カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記

なつかしい記事をみつけました!

投稿日:2021年6月21日

 このたびの東北道での事故では皆様に大変なご心配をいただき、ほんとうにありがとうございます。

 5月31日午前6時10分頃のことでした。東北道の佐野藤岡IC近くの下り車線をVストローム250で走行中、車線変更をしてきた車に激突され、吹っ飛ばされました。路面にたたきつけられ、10回転ぐらいして立ち上がりました。そのときは何が何だか、またっくわかりませんでしたが、
「自分は生きている!」
 ということだけははっきりとわかりました。

 すぐさま救急車で足利赤十字病院に収容されました。

 全身を強打しましたが、頭部に異常はありませんでした。

「頭さえしっかりしていれば大丈夫!」

 足も大丈夫。両手がひどくやられましたが、ラッキーなことに右手は動きます。

 足利赤十字病院に駆けつけてくれた息子の車で、いったん神奈川県伊勢原市の自宅に戻ると、地元の伊勢原協同病院に入院。左手の手術を受け、無事に退院できました。左手の5本の指のうち4本が折れ、金属を入れて固定し、腱をつなぎ合わせたとのことですが、これからはリハビリに励みます。一日も早く元通りの体にし、もう一度、東北道で東北に向かっていきます。Vストローム250は16万キロ達成目前でしたので、16万キロを突破し、20万キロを目指します。

 このたびの東北道の事故では、栃木県高速道路交通警察隊の隊員の皆様にはお世話になりました。心よりお礼を申し上げます。

 この東北道の事故でしばらくはバイクに乗れなくなったカソリですが、タダでは起きません。動く右手を駆使して、ちょうどいい機会だと本棚を整理すると、じつにいいものをみつけました。北極点到達を成し遂げて帰国した植村直己さんのインタビュー記事。主婦の友社で発行していた『わたしの赤ちゃん』という雑誌での取材記事です。植村直己37歳、賀曽利隆31歳の時のことでした。植村さんには3日間、同行取材させてもらいましたが、その時のテープも残っています。

 ということで、賀曽利隆の書いた植村直己さんのインタビュー記事をお読みください。

<植村直己の北極探検から>
氷点下40度の中の犬のお産
ー3日間に9匹、その強靭な生命力ー
インタビュー 賀曽利 隆

 昨年(1978年)の9月1日、北極探検の旅から帰った植村さんの記者会見での「女房より犬がかわいい」と答えたジョークは、茶の間にさわやかな笑いを運んでくれました。

 しかし、植村さんにとっては、それは、ジョークばかりではなく、実際、犬たちとの交流がなければ、とうてい成功は考えられなかった探検旅行だったのです。

 この17頭のハスキー犬との生活を中心に、厳しい北極探検旅行のもようを、本誌ですでにおなじみの賀曽利隆さんに聞いてもらいました。

 賀曽利さん夫妻の冒険レポート、「赤ちゃんづれのアフリカ冒険旅行」は昭和53年(1978年)の新年号から1年間、本誌に連載され、たいへんな反響でしたが、賀曽利さんは、植村さんにインタビューしながら、また新しい冒険への夢が胸の中にわき上がってくるようでした。(編集部)

命を賭けた旅

 植村さんのことは、もうほとんどの読者のかたが、よくご存じだと思うけれど、やはり、少しくわしく植村さんのプロフィールをご紹介しておく必要があるような気がする。こんどの北極探検の話を理解するにも、その背景が、きっと私たちの手助けをしてくれるはずである。

 植村直己、37才。昭和16年2月12日、兵庫県日高町で、6人兄弟の末っ子として生まれる。明治大学山岳部に入ったが、そこでの猛烈な“しごき”が、今日の植村さんをつくり上げる基礎になっていることは確かだ。初めての山は、北アルプス白馬岳。その後、日本各地の山を登りつづける。

 大学を卒業すると、ついに植村さんは、放たれた矢のように世界に向かって飛び出していく。各大陸の最高峰を次々と踏破していくのである。ヨーロッパのモンブラン、アフリカのキリマンジャロ、南米のアコンカグア、さらにはヒマラヤのエベレスト、北米のマッキンレーと。

 その間にも、南米のアマゾン川を源流から河口まで、いかだで6000kmも下ったり、アフリカのニジェール川の川下りを計画したりというぐあいに、植村さんの冒険心は全く休むということを知らなかった。

 マッキンレー登頂後は、目を極地に向けていく。最終的な目標である南極大陸横断を目指し、その距離感をつかむために、北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで歩き通してみたり、極地での生活技術を身につけるために、グリーンランドのエスキモーの村に住み込んでみたりする。その後、グリーンランド3000km、北極圏1200kmの単独犬ぞり行に成功。そして、いよいよ今回の北極点、グリーンランド縦断の犬ぞり行となったのである。

 植村さんは、自分の行動を“旅”という言葉で表現される。“北極点への旅”、“グリーンランド縦断の旅”…というふうに。しかし、当然のことながら、植村さんの旅は、いわゆる普通の人たちの、休暇をとってぶらりと出かけるような観光目的の旅とは根本的に違う。何が違うかというと、命を賭けなくてはやりとげられない旅なのだ。

「いやあ、やれると思ったから、やっているんですよ」
 と、事もなげに言われるが、植村さん自身が意識する、しないにかかわらず、確かに命を賭けている。それだからこそ、やりがいがあり、やりとげたあとの手ごたえは大きくなるのだ。

北極点への旅立ち

 昭和53年3月5日。植村さんは、カナダ北極圏エルズミア島北部、北緯83度のコロンビア岬を出発した。17頭のハスキー犬に引かれた犬ぞり、オーロラ号でもって、出発早々、大乱氷地帯に突っ込み、難行苦行の連続だった。植村さんの本には、その時の様子が実に生き生きと書かれている。

「私は近くにある高さ十メートルほどの氷のブロックによじ登った。高みに立ち、北の方向を眺めて、愕然とした。飛行機の上から何度か観察して、ある程度覚悟はしていたつもりだが、やはり愕然とした。なんというものすごい乱氷帯なのだろう。機上から見た乱氷は、けっしてその正体を見せてはいなかったのだ。いま私の行く手に、ひとつとして同じ形のない大小の氷のブロックがひしめきあっていて、視野の果てまで続いている。薄明の中に濃淡の変化をつけて浮かび上がる氷のブロックの堆積は、あまりに圧倒的で、むしろ幻想の中の光景のようだ。どうやったら、こんなすさまじい乱氷の中に犬橇を進ませることができるのだろうか。私は寒さを忘れて、数刻のあいだ茫然と立ちつくしていた」(植村直己著『北極グリーンランド単独行』から)

 植村さんは乱氷地帯の中で、ルートを開くため必死に鉄棒をふるい、氷をくだいていった。2日たっても、3日たっても、行程は遅々として進まない。出発点のコロンビア岬がいつまでたっても、すぐうしろに見えるのだ。こんなことで、ほんとうに北極点にたどりつけるのだろうかと、いいようのない不安に襲われるのだった。

白熊に襲われる!

 出発して4日目。眠りについて、間もなくのことだ。

「犬の鳴き声が止み、なにか犬の足音とちがう響きが耳に入った。全身が緊張し、はっきり目が覚めた瞬間、異様な鼻息が聞こえた。

『白熊だ!』

 足音はもう十メートルと離れていないところから、枕元にじかに伝わってくる。恐怖で、一瞬心臓が止まった。しまった、しまった、しかし、もうどうすることもできない。

 ライフルはシュラフの横に置いてはあるが、弾がこめてない。シュラフのファスナーをはずし、起き上がって弾を装填する余裕はもうない。音を聞きつけて、白熊がまっすぐこっちへ向かってくれば、お手上げだ。ー中略ー

 頼む、こっちへ来ないでくれ!

 だが、足音はゆっくりこちらに向かってくる。

 枕元のすぐ上のテントの外で、ブフーッ、ブフーッ、と臭いをかぐ鼻息がすると思ったとたん、巨大な足がテントの上から横向きの私の頭を一瞬押さえつけた。

『ああ、俺はもうだめだ』

 もうだめだ。この世の終わりだ。白熊に食べられてしまう。バリバリとテントが引き裂かれた。女房の顔が脳裡をかすめた」(植村直己著『北極グリーンランド単独行』から)

 しかし植村さんは奇跡的に助かった。揺さぶられても、ものすごい鼻息をかけられても、ただじっと息を殺していたのがよかった。ついに、足で押さえつけた植村さんを食べられる人間とは気がつかず、ドッグフードの方に気を移してくれたからである。

 九死に一生を得た植村さんは、その後も乱氷に悩まされつづけ、さらには発情したメス犬をめぐるオス犬どもの争いで、思うように進むことができなかった。犬ぞりオーロラ号の速度は、イライラするほど鈍かった。そして出発してから約1ヵ月後に、メス犬シロの妊娠、出産という予想外の事態まで迎えたのである。

犬の赤ちゃん誕生!

「今回の旅の主役は、犬たちですよ」
 と植村さんは言われる。

 それはまるで、植村隊長のもとで、手足のように働いた17頭のハスキー犬の隊員たちといった感じなのである。それだけに、隊員の出産というハプニングは植村隊長にとって、すくなからぬショックであった。

「出発して間もなくなんですけど、メス犬のシロがそりをひかなくなって。おかしい、おかしいと思ったら、そのうちに腹がふくらんできたんですよ。しかたないので、引き綱をはずして自由にしてやったのです。

 4月の初めだったでしょうか、北極海の氷上で突然、子犬を産み始めたんです。氷点下40度の中で、外の気配がいつもと違うのですよ。テントの外に出てみると、オス犬たちが2匹の赤ちゃんを食べてしまったあとでした。もう少し早く気がついていたらと、かわいそうなことをしたと悔やまれました。

 あわててシロをテントの中に入れました。これは超特別待遇ですよ。そうして産ませたのです。

 2度目の出産はテントの中で。4匹生まれて、1匹は死産でした。

 そのあとすぐにつづいた3度目の出産では、3匹が生まれて、1匹が死産でした。

 わずか3日で9匹も産むのだから、ハスキー犬の生命力の強靭さには驚かされました。北極の厳しい自然の中で生きてきた犬だからこそ、できたことなのでしょう。

 なにしろ行動中なものだから、子犬たちのために、ずっとテントを張ってるわけにはいきません。そりの上に母親と赤ん坊たちを乗せて、ケースに入れ、上から包んでいました。振動で落っこちないよう、さらに梱包して。そんなふうにして、旅をつづけたのです。

 でも、途中で2匹が死んで、結局、残ったのは4匹。補給の飛行機が飛んできたとき、ベースキャンプに送り返しました」

心やさしき探検家

 植村さんが出発したのとほぼ同時に、似たようなコースで日大隊も北極点を目指していた。それはもちろんレースではないが、お互いに一足でも先に北極点に到達したいという、強烈なライバル意識を持っていた。

 そのような状況の中で、身ごもったメス犬、さらには出産後の赤ちゃん犬たちというのは、植村さんの行動を大きく制約した。北極点に日大隊よりも先に到達したいという単にその点だけに目を向ければ、メス犬シロが身ごもったとわかったとき、射殺すればよかった、と思う。だが、植村さんにはそれができなかった。

「腹の大きくなったメス犬、その後の出産、子犬の世話、それは大変な負担でした。そのために、何日か遅れたのは事実です。しかし、そのために日大隊に負けたというのは卑怯だし、言ってはいけないことです。負けたとわかったときは、悔しくて悔しくてしょうがなかったけど。

 あの時点で、メス犬を置き去りにしたり、撃ち殺すことはできなかったですね。エスキモー的な感覚だったら、そりを引かない犬は不要だから、殺してしまえばいい、というかもしれない。けれど、我々の感覚からすると、精一杯、自分のできる範囲内でめんどうを見てあげなくてはいけないと、そう思ってしまうのです。

 で、腹の大きくなったメス犬は、そりを引かなくてもいいと、胴バンドをはずし、歩かせました」

 植村さんは、「我々の感覚では」と言われたが、そうではなく、「私の感覚では」なのだ。そのあたりに偉大な探検家植村さんの、厳しさの裏にあるやさしい人柄を見る思いがする。

「子犬たちが生まれてくると、考えが変わってくるんですよ。母性愛っていうんですか、母性愛じゃおかしいですね、父性愛とでもいうのですか、父親になったような気がするんですよ。ほんとうにかわいい。なんとかして育ててあげよう、そのために遅れたっていいじゃないかと、そんな心境になるんです。そう思うのは、なにも私だけじゃなくて、そういう立場に立たされたら、誰だって、そんな心境になると思うんです」

オス犬だけではチームはバラバラ

 犬ぞりの犬をどうしてオスだけにしなかったのか、不思議でならなかった。発情期を迎えたメス犬をめぐって、植村隊のオス犬どもは、大ゲンカをする。もしメス犬がいなければ、そんなこともなかったのに。

 植村さんに、その点を聞いてみた。

「メス犬は絶対に必要なんですよ。オス犬だけだったら、横のつながりができなくて、チームはバラバラになってしまう。その中にメスが入ると、それだけのことで、ぐっとまとまってくるのです。我々の社会でも、同じことが言えるでしょう。女性なしの社会だったら、男は仕事をしませんよ」

 ハスキー犬の話を聞いていると、犬と人間はすこしも変わらないのだなと、おかしくさえなってくる。

「発情期を迎えたメス犬を奪い合うオスどもの争いといったら、それはすさまじいものです。殺し合いになりかねないようなすさまじさです。だけど、見方を変えれば、我々も同じことをやっている。犬が我々の方を見れば、人間ていうのは何てきたない、むごたらしいことをやっているのだろうと、思うかもしれません。

 犬の場合は、ケンカですべてが決まってしまいますからね。スキッとしています。力がすべてです。でも、いちばん強いオス犬にメス犬の方がこたえてくれるとは限りません。メス犬にも選択権があるんですね。いやがることもある」

 厳しい旅の中で、植村さんの楽しみといったら、犬たちと一緒にたわむれることだった。
「快調に進んでるときなんか、歌を歌うと、犬たちは喜ぶんですよ。歌のテンポを速めると、それに合わせて、犬たちも足を速く出すようになる。悲しい歌なんか歌うと、犬たちの足どりは遅くなる、おもしろいものですよ。

 犬たちは、自分のことをほんとうによく見ている。ムシャクシャしたり、気分が沈んでるときなんか、けっして近寄ってこない。くわばら、くわばらという感じで、反対に気分が晴れ晴れしているときなんか、パッと近寄ってくる。そういうときは走り方も軽快で、耳をピーンと立てている」

愛想のいいのは働かない

 どんどん犬たちに話しかけてやる。つまり、上手に使おうと思ったら、犬との対話が必要だそうだ。そうすると、たとえ言葉が通じなくても、お互いにわかりあうようにるというから不思議だ。

「でも、犬は甘やかしたらダメ。人間流にいうと、おべんちゃらを使う犬とか、要領のいい犬、愛想のいい犬なんかダメだね。

 私を見て、うれしそうに飛びついてくる犬、尾っぽを振る犬なんかは、ちっとも仕事をしない。そりを引っ張ってくれないんですよ。最初のうちこそ一生懸命引っ張てるようなフリをするけど、じきに“もう走れません”ていうような、悲しそうな顔で私の方をチラチラ見るんですよ。

 だけど、そういう犬というのは、“俺になついているな”って、かわいらしくなって、ついつい甘やかす。情が移って、ムチを振る回数も減ってしまう。このような手加減を加えた犬ほど、ますます仕事をしなくなってしまうのです。

 要領のいい犬もいるんですよ。しょっちゅう私の方を気にして、ちょっと景色などに目をやると、サッと手を抜く。そりを引っ張る引き綱をゆるめてしまう。あわててその犬に目をやり、ムチで打とうとすると、また急に力を入れて引っ張り始める。

 8、9才の老犬になると、手に負えないですよ。ずる賢くて、引き綱だけはいつもピンと張っている。ほんとうに、いつでも。だけど、そりの上からちょっと引き綱をたぐってやると、ズルズルッて、あとずさりしてしまう。そりを引っ張っているのではなく、ただ引き綱のみを張ってるんですね。サボる術を心憎いほど知っている。ムチはバンバン降りました。ムチで言うことを聞かなくなったら、鉄棒を振り回し、それでもダメならチェーンと。とにかく犬は、甘やかしたら言うことをきかない。

 3、4才の不愛想な犬、たとえばリーダー犬として使ったタマなんか、ちっともなついてくれない。近寄ってくるのは、食事のときだけ、それも知らん顔して食べる。ところが、そういう犬のほうが、よく仕事をしてくれるのです。ほんとうによくそりを引いてくれた。いつまでもモクモクと走りつづける。ケンカにも強くて」

 エスキモーは、けっして犬を甘やかさないそうだ。それは生きていくための厳しい生活の知恵だという。

「1972年から1973年にかけて、1年間、グリーンランド北部のエスキモーの村に住まわせてもらったのだけど、その間、エスキモーたちの、犬に対する厳しさをまのあたりに見せつけられましたよ。エスキモーはけっして、犬を甘やかさない。氷が解けて、犬ぞりを使わなくなると、評価の悪かった犬、主人の言うことを聞かなかった犬なんかは、捕まえられて、首を絞められたり、ライフルで撃ち殺されてしまう。

 そのときは、エスキモーのやり方を見て、なんてムゴいことをするのだろう、ヘタすると自分もやられてしまう、食べ物にされてしまうのではないかと、正直なところ、気味が悪くなりました。でも、考えてみると、あたりまえのことなんですね。極地の生活の、限られた食料の中で、余分な犬など1頭も飼うことはできない。そりを引かない犬は不要なんです」

夢を食いつづける人

 植村さんにお会いできて、ほんとうによかったと思う。

 本で読んだり、人から聞いていた以上に、すばらしい人だった。確かに、ほんものの人にお会いできた、という喜びで胸がいっぱいになった。

「単独で北極点までの犬ぞり行をやると言ったとき、多くの人たちは、そんな危険なことを、と言いましたよ。だけど自分では、やれると思ったからやる。人は冒険だ、なんだかんだと言いますが、私はちっともそんなこと、思っていない。今まで、何か人のためにやろうと思ったことはありません。自分のほんとうにやりたいことを、やってきただけなんです。だから人になんといわれても、いいんですよ」

 やりたいことをやる。

 これは、なかなか言える言葉ではない。ちょっと何かすると、すぐにそれを社会的に結びつけたり、何々のために…というように、もっていきがちだ。

 ほんとうにやりたいことを、ほんとうにやっている、植村さんの強さを、そのあたりに見る思いがした。

「山をせっせと登っていたころは、人は私のことを山屋だと言う。アマゾン川をイカダで下ったら、冒険野郎だと言う。北極から帰ると、今度は探検家なんですよ。人がそう言うのだから、それはかまいません。だけど、自分であえてつけるのなら、“放浪家”ですね。この言葉あたりが一番ぴったりです」

 男と女の決定的な違いは、男は夢を食ってでも生きられるが、女は現実に目を向けてしか生きられないことだ。

 植村さんは、まさに夢を食いつづけて生きている人。さらに、その夢を現実のものにするだけの強さ、したたかさがあり、それを成功させるだけの能力の高さと、運の強さを持っている。

 ただ、それは植村さんも言われるように、植村直己個人の力だけで、できるものではない。公子夫人をはじめとして、周囲のあたたかな目、愛情に恵まれているからこそ、できることでもある。

「これからの夢は、やはり南極ですね。南極大陸を横断したい。南極大陸最高峰のビンソンマシッフを登頂したい。

 そのほか、残された北極圏のもう半分もやってみたい。厳冬期のエベレスト登頂も夢ですね」

 植村直己という人は、とてつもない探検家だと思った。

『わたしの赤ちゃん』1979年3月号より

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