[1973年 – 1974年]
赤道アフリカ横断編 15 モンロビア[リベリア] → フリータウン[シエラレオネ]
ギニアのトランジトビザ
リベリアの首都モンロビアに着くと、すぐさまギニア大使館に行った。
ビザを申請しようとすると、案の定、
「ツーリストにはビザを発行できない」
といわれた。
鎖国同然のギニアに入るのは極めて難しいことはわかっていたが、ビザを出せないといわれても、
「はい、そうですか」
で、おとなしく引き下がるようなカソリではない。
さんざん粘り、ビザ担当の書記官にお願いしまくる。
その結果、書記官は大使に会えるよう、とりはからってくれた。
翌日、ギニア大使館に行くと、大使は会ってくれた。ありがたい。これできっと道は開けると思った。
大使はぼくのここまでの旅の話を興味深そうに聞いてくれ、
「入国ビザは出せないが、48時間のトランジトビザ(通過ビザ)でよければすぐにでも発行しよう」
といってくれたのだ。
ぼくはすぐさま48時間のトランジトビザで勝負しようと思った。それでギニアに入り、セネガルのダカールに向かうのだ。
モンロビアの日本大使館
モンロビアには日本大使館があった。すでに7冊目のパスポートもいっぱいで、増補してもらった。大使館員の人は、それまではカナダのバンクーバー勤務。バンクーバーとモンロビアのあまりの違いを嘆いていた。ここではしょっちゅう停電するそうで、大使館のエアコンは半年も壊れたままだという。奥地にはどんな病気があるかわからないので、モンロビアを離れることはめったにないという。
そんなリベリア。
ぼくがコートジボアールから陸路で国境を越え、さらにヒッチハイクでモンロビアまでやってきたというと、びっくりしたような顔をした。
「日本車はすばらしい!」
モンロビアから次の国、シエラレオネに向かう。
ガーナのアクラからコートジボアール→リベリア→シエラレオネのコースは、海沿いの道がないので、いったん内陸部に入っていく。
コートジボアールから来たときの道を200キロほど戻り、バルンガへ。
リベリアには日本車が多い。そのため、ぼくが日本人だとわかると、
「日本車はすばらしい!」
「日本車は壊れない」
「日本車は燃費がいいので、こんなにガソリン代が上がると、とっても助かる」
といった声を聞いた。
「もう、いいかげんにしてくれ…」
バルンガからはギニア国境沿いの道を行き、ボイナマを通ってシエラレオネに入る。このあたりはリベリア、ギニア、シエラレオネの3国が国境を接している。
この日も灰色の雨雲がベターッと空一面を覆っていた。まだ昼だというのに、黒雲のせいで、まるで夕暮れ時のようだ。そのうちに稲妻が光り、雷鳴がとどろきわたる。逃げるひまもなく、ザーッと大粒の雨が降り出し、あっというまにズブ濡れになってしまう。
なんとも荒っぽいシエラレオネ入国の歓迎セレモーニー。
しかし、それにも増してこたえたのは、シエラレオネの国境地帯での検問だ。
国境には粗末な建物があった。まずそこでパスポートをチェックされた。変な東洋人がやってきた、それも歩いてきたということで、根ほり葉ほり聞かれた。
国境の役人は何とも横柄で、いかにも通してあげるといった態度だ。
「行ってもいいぞ」
ということで、ヤレヤレと思っていると、2キロも行かないところに検問所があった。そこでまたパスポートをチェックされ、さらに荷物を片っぱしから調べられた。
これで終わりだろうとホッとする間もなく、すぐに税関にたどり着き、またしてもパスポートチェック。そのあとはノート、カメラ、地図、着替えぐらいしか持っていないのに、さんざん調べられた。旅日記の1ページ、1ページをめくりながら、
「ここには何と書いてあるんだ」
と、うるさいことこの上もない。
国境の役人を怒らせると、それこそ入国できなくなってしまうので、じっと我慢してこらえた。
これで最後だろうと思ったのだが、税関から200メートルも行かないうちに警察があり、またしてもパスポートをチェックされ、荷物をひっかきまわされた。いったい何度、調べれば気がすむというのだ。
「もう、いいかげんにしてくれ…」
と、大声で叫びたくなった。
ほんとうに腹が立つ。
この一帯はリベリア、ギニアに接している。ギニアはアフリカでは最も急進的な社会主義の国なので、自由主義を建前としているシエラレオネとは相入れないものがある。そのためこうして国境周辺の警備を厳重にしているのだ。
検問所はまだまだつづく…
信じられないことだったが、検問所はまだまだつづいた。
わずか30キロほどの間で、なんと8回も調べられたのだ。
その8回目というのは、非常に頭にくるものだった。
ブウェドゥという町に着くと、この町の出口に税関とイミグレーションがあった。そこでパスポートをチェックされ、荷物を調べられた。
さらに、「ビザが必要だ」という。
コートジボアールのアビジャンで取ったビザを見せると、
「それとは別に、ローカルビザが必要だ」
と、いうのだ。
パスポートにポンとそのローカルビザが押され、ビザ代として3レオン(約750円)をとられた。
狂乱物価はギニア人のせい?
ブウェドゥから首都のフリータウンに向かう。ガーナ、コートジボアール、リベリアそしてシエラレオネとつづく熱帯雨林地帯を行く。密林を切り開いてカカオ園やコーヒー園、バナナ園、油ヤシ園、稲を栽培する水田がある。カカオは8月~10月、コーヒーは2、3月に収穫するという。
カイルアンを通ってケネマに着く。大きな町だ。ここで両替をしようと思っていたが、すでに銀行は閉まっている。そこで何軒かの店をまわると、大阪に行ったことがあるというレバノン人商人が20ドルを両替してくれた。
夜はケネマの警察で泊めてもらった。そのとき警察署の前を3人のギニア人が通りかかった。警官はギニア人をよくはいわない。狂乱物価もギニア人のせいにする。
「ギニアは貧しいからね。だから大勢のギニア人たちがシエラレオネに流れ込んでくるのだ。国境をいくら厳重に見張っていても、国境全域に柵することはできないからね。流れ込んでくるギニア人のおかげで、物価があっというまに上がってしまった。米の値段だってわずか3、4ヶ月で倍になってしまった。上がらないのは我々の給料だけだね」
第4次中東戦争後のオイルショックがもたらした狂乱物価は、アフリカの国々を直撃した。警官はそれをシエラレオネに流れ込んできたギニア人のせいにしたが、もっと大きな世界の枠組みのなかで起きたものだった。
ギニア人の次はダイヤのブローカーだ。
シエラレオネはダイヤモンドの世界的な産地。彼はシエラレオネの経済を牛耳っているレバノン人ではなく、アフリカ人。手広く商売をしているようで、バスも持っていた。彼の所有するバスの1台が盗まれ、それが見つかったということで警察にやってきた。
バスとはいっても、トラックを改造し、荷台に乗客が乗れるようにしたものだ。
犯人も逮捕されたとのこと。
「シエラレオネ警察はやるなあ!」
と、感心した。
アフリカで何か盗まれたら、まずは出てこないといわれているからだ。
ダイヤモンドのブローカーは満面の笑みを浮かべ、
「犯人は死刑にしてくれ」
といって首をチョキンと切る真似をし、マツダの小型トラックに乗って帰っていった。
ケネマからシエラレオネ第2の都市ボーへ。活気のある町。
20ドルを両替したばかりなので、首都フリータウンまではバスに乗った。
雨期のヒッチハイクは厳しい。いつ雨に降られるか、わからないからだ。というよりも、1日に何度かは必ず雨に降られる。そういうこともあってバスに乗ったのだ。
ポーからは舗装路。風景が変る。熱帯雨林は途切れ、サバンナになった。
たたきつけるような雨が降ってくる。川は濁流となって流れている。山がちの風景。やがて遠くに大西洋の入江が見えてくる。フリータウンに着いたのだ。