第4回目(4)2012年3月10日 – 21日
1分間の黙祷
相馬駅前を出発点にして相馬市、南相馬市の「相馬」をめぐった。まずは相馬市の中心の中村だ。
福島から相馬までは国道115号で霊山を越えてやって来たが、この国道115号の「福島→相馬」間は中村街道。中通りの福島と浜通りの中村を結ぶ街道なので、その名前がある。
中村は相馬氏6万石の城下町。相馬氏の居城だった中村城跡にある中村神社を参拝。勇壮な東国武者の祭り、「相馬野馬追」の相馬の騎馬武者は、ここから原町の神旗争奪戦を繰り広げる雲雀ヶ原を目指して出発する。
中村城は別名馬陵城。城跡はその名をとっての馬陵公園で、相馬市民に親しまれている。ここは浜通りでも有数の桜の名所だ。
中村城跡には中村神社のほかにもう1社、相馬神社があるが、中村神社と相馬神社の関係がいまいち、よくわからない。
ここで宮城県大崎市の武内さんから電話をもらった。
2010年の「林道日本一周」のとき、わざわざ秋田県の横手駅前まで来てくれた人。奥さんとお子さんたちと一緒に相馬まで来たとのことで、「一緒に昼食を食べましょう」という。すぐさま『ツーリングマップル東北』に載っている国道6号沿いの「白瀧」で会いましょうと返事する。
V−ストローム650を走らせ、中村神社から「白龍」へ。そこで武内さん一家と落ち合った。みなさんと一緒の楽しい食事。ぼくは相馬名物の「ほっき飯」を食べた。
このあと武内さん一家は松川浦へ。松川浦の海辺で、「東日本大震災」の発生した14時46分を迎え、家族全員で黙祷するという。
武内さん一家と別れ、カソリは「白龍」から国道6号を南下。南相馬市に入ったところで14時46分を迎えた。V−ストローム650を路肩に停め、1分間の黙祷。その瞬間、神奈川県伊勢原市の自宅にいたときの、1年前のあの揺れの大きさが蘇ってくる。M9・0という超巨大地震(M8・0以上は巨大地震、M9・0以上は超巨大地震と呼んで区別している)のすさまじさとでもいうのだろうか、震源地からはるか遠く離れているのに震度5強の強い揺れ。それまでに体験したことのないようなユサユサとした揺れが長くつづいた。あのときの何ともいえない不気味さ、不安感、恐怖感が蘇ってくるのだった。
南相馬市では相馬野馬追の原町の騎馬武者軍団が出発する太田神社を参拝し、国道6号の通行止地点まで行った。そこが爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所20キロ圏の北側になる。
南相馬市は2006年1月、原町市と鹿島町、小高町の1市2町が合併して誕生した。今回の大津波で大きな被害を受けるまでは、おそらく日本中のほとんどの人が「南相馬市」を知らなかったことだろう。その南相馬市の南側が旧小高町。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故によって、この旧小高町には入れない。
小高は相馬氏発祥の地といっていいようなところで、小高城跡の小高神社から相馬野馬追の小高の騎馬武者軍団は出発する。
中村の中村神社、原町の太田神社、小高の小高神社の3社があっての相馬野馬追なのだが、原発の爆発事故によって、小高神社には立入ることができなくなってしまったのだ。それでも昨年、小高神社抜きの片肺状態で相馬野馬追がおこなわれた。ほんとうによかった。相馬野馬追の今年の開催も決定しているので、なんとか3社合わせての相馬野馬追になってほしいと願うばかりだ。
国道6号の封鎖地点で折り返し、海沿いの県道260号→県道74号を行く。沿道には延々と大津波の被災地がつづくが、すでに大半の瓦礫が撤去され、はてしなく広がる無人の荒野を行く。もう何と表現していいのかわからないが、日本であって日本でないような光景がつづく。
そんな県道74号沿いの蒲庭温泉の一軒宿「蒲庭館」に泊まった。ここは「東日本大震災」2ヵ月後の5月11日に泊まった宿。若奥さんはぼくのことをおぼえていてくれた。そのときに聞いた若奥さんの話は忘れられない。
高台にある学校での謝恩会の最中に、巨大な「黒い壁」となって押し寄せてくる大津波を見たという。大津波は堤防を破壊し、あっというまに田畑を飲み込み、集落を飲み込んだ。多くの人たちが逃げ遅れ、多数の犠牲者が出てしまった。この地域だけで250余名の人たちが亡くなった。
「地震のあと、大津波警報が出たのは知ってましたが、どうせ4、50センチぐらいだろうと思ってました。まさかあんな大きな津波が来るなんて…」
3・11から1年後。今回、若奥さんから聞いた話も深く心に残るものとなった。
「被災したみなさんは1年たってもまだ現実を受け入れられないのです。悪夢を見ているのではないか、朝、目をさませば、また元の村の風景、元の家、元の生活が戻ってるのではないかって思っているのです。あまりにも一瞬にして多くの人命と財産を失いましたからね」
そんな話を聞いた直後にけっこう大きな地震に見舞われた。ガガガガガッと電気ドリルか何かでコンクリートに穴をあけるような衝撃だ。3・11から1年たっても、このように被災地は頻繁に余震に襲われている。
刺身や焼き魚、貝のグラタンなどの夕食を食べ終わったころ、一緒に「シルクロード横断」や「南米・アンデス縦断」を走った斎藤さんが、車を走らせ、横浜から来てくれた。何の前ぶれもなく、連絡もなかったのでビックリするやらうれしいやら。
「カソリさん、明日は途中まで一緒に走らせてくださいよ」
「どうぞどうぞ」
2人で大津波で犠牲になったみなさんの冥福を祈り、ビールで「献杯」。そのあと深夜まで我々の飲み会はつづいた。