2010年6月20日

台湾人は台湾人

 台南の「安平探訪」を開始。安平古堡を見学する。ガジュマルの大木が空を突き、鳳凰木の赤い花が咲いている。2門の大砲が台湾海峡に向けて据えられている。

 ここは1624年にオランダ人によって築かれた台湾支配の要塞で、ゼーランディア城と呼ばれた。レンガ造りの壁に囲まれいるが、そのレンガは船でバタビア(ジャカルタ)から運び込んだものだという。

 鄭成功がオランダ軍を撃破したあとは、鄭氏の拠点になった。

 安平古堡の資料館を見学する。団体で混み合っていたが、それを見て台鈴の李さんは大陸からの観光客だという。李さんにいわせると、台湾人と大陸の中国人の違いは話をしなくても、一目見ただけですぐにわかるという。

 李さんをはじめとして台湾の多くの人たちは、大陸の中国人をあまりよくは思っていない。台湾人は台湾人、中国人は中国人という意識が強くあり、「台湾人」としての誇りが感じられる。

 話は横道にそれるが、台湾人が中国人以上に嫌っているのは韓国人。台湾と韓国が経済面でのライバル関係にあるという背景もあるのだろうが、どうも肌が合わないようだ。

 台湾人の韓国嫌いは徹底している。たとえば世界を席捲している韓国の電器メーカー「サムスン」の大看板は、「台湾一周」では一度も見なかった。世界中に「サムスン」の大看板は氾濫しているが、それを見ない国は台湾ぐらいではないだろうか。

 世界のビッグ3を狙う韓国製の「ヒュンダイ」の車もほとんど見ない。その理由は製品の良し悪しではなく、「韓国製だから」という話を何人もの人たちから聞いた。

 さて、安平古堡に話を戻そう。

 古城の壁の前には台湾の英雄、鄭成功(1624年〜1662年)の像が建っている。その台座には「民族の英雄」と書かれている。

 台湾支配を目指したオランダの勢力を一掃した鄭成功だが、彼の父親は福建省泉州の人。長崎の平戸で商売をしているときに地元、平戸藩士の娘をめとり、2子をもうけた。そのうちの長男が鄭成功。母親は日本人なのだ。

 鄭成功は7歳のときに初めて祖国に渡り、成長して文武両道を極めると、風前のともし火の明朝を護るために清朝軍と戦った。その功績で1658年、34歳のときに延平郡王になった。翌年、金陵(南京)を攻めたが清軍に大敗。すぐさま台湾攻略を計画した。

 1661年、2万5000人の兵と1200隻の軍船という大軍をひきいてオランダの拠点、台南のプロビデンシャ城とこのゼーランディア城を攻撃し、陥落させた。

 オランダ勢を台湾から追い出した鄭成功は中国の福建、広東両省から積極的な移住をすすめ、富国強兵に勤め、台湾を拠点にして大陸への反攻を目指した。

 清を滅亡させ、明を復興させるという「滅清復明」の大志を貫き通した鄭成功だが、その翌年、惜しくも病死。一代の風雲児は39歳の若さでその生涯を終えた。この年、明は完全に滅び去った。

 台南運河の西側に広がる安平は歴史の古い町。安平古堡を見学したあと、台南名物「安平豆花」の店に行く。そこでは甘い汁の中に豆腐が入っている「安平豆花」を食べた。朝から厳しい暑さで、グッタリ気味だった体は「安平豆花」のおかげでシャキッとした。

 この店には有名人がよく来るとのことで、店の主人は日本人ライダーが来てくれたといって喜び、店内のボードにサインして欲しいという。そこでいつものように「生涯旅人!」のサインをするのだった。

「安平豆花」を食べて店の外に出ると、台南の若きライダーたちが次々にやってきた。彼らはどのようにしてカソリがこの店にいるという情報を得たのだろうか…。みなさんは高雄まで一緒に走らせて欲しいという。

「どうぞ、どうぞ!」

 台鈴のみなさん、そして台南の若きライダーのみなさんと一緒にアドレスV125Gを走らせ、高雄に向かった。

 台南から高雄までは50キロほど。人口200万の高雄は台湾第2の都市だ。

 高雄の市街地に入ると、まずは郊外の蓮池潭に行く。湖畔には高雄のシンボルの極彩色の2つの塔、龍虎塔が建ち、それぞれの塔の入口には龍虎が口をあけている。龍の口から入り、虎の口から出ると、普段の悪行の数々が帳消しになるという。

 ここには大勢の観光客が来ていたが、みなさん例外なしに、龍の口から虎の口へという順にまわっていた。台湾人には、十二支の中で「龍は最高、虎は最悪」という観念があるという。龍虎の塔のあとは湖畔の慈済宮を参拝した。

 蓮池潭から高雄の中心街へ。「鐵男OG桑(鉄人おじさん)」歓迎の横断幕を掲げたスズキの販売店でアドレスV125Gを止めた。そこには50人以上ものライダーのみなさんが集まっていた。今までもそうだったが高雄のスズキの販売店でも、来てくれたのはほとんどが若いライダーたち。みなさんたちとのしばしの歓談を楽しんだ。