1999年5月22日 – 23日
「50代編日本一周」(1999年)はスズキのDJEBEL250GPSバージョンで走った。金沢から能登半島に入り、時計回りで能登半島を一周した。
「50代編日本一周」の相棒はスズキのDJEBEL250GPSバージョン
50代編日本一周
金沢に到着したのは1999年5月22日のことで、中心街を走りまわったあとで、金沢城に行った。
金沢では「北国(ほっこく)」をあちこちで見る。北国銀行とか北国住宅、北国広告…と、北国のオンパレードだ。金沢市民の多くが「北国新聞」を読む。興味を持って電話ボックスに入り電話帳を見ると、「ほっこく」の項にはズラズラッと「北国」のつく社名がのっている。ところが「きたぐに」では1社もなかった。金沢では「北国」はすべて「ほっこく」になる。それを知ると、近江や信州の北国(ほっこく)街道が金沢に通じている街道であることがよりはっきりとわかってくる。北国イコール金沢といってもいい。
金沢は日本一の大藩、加賀100万石の城下町。江戸時代にはおおいなる繁栄を誇り、江戸、大坂、京都、名古屋に次ぐ大都市だった。
金沢の町としての歴史は、文明3年(1471年)にさかのぼる。この地に御山御坊と呼ばれる一向宗の道場ができたのが町の始まりだという。次いで天正8年(1580年)の一向一揆討伐でこの地に入った信長の家臣の佐久間盛政が尾山城を築き、城下町の建設にとりかかり、城の西側に8つの町をつくった。それが「尾山八町」で、金沢最古の町並みになっている。
佐久間盛政は賎ヶ岳(滋賀)の戦いでは柴田勝家側につき死んだ。そのあと豊臣秀吉側の前田利家が入城し、その名を尾山城から金沢城へと改めた。それ以降、明治になるまで金沢は前田家14代の治世となる。
前田利家は城づくりの名人として知られていた高山右近に命じ、本格的な築城をおこなった。ついで2代目の利長が大改修をおこない、3代目の利常の頃にはほぼ今日の金沢中心街の市街地が形成された。
金沢城は犀川、浅野川の2本の川にはさまれた台地、小立野台の先端にある。この2本の川が天然の堀の役目を果たす要害の地であった。金沢の町にはT字路やクランク型の鉤型路、袋小路が多くある。道幅も狭く、少しづつ曲がっている。迷路に迷い込んだようで、なんとも走りにくい。
犀川と浅野川を越えた城下町の外郭部には寺院を集め、寺町をつくった。この寺町には城下町防衛の前線的な機能を持たせている。このように金沢という町は敵の進入を想定してつくられた戦略本位の城下町なのである。
北国街道で犀川を渡って城下に入ると片町、香林坊、武蔵辻を通り、橋場町から浅野川を渡って外に出る。
北国街道に沿って商人町をつくり、裏町には職人町をつくった。明治以降、金沢には大火もなく、戦災にもあっていないので、藩政時代の典型的な城下町の姿がよく残されている。
金沢の町並み
金沢の中心街を行く
金沢城
兼六園
金沢の近江町市場を歩く
「金沢探訪」を終えると、金沢の中心街の香林坊から武蔵辻を通り、金沢駅の西側で北陸本線の陸橋を越え、犀川河口の町、金石(かないわ)まで行った。江戸時代には金沢の外港として栄えたところだ。当時は宮ノ腰と呼ばれ、北国街道の武蔵辻で分かれる宮ノ腰往還は金沢にとってはきわめて重要な街道になっていた。
宮ノ腰は江戸時代の豪商、銭屋五兵衛、通称「銭五」の本拠地。海運で巨額の富を成した銭五は最盛期には青森、弘前、松前、箱館(今の函館)、長崎、兵庫、大坂、江戸に支店を置いた。当時としては日本有数の総合商社。幕府の目をかすめ、ロシア船やアメリカ船と密貿易もしたという。しかし銭五の栄華は長くはつづかなかった。加賀藩の派閥争いに巻き込まれ、一代の豪商、銭屋五兵衛は一族もろとも、あえない最期をとげてしまう。犀川の河口の防波堤に立ち、長くつづく砂浜を眺めながら、そんな金沢にまつわる歴史を振り返ってみるのだった。
金沢から能登半島に入り、押水町(現宝達志水町)の今浜から「なぎさドライブウェイ」を走る。その名の通り、渚を走っていくのだが、あまりのにぎわいで驚かされてしまう。乗用車や大型の観光バスははもちろんのことだが、10トン車の大型トラックまで走っている。露店が並び、そのうちのひとつの店で焼きハマグリを食べた。日本海の潮風に吹かれながら食べるハマグリは最高。終点の千里浜まで6・2キロの「なぎさドライブウェイ」だった。
羽咋では能登の一宮、気多大社に参拝。神社の背後の森は「いらずの森」と呼ばれ、北陸随一の原生林になっている。
能登一宮の気多大社
能登半島外海の外浦海岸を北上し、志賀原発のわきを通り、福浦港へ。かつては「福浦よいとこ 入船出船 波に黄金の花が咲く」と歌われたほどのにぎわいをみせた港。古くは福良津といわれ、渤海からの使節の来航する港だった。ここには現存する木造では日本最古の灯台がある。明治9年(1876年)の建造だ。
福浦港の日本最古の木造灯台
外浦海岸をさらに北へ。豪快な海岸美の能登金剛では、そのシンボル的な存在の厳門や、夫婦岩の機具岩、松本清張の『ゼロの焦点』の舞台になったヤセの断崖などを見て、漆器と朝市で知られる輪島の町に入っていく。能登半島を3つに分けて口能登、中能登、奥能登といわれるが、輪島は奥能登の中心地。そこからさらに外浦海岸を行く。
能登金剛のシンボルの巌門
夫婦岩の機具岩
松本清張の『ゼロの焦点』の舞台になったヤセの断崖
輪島の鴨ヶ浦
鴨ヶ浦の海水プール
鴨ヶ浦の海。水平線上には七ツ島が見えている
輪島塗の蒔絵師、渡部君の仕事部屋
名前のおもしろさにひかれて「ねぶた温泉」に入った。青森の「ねぶた」とは一切、関係がない。このあたりの地名の「寝豚」に由来する。
輪島のねぶた温泉
奥能登の外浦海岸には見どころが多い。
白米(しらよね)の千枚田は山の上から下の海岸まで2000枚以上もの田が段々になってつづいている。どれもがチマチマした田。1枚の田は平均すると2坪(約6・6平方キロ)もないという。米づくりに執念を燃やしてきた日本人の姿を白米の千枚田は見事に映しだしている。
白米の千枚田
つづいて平家の落人伝説が伝わる上時国家と下時国家の両豪農の家を見学し、曽々木海岸の窓岩を見る。曽々木海岸といえば冬の季節風に吹かれ、荒れた日本海をイメージするが、その日は波ひとつない穏やかな海だった。
曽々木海岸の先の仁江には、日本で唯一の揚浜式塩田がある。なんともラッキーなことに、ちょうど塩づくりをしている最中で、目の前の海から桶で海水をくみ、それを大桶に入れ、砂の上にまいているところや、塩釜で塩分を濃くした海水を煮つめているところなどを見せてもらった。
仁江の揚浜式塩田
仁江からさらに外浦海岸を走り、能登半島突端の禄剛崎に立つ。この岬は新第三紀層の泥岩から成る海岸段丘で、海からの高さは50メートルほど。切り立った岬先端の断崖上に立つと、目の前には日本海の大海原が広がっている。崖下は「千畳敷」と呼ばれる岩礁だ。
外浦海岸の眺め
禄剛崎は古来、日本海航路の重要な目印とされてきた。このあたりの地名が狼煙(のろし)であることからもわかるように、海岸線防衛の拠点とされ、奈良時代にはすでに狼煙台が置かれていたという。
岬の先端には明治16年(1883年)に完成したフランス人の設計による灯台。その近くには「日本列島ここが中心」の碑が立っている。禄剛崎を中心にして円を描くと、同じ円周上に日本本土最北端の宗谷岬と最南端の佐多岬がくる。
禄剛崎の灯台
禄剛崎をあとにし、外浦海岸から内浦海岸へ。波はまったくなく、トローンとしている。海面というよりも、湖面を見ているかのようだ。
珠洲を通り、穴水から輪島に戻った。
輪島では高校時代の友人の渡部暢康さんを訪ね、10年前の「40代編日本一周」のときと同じように、ひと晩、泊めてもらった。
渡部君は漆工芸家で、石川県立漆芸研修所の教官でもある。そんな渡部君が同じ芸大出身の素敵な奥様ともども輪島に移り住んでから20年になる。その間にはさまざまな苦労もあっただろうが、それを乗り越え、今ではすっかり「輪島人」になりきっている。たいしたものだ。
その夜は奥様にすっかりご馳走になった。ブリやタイ、アジの刺し身をいただき、さらに「カソリさんは野菜が不足しているだろうから」といってボリュームたっぷりのサラダをつくってくれた。サラダの熟れたプチトマトはうまかった。
渡部君の教え子であり、今では漆芸研修所で教える立場の中島俊英さんと山崖裕子さんのカップルを呼んでくれた。中島さんは信州・飯田の人で、山崖さんは地元の人。渡部夫妻、中島さん、山崖さんのカップルと夜中の12時過ぎまで飲みながら話した。
翌朝は朝食をいただき、渡部夫妻の見送りを受けて出発。「また10年後の日本一周のときには世話になるから」と言って走り出す。穴水から国道249号で内浦海岸を南下し、七尾からは国道160号で海沿いに走り、石川県から富山県に入った。
富山湾に面した氷見は越中ブリの本場。氷見に来たからにはブリを食べようと、町中の「小川食堂」に入り、ブリの刺し身とあらの塩焼きを注文した。食堂のオバチャンは「おまけよ」といってブリの「うすはら」をつけてくれた。この「うすはら」なるものは美味だった。さらに「これもおまけよ」といってアジの刺し身もつけてくれた。
氷見から高岡へ。
伏木では越中一宮の気多神社を参拝する。ここの湧き水の「清泉」はうまい水。水の豊かな富山にあっても特筆ものの水で、「富山の名水」に選ばれている。そのあと小矢部川、庄川の河口を見て、高岡の中心街に入っていくのだった。
越中一宮の気多神社
庄川の河口
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