第2回目(5)2011年6月11日-12日

大防潮堤が消えた

 気仙沼を出発。国道45号で岩手県に入った。

 陸前高田に到着。

 大津波に襲われ、町が消えた陸前高田。ここではかつての町の中心街を走り抜け、前年(2010年)に泊まった民宿「吉田」を探した。

 夕暮れ時に飛び込みで行って泊めてもらった民宿だが、宿のご夫婦にはとてもよくしてもらった。時間がないなかで、夕食には魚料理をつくって出してくれた。

 前回の第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、かろうじて国道45号は通れたが、そこから南の海岸地帯に行く道は通行止、というよりも消え去っている状態で、民宿「吉田」までは行けなかった。

 それが今回は国道45号(その地点は以前は立体交差だったが、高架橋が落下し、まったく様相が変った)を右折し、民宿「吉田」の跡地まで行くことができた。しかし大津波に襲われた民宿「吉田」と、周囲の家々は大津波に流され、きれいさっぱりとなくなっていた。目の前の堤防も粉々に破壊されていた。泊めてもらった時はちょうど夏祭りだったが、その神社も消え去っていた。

 茫然と立ち尽くしてしまったが、通りかかった人の話では民宿「吉田」のみなさんは全員が逃げて無事だという。

「よかった!」

 陸前高田の惨状は、今回の東日本大震災による大津波を象徴するかのようなすさまじさ。町全体が絨毯爆撃されたかのような壊滅的な状況だ。

 長さ2キロあまりの高田松原は消失した。

 江戸時代に植林された7万本もの赤松黒松は、見事な松原をつくり出していた。

「日本三大松原」に次ぐような高田松原だった。

 その7万本もの松が根こそぎやられた。気仙川河口の水門近くに1本だけ残ったのが「奇跡の一本松」。この松の木には何としても生き延びてほしいと心底、願った。

 陸前高田の惨状を見ると、今回の大津波のすさまじさを改めて思い知らされる。

 というのは高田松原の後には大防潮堤が延々とそそり立っていたからだ。大防潮堤には東側水門、中央水門、西側水門の3つの巨大な水門があり、そこを通り抜けて海水浴場の砂浜に出るようになっていた。

 大津波は大防潮堤と巨大水門を破壊し、松原を全滅させ、さらに高田の町を飲み込んだ。

 松原と大防潮堤の消えた陸前高田の海岸に立ち尽くしていると、ふと『三陸海岸大津波』(吉村昭著・文春文庫)の一節が思い出された。

(三陸海岸の防潮堤は)一言にして言えば大袈裟すぎるという印象を受ける。

 或る海辺に小さな村落があった。戸数も少なく、人影もまばらだ。が、その村落の人家は、津波防止の堤防にかこまれている。防潮堤は、呆れるほど厚く堅牢そうに見えた。見すぼらしい村落の家並に比して、それは不釣合なほど豪壮な構築物だった。

 私は、その対比に違和感すらいだいたが、同時にそれほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた。

 私が三陸津波について知りたいと思うようになったのは、その防潮堤の異様な印象に触発されたからであった。そして、明治二十九年と昭和八年に津波史上有数な大津波があったことを知るようになった。

 ぼくはこの吉村昭氏の気持ちがよくわかる。三陸海岸の巨大防潮堤を見るたびに、
「これって無用の長物だよな」
 と、いつもそう思っていた。

 東日本大震災前年(2010年)の夏に陸前高田に行ったときは、この大袈裟すぎる防潮堤の見るからに頑丈そうな鋼鉄製の巨大水門をくぐり抜けて砂浜に出た。そして海水浴を楽しむ大勢のみなさんと一緒になって泳いだ。

 それはきれいな砂浜だった。

 それはきれいな海だった。

2010年8月5日〜6日撮影