発してから42日目、1万5000キロを走り切ってのイスタンブール到着だ。
簡単に欧亜の境を説明すると、北の黒海から南のエーゲ海へ、ボスポラス海峡→マルマラ海→ダーダネルス海峡と、欧亜を分ける海がつづいている。「コーストtoコースト」はアメリカ人の大好きな言葉で、「太平洋から大西洋へ」、または「大西洋から太平洋へ」のアメリカ横断を意味するが、その距離は5000キロから6000キロぐらいでしかない。ところが「ウラジオストック→イスタンブール」のアジア横断の「コーストtoコースト」は1万5000キロにもなるのだ。
翌日はイスタンブール港のコンテナ埠頭に行く。1日かけて税関の手続きを終え、バイクとサポートカーをコンテナに積み込み、日本に送り出した。
翌々日はイスタンブールの休日で、町を歩いた。羊の頭を食べようとバザール(市場)を歩いたが、見つけられなかった。羊の頭を出してくれるようなレストランを探したが、やはり見つけられなかった。しかしついに執念が実り、羊の頭のスープを名物にしている店を発見。草色っぽいスープは脂っこく、濃厚な味わい。中には羊の脳みそがゴッソリと入っていた。目のまわりのゼラチンも入っていた。
9月9日、いよいよイスタンブールを離れる日がやってきた。9時、伊藤さん夫妻がユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指して出発した。走り出したヤマハのスーパーテネレとセローの2台のバイクに我々は盛大に手を振った。
「頑張って〜!」
「よい旅を!」
「元気でね〜!」
「無事にね〜!」
と、声をかけるのだった。
ロイヤルエンフィールドでロンドンを目指す三浦さんは、もう2、3日、イスタンブールに滞在してから出発するという。
昼食を食べると、14時、ボスポラス海峡を目の前にする「アルマダ・ホテル」を出発し、イスタンブール国際空港へ。
エミレーツ航空EK122便に乗り込み、ドバイ経由で日本へ。
出発点のウラジオストック「赤道ホテル」前で、全員で「目指せ、イスタンブール!」と大声を張り上げて走り出したあのシーンが、無性になつかしく思い出されてくるのだった。