『地平線通信』2021年3月号より

●2011年3月11日。東日本大震災の当日は、前日までの中山道の「宿場めぐり」を終え、伊勢原(神奈川県)の自宅に帰っていました。そこで大地震を体験したのですが、震源地から遠く離れた伊勢原でも震度5の揺れで、今までにないような不気味な揺れ方でした。すぐにテレビをつけると、衝撃の映像が映し出されていました。東北太平洋岸の各地が大津波に襲われている光景は目を覆わんばかりで、茫然自失の状態になりました。それからはテレビや新聞の報道を食い入るように見る毎日でした。あまりの衝撃の大きさで、体が動かなかったですね。

●東北の太平洋岸に旅立ったのは、震災から2ヵ月たった5月11日のことでした。すぐに行きたいという気持ちの反面、衝撃のあまり、体が動かないような状態だったので、なかなか足が出なかったというのも事実です。ほんとうに大変なことが起こっているところに行ってもいいものか…という迷いや恐怖もありました。しかしぼくには地図(ツーリングマップル)づくりという仕事というか、使命感に似たようなものがありましたので、まずは現状を見なくてはいけないと強く思いました。ということでバイクを走らせ、「鵜ノ子岬→尻屋崎」を開始したのです。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走れば、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見てまわれると考えたからです。バイクの機動力を生かし、どの道が通れるのか通れないのかを見極め、被災された東北太平洋岸の全地域に足を踏み入れ、それを多くのみなさんに伝えようとしたのです。

●「鵜ノ子岬→尻屋崎」の第1日目は忘れられません。東京から常磐道で東北に入り、20時、いわき勿来ICに到着。常磐道はここまでまったく問題なく走れました。夜の勿来(いわき市)の町を走りましたが、ここでは大地震、大津波の影響はほとんど見られませんでした。JR常磐線の勿来駅に行くと、いつも通りの勿来駅でした。勿来駅前から国道6号で東北と関東の境の鵜ノ子岬へ。この岬を境にして東北側が勿来漁港、関東側が平潟漁港になります。人影のまったくない勿来漁港岸壁の屋根の下にバイクを止め、その脇で寝ることにしました。そこへ地平線会議の仲間の渡辺哲さんが来てくれたのです。渡辺さんにはカンビールと「バタピー」、「アーモンド&マカダミア」、「チーかま」を差し入れてもらいました。遠慮なくカンビールをいただき、飲みながら「渡辺情報」を仕入れました。渡辺さんの会社はいわき市内にあります。仕事の合間にバイクで福島県内をまわっているので、「渡辺情報」は正確で豊富でした。渡辺さんの家は楢葉町にあります。楢葉町のみなさんは全員、福島第一原子力発電所の爆発事故で強制的に避難させられたのです。大地震の被害を受け、大津波の被害を受け、それに追い討ちをかけるように原発の爆発事故の影響をモロに受けた渡辺さんでしたが、二重苦、三重苦を吹き飛ばすかのような、いつも通りの元気さ、明るさが印象的でした。

●鵜ノ子岬を出発して尻屋崎を目指したのですが、福島県の太平洋側の浜通りでは、広野町と楢葉町の境で国道6号線は通行止になっていました。警察車両がズラリと並んだ物々しさ。そこから北へ、南相馬までの迂回路は大変でした。林道経由で国道399号線に出ると、川内村、葛尾村を通り、浪江町の赤宇木から峠を越え、飯館村の長泥に下ったのです。赤宇木、長泥といったら、原発事故の影響で、最も放射線量の高いところでしたが、国道399号は通れました。長泥から林道経由で南相馬市に入ったのですが、浜通りは完全に分断されていました。

●宮城県では阿武隈川河口の荒浜には入れたのですが、名取川河口の閖上は立入禁止で入れませんでした。石巻は甚大な被害を受け、残骸となった車の山があちこちにできていました。学校の校庭には、大津波で亡くなった人たちの墓標がズラッと立っていました。胸のしめつけられるような光景でした。石巻漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられていました。女川の惨状は目を覆うばかりで町全体が壊滅状態。瓦礫の山でした。女川一番人気の水産物を売る「マリンパル」は廃墟と化し、女川駅や駅前温泉の「ゆぽっぽ」は跡形もありませんでした。気仙沼の海岸地帯には無数の大型漁船が乗り上げていました。その中をかいくぐってバイクを走らせたのですが、まるで迷路を行くようでした。

●岩手県に入ると、陸前高田のあまりにもすさまじい被害には声もありませんでした。高田松原は消え去り、海岸一帯に押し寄せた海水はそのまま残り、一大湿地帯のような状態でした。大船渡では高さが明暗を分けていました。大船渡港周辺の大船渡は壊滅状態でしたが、町続きの盛はわずかに高いので、ほとんど大津波の被害を受けていませんでした。鵜住居(釜石)から大槌、山田まではバイクで走れば30分ほどの距離ですが、その間での大津波による犠牲者は3000人を超えました。このような大津波による惨状は宮古からさらに久慈まで続きました。青森県に入ると、八戸漁港や三沢漁港が大きな被害を受けましたが、白糠漁港(東通村)まで来ると、震災前と変わらない活況を見ることができてホッとした気持ちになるのでした。

●東日本大震災から4年目の被災地をマイクロバスでまわった「地平線会議移動報告会」(2015年4月17日〜18日)も忘れられません。福島県内の「いわき市〜富岡町」を見てまわりましたね。大震災4年目の浜通りは、大きく変わりました。3月1日に常磐自動車道の全線が開通したからです。移動報告会がスムーズにできたのも、そのおかげでした。国道6号は通行止でしたが、常磐道の開通によって南北に分断されていた浜通りはやっとひとつになった感がありました。浪江ICから国道114号で浪江の町中を走り抜けて国道6号に出ましたが、まさかこの区間を通り抜けられるようになるとは思ってもいませんでした。国道6号との交差点から海岸一帯の請戸地区に入れたのは、江本さんや案内してくれた渡辺さんの尽力のおかげで、許可証を取れたからです。東電の福島第一原子力発電所の爆発事故で一般人の立入禁止のつづく請戸地区には、3.11の大津波の惨状がまだそっくりそのまま残っていました。海岸のすぐ近くにある請戸小学校は、幸いにも全校生徒が避難して無事でした。その後、福島県の「震災遺構」として残されることになりました。

●請戸地区を見てまわったあとJR常磐線の浪江駅前へ。ここも許可証がないと、一般人は入れない地区でした。まったく人気のない駅周辺を歩きましたが、ゾッとするような不気味さを感じました。2011年3月11日の14時45分までは、町はにぎわい、浪江のみなさんはごくごく普通の生活を送っていたのに…と思うと、胸が締め付けられるような思いでした。浪江駅前の新聞販売店には、配達されずに積み上げられた地元紙の「福島民報」が残ったままでした。新聞の一面には「原子炉建屋で爆発」の大見出。3.11を境にして時間が止まってしまったかのような浪江でしたが、その後、町の避難指示が解除され、国道6号が通行可となり、JR常磐線が再開してからは復興が加速しています。新しくスーパーのイオンもできました。

●あの東日本大震災からまもなく10年を迎えます。「あれからもう10年か…」と、月日の流れの速さを感じます。この10年間で東北太平洋岸の復興は急ピッチで進みました。災害公営住宅の大半は完成し、盛土をして地盤を高くした新しい町並みも、高台移転をした家並みもその姿を現してきています。万里の長城を思わせる大防潮堤の大半は完成しました。常磐道が完成し、現在では全線の4車線化工事が進んでいます。三陸道も毎年、延伸し、三陸道の全線開通が視野に入ってきました。さらに高速道でいえば、「相馬〜福島」間の東北中央道の全線開通が目前ですし、「釜石〜花巻」間の釜石道の全線が完成しました。「宮古〜盛岡」間の宮古盛岡横断道路も、一部区間が開通しています。これらの高速道路は東北太平洋岸の背骨になるものですが、震災前にはここまで早く高速道路網が完成するとは夢にも思いませんでした。ズタズタに寸断された鉄道網も復旧しています。JR常磐線の全線が再開し、特急「ひたち」が被災地を走り始めると、すぐさま「品川〜仙台」間を乗りました。感無量でした。大津波で大きな被害を出したJR仙石線が復旧した時も仙台から石巻までの全線を乗り、高台移転した新線の東名駅、野蒜駅を見ました。JR山田線の一部(宮古〜釜石)は三陸鉄道に移管されました。全線が開通した時は、「盛(大船渡市)→久慈」間の三陸鉄道の全線に乗りました。こうして次々に復興していく東北太平洋岸の「今」を見るのはうれしいものです。それだけに東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故さえなければ…という思いは、よけいに強くなってきます。

●東日本大震災の10年目を目前にした先日(2月13日)のM7.3の大地震には肝を冷やしました。津波が発生しなくてほんとうによかったですね。それにしても10年前の地震の余震がM7.3というのは信じられないことでした。2011年3月11日のM9.0という本震の超巨大地震が、いかにすごいものだったかを改めて教えられたような気がします。M9.0というのは日本の歴史上、最大級の地震です。この時、地震のみならず「三陸大津波」を改めて考えてみました。仙台以北の三陸海岸は明治三陸大津波(1896年)、昭和三陸大津波(1933年)、そして今回の平成三陸大津波(2011年)と3度に及ぶ大津波の大災害を受けてきました。それら3度の「三陸大津波」を乗り越えられたのは、三陸海岸の海の豊かさがあるからだと思いました。「日本の宝」といってもいいほどの豊かな海のおかげで、三陸の未来は限りなく開けていると思いました。

●東日本大震災から10年の今年も、3月11日に「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発します。今回が第26回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になります。東北太平洋岸の全域を走る「鵜ノ子岬→尻屋崎」のほかにも、例えばいわき市や石巻市、大船渡市というように、各エリアごとに何度となく足を運んでいますので、この10年間で東北太平洋岸に行った回数は100回近くになります。そのうちの2013年と2015年、2016年の3回、『地平線通信』で「鵜ノ子岬→尻屋崎」を書かせてもらっています。それがぼくにとってはすごくいい記録になっています。「鵜ノ子岬→尻屋崎」はこれからもやり続けますので、我が生涯を通してのライフワークです。今回の第26回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では目を大きく見開いて、東北太平洋岸の「今」をしっかりと見てきます。東北のみなさんと一緒になって、東北の復興を喜び合ってきます。そして帰ったら、『地平線通信』に「東日本大震災の10年後」を書かせてもらいたいと思っています。(賀曽利隆)