Archive for the ‘北海道遺産コラム’ Category
サケの文化
北海道はやっぱりサケだ!
函館を出発点にした「北海道一周」では、各地でサケを食べた。宿の朝食にはサケは欠かせないもの。サケの焼き魚は薄塩で、そのあたりが本州、とくに東日本とは違う。無塩のサケの焼き魚もあった。サケの煮魚にはちょっとびっくり。夕食にはサケのチャンチャ焼きがついたり、サケの切り身がドーンと入った石狩鍋がついた夕食もあった。サケの天丼にはこれまたビックリ。「北海道一周」の最後の食事はサケの親子丼。函館朝市の食堂で「トロサーモン&イクラ」の丼を食べ、サケを存分に賞味した。それを食べながらカソリ、「北海道はやっぱりサケだ!」と叫ぶのだった。
新冠の民宿の朝食に出たサケの味噌焼きと筋子
十勝川温泉の夕食に出たサケの煮魚

十勝川温泉の朝食はサケの焼き魚がメイン
宗谷岬の民宿の朝食にはイクラ


江部乙温泉の朝食にはサケの焼き魚
江別温泉の朝食にはサケの焼き魚
古平の食堂の生チラシにはイクラがのっている
盃温泉の夕食にはサケのチャンチャ焼き

盃温泉の朝食にはサケの焼き魚
長万部温泉の朝食にはサケの焼き魚


木古内温泉ではサケ天丼を食べた
函館朝市の「トロサーモン&イクラ」の丼
カムイ・チェプ「神の魚」
今回の「北海道一周」で食べたサケ料理の中でも、サケの本場、標津の「サーモンパーク」内にあるレストラン「サーモン亭」で食べた「標津鮭定食」(1800円)は忘れられない。サケの塩焼き、サケの刺身(ルイベ)、サケの氷頭なます、サケの三平汁、イクラ丼のいくらご飯と、サケ三昧の食事。サケだけでこれだけの食事ができるのかと感動した。
北海道の食文化をひとことで言い切ってしまうと“鮭食文化”ということになる。それだけに北海道のサケ料理の種類は多彩で、きわめて発達している。

これが標津の「サーモン亭」で食べた「標津鮭定食」。右上が「サケの刺身(ルイベ)、左上が「サケの塩焼き」、中央右が「サケの氷頭なます」、右下が「サケの三平汁」、左下がイクラ丼の「いくらご飯」。サケ三昧の食事に感動!
石狩鍋
サケはアイヌ語で“カムイ・チェプ(神の魚)”。北海道でのサケの重要性を見事に表した言葉ではないか。さて数ある北海道のサケ料理の中でも王様級なのが長万部温泉「丸金旅館」の夕食にも出た石狩鍋だ。石狩川河口の石狩からおこったサケ料理ということだが、ぶつ切りにしたサケと豆腐、コンニャク、野菜類などを入れた味噌味の鍋料理。体が芯から暖まる。
三平汁
ところで青森から函館に夜中のフェリーで渡り、夜明けの函館の朝市を歩き、市場内の食堂で食事するのがぼくの北海道ツーリングの定番のようなもの。そのとき一番、食べたくなるのが三平汁。湯気のたつ三平汁をフーフーいってすすっていると、「津軽海峡を渡って北海道にやって来た!」という気分になるものだ。三平汁はサケやニシン、タラなどを入れた汁だが、なんたってサケがうまい。冬、地吹雪に吹かれたときに食べた酒粕入りの三平汁には生き返るような思いだった。
ルイベ
北海道の先住民アイヌの食文化の伝統を色濃く受け継いだのがルイベ。ルイベというのは、凍らした食べ物を意味するアイヌ語で、タラやエゾジカのルイベもあるが、ツーリングの途中で我々が口にするルイベといえばサケになる。生のサケを三枚におろし、皮をとり、4、5ミリぐらいの厚さに切ったものを凍らせ、それをワサビ醤油につけて食べる。シャキシャキッとした歯ごたえと、トロッとした脂の乗った身のうまさがたまらない。寒さの厳しい北海道らしい食べ物だ。
イクラ丼
北海道ツーリングではきわめてなじみの深いイクラ丼だが、このイクラというのはアイヌ語ではなく、魚の卵を意味するロシア語なのだ。そのロシア語がサケやマスの卵の意味ですっかり定着したところに、北海道とロシアの距離の近さを感じさせる。イクラは生の筋子をばらして塩漬けにしたもの。イクラ丼というのは、それをあたたかな丼飯の上にのせただけの素朴な食べ方だが、北海道の食の素材のよさとあいまって、これがすこぶるうまいのだ。
めふん
北海道料理の中で一番の酒の肴といったら「めふん」といっていい。今回の「北海道一周」では残念ながら食べる機会がなかったが、雄のサケの背腸(臓物を取り出したあとで取る背骨に沿ってついている血わた)を原料にした塩辛で、高級品になると3年近くも寝かせるという。高級品のめふんには、舌の上でとろけるような熟成された味がある。めふんは生ビールにもワインにも日本酒にも‥‥と、何にでも合う。すごい酒の肴だ。ぼくが知る限り、このサケの“めふん”とアユの腹わたからつくる“うるか”は、日本の塩辛の両横綱といったところだ。
サケを間近に見る
サケの本場、標津ではサケの遡上が見られる標津川の河口に建つ「標津サーモンパーク」に行った。中心となるのは「標津サーモン科学館」。館内にある水族館では大水槽で泳ぐシロザケを見た。そのほか世界のサケ科魚類約30種も見られる。ここではサケとマスの関係の近さを思い知らされた。サケとマスはどう違うのか、よくわからなくなってくる。サケもマスもサケの仲間。簡単にいえばサケは海産でマスは淡水産ということか。
千歳ではやはりサケが遡上する千歳川の河畔にある道の駅「サーモンパーク千歳」に行った。ここには「千歳サケのふるさと館」があり、館内の大水槽で泳ぐサケの群れを見られる。千歳川にはサケの捕獲用のインディアン水車がある。実際に使われているものだけに迫力満点。これはアメリカの水車式漁法をヒントにたということで、千歳川独特のものになっている。


千歳の道の駅「サーモンパーク千歳」
千歳川のインディアン水車
二風谷の「アイヌ文化資料館」ではサケがイロリにぶら下がっていた。
旭川・近文の「川村カ子ト・アイヌ資料館」には、サケ皮でつくられたアイヌの冬靴(チェブケリ)が展示されていた。それには思わず目が釘付けになる。北海道にとって、サケがいかに重要な魚であるかを証明しているようなものだった。
番外編 我が「サケの思い出」
妻の郷里での貴重な体験
日本でも有数の豪雪地帯として知られる新潟県魚沼地方の小出(魚沼市)には、四季折々、何度となく足を運んでいる。ここが妻の郷里だからだ。
越後三山の駒ヶ岳(2003m)、中ノ岳(2085m)、八海山(1775m)が目の前にそびえ、上越国境の谷川連峰を源とする魚野川が流れるといった風光明媚なところ。魚野川は信濃川最大の支流で、越後山脈と魚沼丘陵の間の小盆地を貫流し、越後川口で信濃川の本流に合流する。魚野川の両側には豊かな水田が広がり、そこが「魚沼産コシヒカリ」の産地になっている。
この魚野川には秋になると、サケが登ってくる。日本海、オホーツク海、さらには北太平洋を回遊してきたサケが、海からはるかに遠い魚沼のこの地に登ってくるのというのが、何とも信じがたい、まさに神秘の世界だ。
そんな魚野川のサケを漁協が一括採捕している。
そのやり方というのは次のようなもの。
魚野川の川幅いっぱいに竹の簀を張る。その中で2ヵ所、サケが登れる口をつくり、そこを通って登ろうとするサケが、そのまま鉄製の生簀の中に入るような仕掛けになっている。それを舟に乗って採りに行き、オスは小川を利用した生簀に放ち、メスはすぐさま腹を開き、卵を取り出し、孵化場で孵化させる。そして翌春、稚魚を放流する。
魚野川でとれるサケは、日本海から100キロ以上も遡ってきたサケである。川を登ってくる間に脂が落ち、淡白な味のサケになる。そのような川魚風のサケを好む人が多く、一括採捕場でサケをとる時間になると、何人もの人たちがサケを買い求めにやってくる。 北海道のサケを見たあとなだけに、この魚沼産のサケに興味を抱き、今日(11月5日)、小出に行ってきた。だが…、残念ながら一括採捕は10月末で終了していた。
「マチカワ」という漁法
いまでこそ、魚野川のサケは漁協の一括採捕になっているが、1976年まではサケをとる権利を持っている人たちが、「マチカワ」という漁法でとっていた。
マチカワというのは川岸から6メートルぐらいの間に何本かの杭を打ち、その杭の上流側に、高さ60センチ、長さが120センチほどの鉄製の簀を5枚張り、その先端から下流方向に鉤形に1枚、同じような鉄製の簀を張る。この杭に網をくくりつけて下流側に流す。
さらに2本の杭にはメッパリと呼ぶしなる棒をくくりつけ、そこから糸を引っ張り、網の上部を通して下部と結ぶ。網は口の広さが180センチほど。口の両側にはケットと呼んでいる棒を立てる。ケット棒は竹製で、下部を割って重しの石をはさみ込み、網が口を開いた状態で固定させる。
このマチカワはサケが川岸近くを遡ってくる習性を利用したもの。登ってきたサケは簀に行く手をはばまれ、戻ろうとするときに網の中に入ってしまう。網の中で暴れるので、ケット棒が倒れ、網は口のしまった状態で流れる。このときメッパリは大きくしなる。2本のメッパリの間にもう1本、棒を杭にくくりつけ、その棒と網を結んである。さらにもう1本、マチカワの小屋の鳴子ともつながっており、サケが網に入ると、鳴子が鳴るようになっている。
妻の父親、ぼくにとっての義父はそのマチカワ漁の権利を持っていた人で、サケの季節になるとマチカワ小屋に泊まり込んでいた。ぼくも何度か一緒に泊まりこんだことがある。越後の地酒を飲みながら、マチカワ小屋に泊まりこむのはなかなかのものだ。しかし、いくら飲んでも、酔っ払うことはできない。カラカラカラカラ、鳴子が鳴ると、夜中でもすばやくタモ網を持って外に飛び出し、サケの入った網をたぐり寄せ、網の中からタモ網でサケをすくいとるのだ。
妻の実家は虫野という集落にある。旧伊米ヶ崎村の村役場のあったところで、130戸ほどの戸数がある。そのうち13戸がマチカワの株(権利)を持っていた。マチカワの株は相当、古くからの代々の世襲だったという。13戸のマチカワの株を持っている家のうち、実際にサケをとっているのは5軒だった。
このマチカワ漁でサケをとっていたのは、そう広い地域ではない。信濃川と魚野川の合流地点から上流、越後川口から堀之内、小出にかけての一帯で、六日町(現南魚沼市)になると、もうマチカワ漁はなかった。
マチカワ漁最後の年、義父は全部で24匹のサケを採っている。その内訳は次のようなものだ(カナはオス、メナはメス、大中小はサケの大きさである)。
10月9日 カナ小1
10月13日 カナ中2 メナ中1
10月14日 カナ中1 カナ小1
10月15日 カナ小1 メナ中1
10月17日 カナ小2
10月19日 カナ小1
10月20日 メナ中1
10月23日 メナ中1
10月24日 カナ中1
10月26日 メナ中1
10月27日 メナ中1
11月1日 カナ中1
11月7日 メナ大1
11月17日 カナ中1 メナ中2
11月18日 カナ特大(7キロ)1
11月26日 カナ中1
11月末にはマチカワ小屋をこわし、マチカワは12月に入ってから取り外した。
旧伊米ヶ崎村には全部で11ヵ所のマチカワ漁のできる場所があり、虫野3、伊勢島3、十日町3、岡新田2と振り分けられていた。それぞれの集落内ではマチカワ漁のはじまる前に、マチカワ割りをして漁場を決めたという。
ここでのサケ漁はマチカワ漁だけではない。鉤のついた竹竿でひっかける鉤漁や投網を使ったナゲステ漁、餌のついていない針、7、8本でひっかけるコロ漁などもあった。
魚野川でとったサケは、塩をふって寒いところにつるしておいた。メスの場合だと、塩をする前にヨノコと呼ぶ卵を取り出し、それに塩をして保存した。
ここではサケは暮から正月にかけては欠かせない。
まずは大晦日だが、その日に食べる年取魚は塩ザケで、年越しのひと仕事を終えた昼食に食べることが多かった。各人が一切れづづの塩ザケの焼き魚を食べた。コブ巻も欠かせないものだった。サケのアラを芯にしたコブ巻で、2、3日かけてグツグツ煮込み、やわらかくしたものだ。それを「そう煮」といっているが、そう煮したコブ巻とサトイモ、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、焼豆腐を一緒に煮る。味つけは醤油味。それにヨノコを散らしたダイコンなますに白いご飯と澄まし汁がついた。
元日は干し柿とゆで栗を各人がめいめいにひとつづつ食べたあと、雑煮とあんこ餅を食べる。雑煮にサケは欠かせない。雑煮のダシにはサケのアラを使う。雑煮の具にもサケの切り身を入れる。そのほかダイコン、ニンジン、ズイキ、カンピョウ、家によってはサトイモを入れる。餅は切り餅(のし餅)で、焼いて湯に通したものを入れ、その上からヨノコを散らす。このようにまさに「サケ正月」だった。
魚沼の里から見る越後三山。右手に八海山、左手に駒ヶ岳、中央奥に中ノ岳
魚野川のこの地点でサケの一括採捕をする路面電車
ふらっと乗って終点まで

車窓からは普段着の町が見えてくる
函館は市電の走る町。町並みの近代化とともに、市電の走る町が日本中からどんどんと消えていくなかで、函館は健在だ。函館市の交通局が運行している。
路面電車というのは、乗っているだけで楽しくなってくる。ふらっと乗って終点まで行き、ぷらぷら歩き、また乗った地点まで戻ってくる。ぼくはそういう市電の乗り方が好きなのだ。
車内では函館のみなさんの話し声が聞こえてくるし、車窓からは普段着の函館の町が見えてくる。
ということで、函館駅から歩きはじめる。まずは駅前の交差点へ。そこには「函館市道路元標」。北海道の幹線、国道5号と国道278号、国道279号の起点になっている。国道5号は札幌へ、国道278号は恵山を経由し、森で国道5号に合流。国道279号は津軽海峡を渡って下北半島を南下し、野辺地で奥州街道の国道4号に合流する。
その「道路元標」のある交差点に路面電車の函館駅前電停がある。来た電車に飛び乗った。谷地頭行きだ。終点の谷地頭駅に着くと、すぐ近くの市営谷地頭温泉の湯に入る。赤茶けた湯の色。大浴場には高温湯と低温湯の湯船があるが、ともに熱い。毎朝この湯に入りにくるという人としばし「湯の中談義」をしたあと、立待岬へ。
その途中には石川啄木一族の墓がある。墓石には啄木の詩、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」が刻み込まれている。
天気は快晴。立待岬に立つと、海に落ち込む函館山の断崖を見る。迫力満点の眺め。津軽海峡の対岸には下北半島が青く霞んで見えた。立待岬からの風景を目に焼きつけ、谷地頭から函館駅前に戻った。次に「函館どっく前」行きに乗り、同じようにして終点の函館どっく前まで行き、函館駅前に戻った。さらに「湯の川」行きに乗り、終点の湯の川まで行きたいところだが、残念ながら時間切れということで諦めた。
鉄道大好きのカソリ(日本の路面電車にはすべて乗っている)が初めて函館の市電に乗ったのは1980年。今から30年ほど前のことだ。その当時は料金は均一で全線110円。1日乗り放題の500円券があって、朝から晩まで函館の市電に乗り、市電だけで函館中をめぐった。
当時は4系統の路線があった。
①番 駒場車庫前から松風町、栄町経由末広町行き
②番 駒場車庫前から松風町、函館経由谷地頭行き
③番 駒場車庫前から宮前町、函館駅経由函館ドッグ前行き
⑤番 湯ノ川から松風町、函館駅経由十字街行き
五稜郭に近い五稜郭公園前と函館のかつての中心街だった十字街は4系統ともに通っていた。
今は湯の川と十字街で分かれる谷地頭、函館どっぐ前を結ぶ路線だけになっているが、それでも函館を横断する路線が残っているのがすごい。料金は30年前のほぼ倍で、2キロまでが200円、4キロまでが220円、7キロまでが240円、10キロまでが250円となっている。全線に乗っても250円ときわめて安い。
北海道にはもう1本、路面電車がある。それは札幌で、「すすきの⇔西4丁目」間を走っている。
函館西部地区の街並み
ぼくの北海道一周はいつも函館から
函館はぼくの大好きな町。いままでに6度の「日本一周」を含め、何度か北海道を一周しているが、その出発点はいつも函館だ。青森から津軽海峡を渡って函館に上陸しないと、どうしても「北海道にやって来た」という気分にはなれないのだ。
バイクのみならず、列車でも何度か、北海道には行っている。何といっても最初の列車旅は忘れられない。
1980年6月3日、上野発15時30分の青森行き「はつかり11号」に乗った。「さー、北海道だ!」と高ぶる気持ちを抑えられない。「はつかり」に乗ると、じきに検札があり、車掌さんには「北海道まで行くのですか」と聞かれた。列車が仙台を通過するあたりで、「青函連絡船旅客名簿」の用紙が手渡された。それには日本語と英語で住所、氏名、年齢、性別を書き込むようになっていた。
そのときは津軽海峡を越えて、「北海道」という異国に旅立つような気分になった。
青森駅には0時13分に到着し、0時35分発の青函連絡船「羊蹄丸」に乗り換えた。
目をさますとすぐに甲板に上がった。夜明けの津軽海峡はないでいた。「羊蹄丸」はなめらかな海面をまるで滑るように進んでいく。荒れた北国の海を想像していたので、あまりにも静かな海が信じられないほどだった。
明けゆく空の色を映して、海はバラ色に染まっていく。色づいた海からスーッとそそり立つ山、それが函館山。山裾のそこかしこにまだポツン、ポツンと街明かりが残っていた。
活気あふれる函館朝市
4時25分、「羊蹄丸」は函館港に到着。大勢の乗客と一緒に歩き、外に出ると、大きく息を吸った。澄み切った青空。上野駅を出発したときは、なんともうっとうしい梅雨空だったので、「これが同じ日本なのか」と驚かされたほど。
桟橋のすぐ脇には函館名物の朝市。まだ5時前だというのに、朝市には活気があふれ、誰もが忙しげに動きまわっていた。
ドーム形をした建物の中では、近郷近在のオバチャンたちが並んで座り、とれたての野菜を売っていた。スズランの白い花も見られた。
函館の朝市で目立つのは何といっても魚介類などの海産物。裸電球がいっぱいぶらさがった店先にはまだピクピク動いているイカが並べられている。サケが積み上げられている。タラコやスジコなどが並んでいる。幾種類もの鮮魚、毛ガニやタラバガニ、コンブ、ワカメ、スルメといった朝市の商品が飛ぶように売れていく。雑然とした中に、人々のかもし出す熱っぽさが漂っていた。
函館の町はライラックの花盛りで、やわらかな甘い香りをあたりに漂わせていた。
大きな空。サラッとした肌ざわりの空気。そんな函館の町を歩きながらぼくはシベリアの大地を連想した。のびやかな町を歩いていると、ふとハバロフスクをプラプラ歩いているかのような気分にさせられるのだった。
函館は日本で最初に開港した港のひとつ。そのため文明開化の波は、いちはやくこの港町に押し寄せた。海峡を見下ろす外人墓地の十字架やギリシャ正教のハリストス正教会、あちこちに残る木造の洋館、海へとつづく石畳の坂道、港を見下ろすカフェテラス…と、しっとりとした異国情緒を味あわせてくれたのだ。
幕末最初に西洋に開かれた港町
そんな函館西部地区の街並みが北海道遺産になっている。石畳の道を歩き、ハリストス正教会、カトリック教会、旧イギリス領事館、旧ロシア領事館、外人墓地と見てまわった。港へと下っていく坂道には大三坂、八幡坂、日和坂…とそれぞれに名前がついている。 その中でも一番幅広く、堂々としているのが基坂。かつては函館の、ひいては北海道の中心地であった。そのため昔は「お役所坂」とか「御殿坂」と呼ばれたという。基坂を登ったところには旧函館区公会堂。明治43年に完成した木造2階建ての洋館。モダンな明治建築で、いまにも王朝貴族風に着飾った男女が現れ、舞踏会がはじまるような雰囲気を漂わせている。
白亜の壁に緑の尖塔。エキゾチックなビザンチン様式のハリストス正教会。ここは日本におけるギリシャ正教の発祥の地。東京のニコライ堂の鐘はここから移されたという。
「ペリー会見所跡」があるところが、いかにも函館らしかった。
函館の西部地区を知るためには、幕末の開国の歴史を知らなくてはならない。その歴史といのは、かいつまんでいうと次のようなものになる。
江戸時代の日本は200年以上もの長い間、鎖国の夢をむさぼっていた。その夢が、嘉永6年(1853年)、浦賀にやってきた4隻の黒船によって破られた。ペリーによって率いられたアメリカの軍艦。開国を強く要求した。
翌年(安政元年)、ペリーは再びやってきた。幕府はその圧力に屈し、日米和親条約を結ばざるをえなかった。条約の主な内容はアメリカ船に食料や燃料を供給すること、下田、箱館(函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること、アメリカに最恵国待遇を与えることなどであった。つづいてイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結び、徳川幕府の鎖国政策は崩壊した。
アメリカはハリスを総領事として下田に駐在させた。ハリスは幕府に通商条約の締結を迫り、黒船が来てから5年、安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれた。それによってさらに神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)を開港し、江戸と大坂(大阪)を開市することになった。こうして日本の外国との貿易がはじまった。
箱館、横浜、長崎の3港が最初の開港場になり、のちに神戸が加わった。
函館にはこのような、日本の玄関口になった歴史がある。その歴史が函館の魅力の基になっている。
函館山と砲台跡
津軽要塞、函館山
函館のシンボル、函館山の山頂には、山麓駅からロープウェーで登った。
そこからの展望はまさに絶景。函館の街並みが一望できる。足元には元町を中心とする西部地区の街並みを見下ろす。駅前の繁華街大門にはビルが建ち並んでいる。函館港がよく見える。目をすこし遠くにやると、緑に包まれた五稜郭公園が見える。電停の五稜郭公園前周辺は新興の繁華街で、やはりビルが建ち並んでいる。
函館の街並みは横津岳の方に向かって拡大している。横津岳の右肩越しには、駒ケ岳が見える。
函館山の標高は334メートルでしかないが、海からそそりたっているので、数字以上の高さに感じられる。
函館山は牛が寝そべったような形をしているところから臥牛山とも呼ばれているが、ロープウェーの山頂駅のある御殿山をはじめ、薬師山、つつじ山など全部で13の山々の総称。その最高峰が標高334メートルの御殿山になる。
北海道遺産になっているのは「函館山と砲台跡」。函館山には津軽海峡警備の「津軽要塞」があった。
山を見るんでない!
函館山の要塞は日露戦争前の明治38年(1898年)に始まり、日露戦争最中の明治38年(1905年)までに司令室や砲台、発電所、観測所など17の施設が建設されたという。函館山は山全体が軍事機密となり、地形図から消え、一般人の入山や写真撮影は厳しく制限された。
「カブタンとノンタンの北海道遺産」ブログには、
「当時の子供たちは函館山を眺めていると、『山を見るんでない! そこに山はないんだよ』って、大人に怒られたことがあるって、聞いたことがあります」
と書かれているが、地図から消された要塞地帯をじつにうまく表現している。
函館山の要塞は太平洋戦争終結の昭和20年(1945年)までつづくことになる。
半世紀近くにわたって一般人の立ち入りが禁止されたおかげで、函館山には豊かな自然が残り、「自然の宝庫」になっている。
以前、1時間ほど歩いて山頂まで登ったことがるが、深山を思わせるような密生した森には驚かされた。
「えー、函館の中心街のこんな近くに!」
あまりにも有名になったが、函館山からの夜景はすばらしい。
函館港と大森浜、両方を海にはさまれているので、キラキラ光り輝く町明かりが、いっそうきわだって見える。函館の夜景は香港、ナポリと並ぶ「世界三大夜景」だと称されている。
五稜郭と箱館戦争の遺構
新日本統一、最後の激戦地
函館駅前からは「北海道一周」の愛車、スズキDR-Z400Sを走らせ、五稜郭へ。その入口には、次のように書かれた案内板が立ていた。
さすが官軍の流れを引き継ぐ国の書いた案内板らしく、榎本武揚らは「旧幕府軍」ではなく、「旧幕府脱走軍」になっている。
徳川幕府が倒れ、新政府が発足してからというもの、旧幕府軍の抵抗は強かった。そして新政府軍対旧幕府軍の戊辰戦争が勃発。日本は16ヵ月にも及ぶ内戦に突入した。その皮切りとなった鳥羽・伏見の戦いで破れた旧幕府軍は敗走をつづけ、その最後の地が箱館(函館)になる。榎本武揚を中心とする旧幕府軍は江戸港から8隻の軍艦とともに箱館に入り、五稜郭を占拠して新政府軍と戦ったが、敗れさる。
箱館戦争の終結は明治2年(1869年)5月17日。
この日をもって日本は再統一され、新生日本が誕生した。函館はそんな日本の、大きな転換点となった歴史上の舞台。
箱館戦争に欠かせない新撰組の土方歳三は仙台で榎本武揚と落ち合い、箱館に入ったが、明治2年(1869年)5月11日、箱館の一本木関門で戦死した。
箱館戦争で戦死した官軍の兵士たちは、函館山の麓にある護国神社に祀られている。立派な神社で、函館山を背に聳えるように建っている。鳥居も大きい。ところが箱館戦争で負けた旧幕府軍兵士の遺体はそのまま放置されたという。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」。函館山の麓の「碧血碑」は、土方歳三をはじめとするそんな旧幕府軍の戦死者816名の慰霊碑だ。
一方の榎本武揚は生き延びる。戦後、明治政府の高官になり、外務大臣や文部大臣、農商務大臣などを歴任し、明治41年(1908年)に73歳で死んだ。土方歳三と榎本武揚、2人の人生はあまりにも対照的。
さて五稜郭だが、堀を渡って藤棚をくぐり抜け、城内に入ると広い市民公園になっている。子供たちの遊具もある。そんな城内の一角には五稜郭を設計した蘭学者、武田斐三郎の碑がある。
五稜郭の中央部では、箱館奉行所の庁舎復元工事の真っ最中。来年には完成するという。箱館奉行所は函館山の麓にあったものが、開港後、移されたという。五稜郭というのは箱館奉行が蝦夷地を統治するために、役所を新築する敷地として造られた城郭ということになる。
この箱館奉行所の完成は何とも楽しみ。そのときにはまたぜひとも函館に来てみたい。きっと函館観光の新たな目玉になることだろう。
ところで「五稜郭と箱館戦争の遺構」だが、「カブタンとノンタンの北海道遺産」ブログには詳細に描かれている。
「旧幕府軍が蝦夷地に上陸したのは明治元年10月21日。箱館奉行所があった五稜郭に進軍し、五稜郭を占拠したのが10月26日。その先、松前藩を打ち破り、蝦夷地を手にしたのが12月15日。あっというまに『蝦夷共和国』が生まれる勢い!」
といった具合でシリーズになっている。
みなさん、ぜひとも「カブタンとノンタンの北海道遺産」は見てください。カブタンは我が北海道遺産の師です。
城内は公園、子供たちの遊具も設置されている
五稜郭を設計した蘭学者、武田斐三郎の碑北海道のラーメン
函館、釧路、旭川、そして札幌ラーメン
函館ラーメン 五稜郭から函館駅前に戻ると、再度朝市を歩き、「どんぶり横丁」のラーメン専門店「しお家」で「塩ラーメン」を食べた。店の主人は「函館ラーメンは何たって塩ラーメンでしょ!」といっていた。それで店名が「しお家」なのか。店の主人が自慢するだけあって、ほどよい塩加減のスープは絶品。それと余談になるが、ここでは塩ラーメン&ライスを食べたのだが、ライスがうまかった。北海道というと、ご飯がまずい(北海道のみなさん、失礼!)というイメージがあるが、それが今回、ここのみならず、おいしいご飯をあちこちで食べた。新米が出回る時期という季節的な要因があったのかもしれない。
ところでラーメンが北海道遺産になるところが、いかにも北海道らしい。
「札幌ラーメン」は別格として、「函館ラーメン」、「釧路ラーメン」、「旭川ラーメン」がその御三家になっている。
さ、ラーメンの食べ歩きだ。
釧路ラーメン釧路では釧路駅前に到着すると、和商市場に直行。まずは名物海鮮丼の「勝手丼」を食べ、そのあと和商市場内の食堂「和幸」で「カニ足ラーメン」を食べた。名前に偽り無し。カニ足がゴソッと入っていた。コーンもたっぷり。さすが和商市場。
旭川ラーメン 旭川では「旭川ラーメン」を食べ歩いているカブタンに案内してもらい、「蜂屋」で食べた。豚骨と魚のダブル味スープ。縮れ麺。「麺の加水率を少なくして、麺とスープがすぐからむようにしてあるのが、旭川ラーメンの特徴ね」とカブタン先生にはラーメンをすすりながら教えてもらった。
このあとカブタン夫妻と旭川の繁華街にある「梁山泊」という店で鹿肉の燻製、アイヌネギのおひたし、熊肉のステーキ、若鶏の新子焼、チャップと旭川ならではの料理の数々を肴におおいに飲んだが、カブタン先生には最後、ピシッといわれた。
「ラーメンはほんとうは最後に食べるものなのよ」
ご当地ラーメンの先駆けが札幌ラーメンだ
札幌ラーメン「札幌ラーメン」は札幌一の繁華街、すすきのにある「ラーメン横丁」で食べた。一番手前の店、「華龍」で「コーンバターラーメン」を食べた。味噌ラーメンのコーンとバターの取り合わせが、いかにも「札幌ラーメン」らしかった。
「ラーメン横丁」には何年か前にバイク誌の取材で来たことがある。その時の記事を紹介しよう。
人がやっとすれ違いできるほどの路地の両側には、ずらりと「札幌ラーメン」の店が並んでいる。その数は17軒。
で、どの店に入ったかというと、「ラーメン横丁」でも一番歴史の古いといわれている「正楼閣」。
「正楼閣」では、店長の前田義幸さんおすすめの「バターコーンラーメン」を食べた。
麺の上にはバターとコーンがのっている。バター、コーンともにボリューム満点。このボリューム感こそ北海道。そのほかの具といえば、チャーシュとモヤシ、ネギ、メンマ、それとワカメ。北海道産の上質なバターをスープに溶かし込んでいくと、味にグッと深みが出てくる。
「これが札幌ラーメンか!」
と思うような味の深み。
前田さんは徹底的に北海道産にこだわっているが、北海道産コーンのほのかな甘味が口に残り、空知の栗山産ネギが味に強いインパクトを与えている。
バターとコーンがこれほどラーメンに合うとは…。
白味噌をベースにしたスープはコトコト煮つづけた豚骨でダシをとっているが、「豚骨ラーメン」のように白くならないように、煮過ぎないようにとすごく気を使うとのこと。この味噌味こそ「札幌ラーメン」の「札幌ラーメン」たる所以といっていい。
麺は中太、硬めの縮れ麺でしっとりしている。黄色味が濃い卵麺。麺のうまさが「札幌ラーメン」の大きな魅力にもなっている。
「札幌ラーメンは麺自体の味を楽しんでもらうもの。旭川ラーメンは麺にスープの味をしみ込ませ、それを楽しんでもらうもの」
という前田さんの言葉が印象深い。
「札幌ラーメン」は頭に地域名のついた「ご当地ラーメン」のまさに先駆け。
と同時に、日本中で最もよく知られつづけているご当地ラーメンだ。
「札幌ラーメン」の出現は終戦後のことで、中国から引き揚げてきた人たちが、「すすきの」あたりに屋台を出したのがはじまりとされている。
「正楼閣」の前田義幸さんの場合も2代目で、父親が30年前にラーメン屋をはじめたという。
「札幌ラーメン」の一番の特徴の味噌味は、店でラーメンも出す、豚汁も出すということで、両者が一体化したのがはじまりだという。
「札幌ラーメン」が全国的に受けたのは、この味噌味によるところがきわめて大きい。
それともうひとつは、あの脂っこさ。
戦前までの日本人にとってのラーメンは、淡白な、さっぱり味の「支那そば」が主流。家庭でも製麺屋で麺を買い、支那そばをつくっていた。それがラードをたっぷり使って炒めたモヤシをたくさん入れたり、具を多様化させたり、より脂ぎったスープにすることでラーメンは家庭料理を離れ、一気に外食料理の花形になっていった。
その意味で「札幌ラーメン」は、日本の食文化をガラリと変えたといっても過言ではないのである。
「北海道遺産めぐり」の「北海道一周」では、「札幌ラーメン」&「御三家ラーメン」のほかにも、北海道の各地で食べた。苫小牧の「ラーメン&寿司セット」はユニーク。石北峠のラーメンは山菜入り。宗谷岬のラーメンはモズク入り。稚内の「大漁ラーメン」は北海の海鮮ラーメン。熊石のラーメンは町中の「なべさん食堂」で食べた「塩ラーメン」だが、なつかしの心にしみる味だった。
苫小牧の寿司セット
石北峠の山菜ラーメン
宗谷岬のモズクラーメン
稚内の大漁ラーメン
熊石の塩ラーメン
番外編 中国大陸で見た麺食文化
北海道ラーメンのルーツは大陸にあり
天津の牛肉麺「ラーメン」は北海道遺産であるばかりでなく、日本の国民食になった感がある。その「ラーメン」の言葉が定着したのは、わずか4、50年のことでしかない。
戦前は「支那そば」といっていた。メンマも「支那竹」だった。それが戦後、中国・東北地方から戻ってきた人たちが「拉麺」の言葉を広めた結果、「支那そば」のことを「ラーメン」というようになった。ぼくはその発信地は札幌だと思っている。
「ラーメン」を漢字で書くと「拉麺」になるが、名前と中身の違うものになって定着した。
ツーリングのカソリの定番食といえば「ラーメンライス」。そのような背景があるので、中国・済南の軽騎鈴木製110㏄バイク、QS110を走らせての「中国・東北部走破行」では、おおいなる興味を持って各地で麺を食べた。2004年の秋のことだった。
このときは麺を食べるだけでなく、食堂の調理場をのぞかせてもらい、麺職人の麺づくりを見た。また、あちこちの町で市場を歩いたが、露店の麺づくりも見た。
水田での稲作よりも、畑作での小麦づくりの方がはるかに盛んな中国北部の華北から東北地方にかけての一帯は、世界の「麺食文化」の中心地になっている。
それだけに「本場の麺を食べた!」、「本場の麺づくりを見た!」という満ち足りた気分をも味わった。
中国の麺職人たちは、まるで魔術師のようだ。
たとえば拉麺(ラーメン)づくり。こねた小麦粉を手で引っ張り、ブルンブルンふりまわし、あっというまに細長く延ばしていく。手先の力加減ひとつで太麺や細麺を自由自在につくってしまうのだ。なんとも豪快で華やかな拉麺づくり。「どうして手だけで、こうも簡単に麺ができてしまうのだろう」と驚きの目で見てしまう。

市場で見た拉麺づくり各地に「拉麺」の専門店があるが、食べ方は汁ありと汁なしの2通り。牛骨スープなどの汁ありの麺には牛肉やゆで卵、香菜(中国料理には欠かせない香辛料)などの具が入っている。汁なしの麺は卵やトウモロコシ粉、味噌などでからめたソースを麺の上にのせて食べる。スパゲティー風の食べ方だ。
拉麺に似ているのが抻麺(チャンメン)。
抻麺の本場は華北・甘粛省の蘭州で、「蘭州抻麺」の看板を掲げた専門店を各地で見た。拉麺づくりに比べると、抻麺づくりはもっと手元でコチョコチョという感じでつくってしまうが、やはりこねた小麦粉を手だけでつくる麺。その速さは拉麺以上!
刀削麺はこねた小麦粉を小刀をつかってパパパパパッと削り、目にもとまらぬ速さで沸騰した大鍋の湯の中に入れていく。
手延麺は日本でもおなじみの麺の作り方。こねた小麦粉をのし棒でのし、薄く平べったくし、折りたたんで包丁で切って麺にする。
このように中国の麺の種類は多様。「ラーメン」はそのうちの一種で、麺の作り方の一種ということになる。これらの手づくり麺は日本でいえば「うどん」。うどん類を総称して「麺条(メンティヤォ)」といっている。
中国・東北地方で麺を食べ歩いたカソリ、ますます「麺食文化」にはまり、「麺ロード」をさらに西へと行った。
「麺ロード」はきれいに「シルクロード」に重なり合う。中国・華北の麺は「シルクロード」を通って中央アジアに定着し、その西端にイタリアのスパゲティーがある。
ということで、2006年に「天津→イスタンブール」の「シルクロード横断」を走ったときも、毎日のように麺を食べ歩いた。
今年の夏の「チベット横断」をメインにした「北京→カシュガル」でも同様に麺、麺、麺と麺を食べ歩いた。
「麺食いのカソリ」なのである。
ということで、「シルクロード横断」の中国内、「天津→カシュガル」の写真を見てもらおう。
西安の麺
平涼の拉麺づくり
平涼の拉麺
蘭州の牛肉麺
蘭州の拉麺づくり
酒泉の麺づくり
具をかけた麺
汁の中に入れた麺
敦煌の市場に並ぶ乾麺
敦煌の麺
ハミの食堂
ハミの麺
倫台の麺づくり
麺をゆでている
ホータンの麺屋
ホータンの麺屋
カシュガルの麺
内浦湾沿岸の縄文遺跡群
北海道初の国宝に指定
展示されている縄文土器
いよいよ函館を出発。スズキDR-Z400Sを走らせ、国道5号で森へ。
森を過ぎると内浦湾を右手に見ながら走る。内浦湾は漁業資源の豊富な海。気候も北海道の中では一番、温暖で、伊達などは「北海道の湘南」といわれている。
縄文人にとっても住みやすかったところで、内浦湾の沿岸には何ヵ所もの縄文遺跡があり、それら「内浦湾沿岸の縄文遺跡群」は北海道遺産になっている。そのなかでも代表的なのが伊達の北黄金貝塚だ。
内浦湾の落部漁港でDRを停める。渡島半島のシンボル、駒ヶ岳がよく見える。
落部では開通したばっかりの道央道の落部ICを見に行く。これで八雲IC→落部IC間が開通し、残るはあとわずか。函館までの全線が1日も早く開通することを願ってやまない。それが北海道のためだ。
国道5号で長万部へ。北海道らしい直線区間がつづく。やがて夕日が渡島半島のゆるやかな山並みに落ちていく。
長万部で国道5号と別れ、室蘭に通じる国道37号を行く。内浦湾の海岸線に沿った道だ。日が落ちると急速に寒くなる。寒さに震えながら走り、今晩の宿、豊浦温泉の「しおさい」に到着。さっそく大浴場と露天風呂の湯につかったが、う~ん、たまらん。温泉天国の気分を味わった。無味無臭のうす茶色の湯は体があたたまる。
湯から上がると、レストランでおつまみセットをつまみに生ビールをキューッと飲み干す。まさに至福の時。そのあと豊浦漁港に上がったブリの「刺身定食」を食べた。
翌朝は朝湯に入り、焼き魚つきの朝食を食べ、豊浦温泉「しおさい」を出発。国道37号で北黄金貝塚に行った。国道からほんのわずか、入ったところにある。
ここはいままで、何度、通ったか知れない。それなのに、こんなに国道37号に近いところに、これだけ重要な縄文遺跡があったとは。あらためて「北海道遺産めぐり」をしてよかった!と思うのだった。
昭和23年(1948年)に発見された北黄金貝塚。この遺跡は縄文中期(今から6000~4000年)のもので、5ヵ所の貝塚のほか、住居跡や墓地、鹿を落とす落とし穴、祭祀のための盛土、水場の祭祀場跡、水汲み用の足場跡、木の実を貯蔵するための穴などが見つかっている。
今は史跡公園として竪穴式住居や貝塚、水場の祭祀場などが復元され、資料館の「北黄金貝塚情報センター」がある。資料館にはこの地で発掘された底の平な「上板式土器」などの縄文土器が展示されている。
北黄金貝塚に到着
北黄金貝塚情報センター
復元された竪穴式住居
ところで内浦湾の海岸線というのは渡島半島・砂原近くの砂崎から室蘭港口の絵鞆岬までの約30キロ間だが、砂崎から南の海岸線にも点々と縄文遺跡がある。その中でも代表的なのは南茅部の大船遺跡。近くには大船温泉の「大船上湯」や「大船下湯」がある。
ここから出土した「中空土偶」が北海道初の国宝に指定された。そのあたりは「カブタン・ノンタンの北海道遺産」に詳しいが、「北海道初」というのにはビックリ。つい最近まで、北海道には国宝がひとつもなかったということではないか。そんなバカな。国の北海道文化に向けるゾッとするほどの、目の冷たさを感じさせる話だ。
今回の「北海道一周」では函館から国道5号で森まで行ったので、南茅部はパスしてしまったが、次の機会には必ずや大船遺跡を見ていこう!
内浦湾の落部漁港
道央道の落部IC
国道5号で長万部へ
夕日が落ちていく
夜明けの内浦湾
内浦湾の豊浦漁港
昭和新山国際雪合戦大会
地球の息吹が聞こえる町の北海道遺産
国道37号沿いのJR室蘭本線・洞爺駅前でスズキDR-Z400Sを停め、小休止。有珠山が間近に見える。自販機のカンコーヒーを飲んだところで洞爺湖に向かっていく。国道37号から国道230号に入り、最初のトンネルを抜け、道央道の虻田洞爺湖ICを通り過ぎ、長大な三豊トンネルで洞爺湖カルデラの外輪山を抜けていく。
大きな地図で見る
このルートは2000年の有珠山大爆発以降にできたもの。それ以前の国道230号は外輪山の名無し峠を越えていた。洞爺湖を一望する絶景峠だった。
三豊トンネルを抜け出ると、目の前には洞爺湖が広がっている。湖の中央には中央火口丘の中島が浮かんでいる。湖越しに蝦夷富士の羊蹄山が見える。
県道2号→県道132号→県道578号と、県道を走りつないで洞爺湖を一周。洞爺湖は北海道では数少ない湖岸を一周できる湖だ。洞爺湖温泉の温泉街を走り抜け、壮瞥温泉を通り、北岸からは洞爺湖温泉の温泉街越しに有珠山を見た。
1910年、1944年~45年、1977年~1978年、2000年と、この100年間で4回もの大爆発を繰り返している有珠山は、世界でも最強クラスの活火山。国道230号との分岐点に戻ってくると、もう一度、洞爺湖温泉、壮瞥温泉と通り、県道703号で昭和新山に向かった。
赤っぽい岩肌の昭和新山からは、いまだに噴気の白煙が上がっている。
白煙を上げる昭和新山
昭和新山は1943年から45年にかけ、洞爺湖カルデラの外輪山上に噴出した火山の新参者。平坦な畑がみるみるうちに隆起していく様子は当時の壮瞥郵便局長、三松正夫氏によって克明に記録され、「三松ダイヤグラム」と名づけられたその記録は火山研究の貴重な資料になっている。昭和新山の標高は398メートル。溶岩塔の高さは110メートルもある。
その昭和新山の山麓では毎年、「昭和新山国際雪合戦大会」が開かれ、それが北海道遺産になっている。雪合戦といったら子供の遊びといったイメージだが、それをスポーツに昇華させていった発想がすごいし、いかにも北海道らしい。
第1回大会は1989年に開催され、昨年の第20回大会には155チームが参加した。来年の第22回大会は2月27日(土)と28日(日)の2日間にわたって開催される予定になっている。
「昭和新山国際雪合戦大会」の様子は「カブタンとノンタンの北海道遺産」に詳しく紹介されている。
おもしろいのが、この大会の生まれ方。昭和新山のある壮瞥町の人たちが、国際ルールを考えだし、90個をいっぺんに作れる巨大たこ焼き製造器…、もとい『雪玉製造器』を作ったのが近くの農機具メーカーさん。スノーシェルターづくりの指導をするのが町の大工さん、当日のコートづくりや審判、運営はみんな町の人々で行なわれるのです。
お年寄りの方々は、外は寒くてこたえるけどこれなら!…と、公民館で豚汁の野菜切りをしてくれるそうです。なんだか、涙がでるくらい感動的な町全体のチームワークですよね。
ルールは7人1組。3分1セットの3セットマッチ。雪玉をぶつけ合い、相手人数がいなくなるか、旗をとった方が勝ち。(略)
いつか、オリンピック競技種目に!
そんな大きな目標を掲げた小さな町の挑戦です。
これぞ、北海道遺産!」
県道703号をはさんで、昭和新山と有珠山が並び立っているが、有珠山の山頂駅までは有珠山ロープウエイで登れる。
昭和新山、有珠山という2つの火山を目の底に焼き付けたところで、県道703号→国道453号で伊達へ。伊達の市街地の手前にある伊達温泉に入った。露天風呂の湯につかりながらぼくは有珠山大噴火の思い出にしばしひたった。
1977年の大噴火のときは、妻と生後10ヵ月の赤ん坊を連れて、シベリア横断→ヨーロッパ→サハラ縦断という1年近い旅の最中。8月7日の大噴火の日はポルトガル大西洋岸の小さな町で家を借り、しばらく滞在しているときだった。読めもしないのに、ポルトガルの新聞を買ったのだが、手にした瞬間、もうビックリ!
何と新聞の一面にデカデカと「USU」の大爆発の写真がのっていた。そのときぼくは恥ずかしながら有珠山を知らず、きっと「ASO」の間違いだろうと思い、妻には「阿蘇山が大爆発した!」といった。
2000年3月31日の大爆発の後、8月にはバイクでサハリンを縦断した。東京から青森へ。函館から根室経由で稚内に行き、サハリンに渡ったのだが、その途中、国道37号を走りながら空高く噴煙を上げる有珠山を見た。あまりにも黒煙が空高くまで上がっているので驚かされた。そのときは国道230号は通行止め。有珠山には近づくこともできなかった。
翌2001年6月には北海道を一周した。そのときは、なんとしても有珠山の噴火を見ようと、迂回路をたどり、激しく噴煙を上げる現場近くまで行った。
あまりのすさまじい光景にガタガタ震えてしまったほど。洞爺湖温泉の温泉街は灰まみれ。国道230号は完全に消滅していた。立ち入り禁止のロープの張られたすぐ目の前で、大音響とともに有珠山は爆発を繰り返した。その現場から500メートルと離れていないところに「セーコーマート」があり、普通に店を開けていたので、よけいに爆発のすさまじさが増幅された。
そこが金比羅B火口だった。
昭和新山と有珠山。この洞爺湖カルデラ外輪山の2つの活火山は地球が生きている証のようなものだ。
洞爺湖越しに見る羊蹄山
洞爺湖の湖畔
洞爺湖に浮かぶ中島
昭和新山
昭和新山から見る有珠山
樹林越しに見る昭和新山
洞爺湖北岸から見る有珠山
アイヌ語地名(その1)
北海道の地名の8割以上がアイヌ語に由来!!
地球岬から見る駒ヶ岳
突き出た頭、絵鞆岬
北海道屈指の重工業都市であり港湾都市でもある室蘭には、室蘭港口にかかる白鳥大橋を渡って入った。そして絵鞆岬へ。太平洋と内浦湾(噴火湾)を分けるようにして突き出た絵柄半島の先端に位置している。
絵鞆半島の海岸線は北海道遺産にもなっているアイヌ語地名の宝庫。
絵柄岬の展望台に立つと、内浦湾の海岸線を一望する。活火山の有珠山や昭和新山が見える。さらには対岸の駒ヶ岳もよく見える。
絵柄岬周辺の絵柄は室蘭発祥の地。アイヌ語の「突き出た頭」、つまり岬を意味するエンルムに由来する地名だという。江戸時代初期に開かれてからというもの、明治初期まではこの地方をいいあらわす地名で、「絵鞆に行く」といえば、それは室蘭に行くことだった。
岬に立つ案内板には、次のように書かれている。
絵鞆岬に近いチヤシ遺跡や貝塚からは、縄文早期(約9000年前~6000年前)の出土品が見られるという。
絵柄岬から地球岬にかけての海岸線はすごい。
重工業都市の室蘭がすぐ近くにあるとはとても思えないような断崖絶壁が連続する。
人を寄せつけない険しさで、銀屏風、ハルカラモイ、ローソク岩、マスイチの名所が連続している。
テレビ塔のある測量山の山頂に登ると、展望台からは室蘭港に面した室蘭の市街地を見下ろせる。
絵鞆半島先端の絵鞆岬
絵鞆岬の展望台
絵鞆岬から見る室蘭港口
銀屏風
ハルカラモイ
ローソク岩
マスイチ
測量山から見下ろす室蘭
断崖絶壁、地球岬
チャラツナイの断崖を見、人気の地球岬に立った。
「地球」の名前にひかれてやってくる人たちでにぎわう岬には、その名にふさわしく電話ボックスも水のみ場も地球儀を模している。
「地球広場」と名づけられた展望台の広場の直径は12・8メートルで、地球の100万分の1のスケールだという。そんな地球広場には、モザイク模様の世界地図が描かれている。室蘭がその中心になっている。
「世界の中心は室蘭!」
と、声高にいっているようだ。
その気宇壮大さがたまらない。
地球岬の安山岩が露出した高さ100メートル以上の断崖は目もくらまんばかりで、垂直に、ストンと海に落ち込んでいる。
岬の先端に立つ灯台のあたりは、アイヌ語で「テケウ」(断崖絶壁)と呼ばれていたという。それを「地球岬」にしたところに当て字のうまさを感じる。岬にはその名前にひかれて行ってみたくなるところが多分にあるからだ。もっともアイヌ人にとっては腹の立つ話ではあるが…。
さらに断崖は金屏風、トッカリショへとつづく。
金屏風に立つ案内板には、次のように書かれている。
トッカリショに立つ案内板には次のように書かれている。
神秘的な月明かりの夜、魔の神が日の神の眠っているすきに盗んだ『光の衣』を着て夜空にあらわれたため、2つの月が光り輝いた。アイヌたちは異変が起こったと騒ぎ立てた。それを見て文化の神オイナカムイは魔の神の仕業だと見破り、銀の弓で銀の矢を放ち、魔の神を射落としたので、再び平和を取り戻したというトッカリショにまつわる伝説が伝わっている。
見所満載の絵鞆半島の断崖はイタンキ岬で終る。
チャラツナイ
地球岬
金屏風
トッカリショ
イタンキ岬
イタンキ岬の漁港
うずくまったネズミ、襟裳岬
さらにこのあと、襟裳岬、愛冠岬、霧多布岬と立ち寄って日本本土最東端の納沙布岬まで行ったが、これらの岬はすべてアイヌ語に由来している。
襟裳は「エンモリ」(うずくまっているネズミの形)、愛冠は「アイカプ」(矢の届かない断崖)、霧多布は「キイタップ」、納沙布は「ノッサム」(岬のかたわら)。
北海道の地名の8割以上がアイヌ語に由来するといわれているが、とくに多いのは川や沢を意味するナイ(内)とベツ(別)。「ナイ」は小川、「別」は大川を意味するようだ。ナイとベツの違いでは、アイヌ文化の研究家であり、アイヌ人としては初めて国会議員になった萱野茂氏が興味深いことをいっている。
■宮本常一の本
襟裳岬
「襟裳岬」の歌碑
襟裳岬の灯台
愛冠岬
霧多布岬
霧多布岬の断崖
霧多布岬の灯台
霧多布岬の夕日
納沙布岬
納沙布岬の灯台
納沙布岬から見るゴヨウマイ海峡
納沙布岬から見る北方領土の島々
アイヌ語地名(その2)
イナウと稲穂と北の稲作
国道5号の稲穂峠
北海道遺産の「アイヌ語地名」ということで、国道5号の稲穂峠を越えた。余市と倶知安の間の峠。「稲穂」はアイヌ語の「イナウ」(木の御幣)からきている。稲穂峠はほかにも木古内から上ノ国への道道5号、国縫から北檜山への国道230号にもある。また奥尻島の最北端の岬が稲穂岬。そこは聖地。「賽の河原園地」があり、積み重ねられた石塔が霊山的な雰囲気をかもし出している。
「イナウ」は木の御幣といったが、たとえばこのような使い方をする。
山猟から帰った夫は驚いて、急いで【イナウ】をつくり、アペ・フチ・カムイ(火の・おばあちゃんの・神様)に祈った。どうか妻を許してください。
おかげで、女は元通り起き上がることができた。
朝夕の煮炊きのためにイロリにくべる薪は、アペ・フチ・カムイの食物。その大事なものを女は差し上げなかった。それで罰をあたえられたのさ。
旭川のアイヌ記念館のイナウ
そんな「イナウ」に「稲穂」の字を当てるところに、北海道人の稲に対する熱い想いが読み取れる。
石狩平野の水田地帯
北海道では亜熱帯作物の稲を道南から道北へと、どんどんと栽培エリアを拡大させ、亜寒帯でまで、稲をつくっている。そんな北海道での稲作を見たくって、20余年ほど前、列車で函館から稚内まで行った。
札幌行きの「北斗3号」は函館の市街地を抜け出ると、広々とした草原を走る。木の柵で囲まれた牧場で馬が草を食む風景は、いかにも北海道らしいものだった。それとともに、金色に染まった稲田の風景も見たが、それは北海道が日本であることをあらためて感じさせてくれた。
函館平野(大野平野)は北海道の稲作発祥の地。旧大野町の文月で元禄年間(1688年~1704年)に水稲栽培がおこなわれた記録が残っている。しかし北海道で稲作が本格的におこなわれるようになるのは明治になってからのこと。稲作地帯は短期間に石狩、空知、上川と北に延びていく。
「函館→稚内」の車窓から、日本人がどこまで米をつくっているのか、それを見極めようと心に決めて北海道に乗り込んできたのだ。
列車はスギやカラマツの植林されている山地にさしかかり、峠のトンネルを抜け出ると、車窓にはすばらしい風景が展開される。真っ青な湖の向こうに火山が聳えてる。駒ヶ岳だ。湖は抜けるような青空を映し、湖面の青さが増幅されていた。
8時44分、森着。森を過ぎると、列車は内浦湾に沿って走る。右側の車窓からは海が見え、海沿いには漁村が点在している。浜はどこもコンブ漁でにぎわいをみせ、誰もが忙しげにコンブを干している。左側の車窓からは牧場が見えている。サイロが見える。肉牛、乳牛、馬と家畜の種類が多彩だ。
9時31分、長万部着。ここは函館本線と室蘭本線の分岐駅。「北斗3号」は室蘭本線経由で札幌に向かう。
長万部を過ぎると、海岸には地を這うほどの、背の低いカシワやマツの木が、強い潮風に吹かれて揺れている。やがて前方には大山塊が迫ってくる。列車はトンネルに突入。全長2726メートルの礼文華トンネル。抜け出たあともトンネルが連続した。大山塊が内浦湾に落ち込むこのあたりは、北海道版の親不知、子不知といったところだ。
10時01分、洞爺着。左手には爆発の跡も生々しい有珠山が見える。吹き飛んだ山頂周辺に草木はまったく見られず、焼けただれた山肌がむき出しになっている。
列車が長流川にかかる鉄橋にさしかかると、有珠山の裾野越しには昭和新山が見えてくる。豊満な乳房のような盛り上りを見せる昭和新山。鉄橋を渡ると、広々とした稲田の中を走る。その向こうに見える有珠山、昭和新山という大小2つの活火山は異形を呈していた。
10時31分、東室蘭着。室蘭は製鉄の町。新日本製鉄の室蘭製鉄所を間近に見る。東室蘭→札幌→旭川間は北海道鉄道網の中心で、電化区間となり、特急「ライラック」が1日に何本も走っている。
11時14分、苫小牧着。苫小牧は製紙の町。ここには王子製紙の工場がある。
苫小牧を過ぎると、海岸から内陸に入っていく。車窓には勇払平野が広がる。「原野」がぴったりするような勇払平野。アフリカのサバンナ地帯を連想させる乾いた草原の中に、灌木が点在している。
空港のある千歳あたりが太平洋側の勇払平野と、日本海側の石狩平野の分水界になっているが、どのあたりがそうなのかわからないまま、列車は石狩平野に入っていった。それとともに原野は豊かな農地に変り、大型のハーベスターがジャガイモを収穫していた。
こうして特急「北斗3号」は札幌の市街地に入り、12時05分、札幌駅に到着。駅周辺の北海道庁旧本庁舎や時計台を見てまわり、大通り公園、中島公園を歩き、ひと晩、札幌に泊まった。
翌朝、7時00分発の網走行き特急「オホーツク」に乗り込み、旭川に向かう。車内はほぼ満員。サラリーマン然とした乗客が多い。札幌から旭川への出張といった感じだ。豊平川の鉄橋を渡り、札幌の市街地を抜け、列車は石狩平野を走る。
トウモロコシ畑やジャガイモ、タマネギ、ダイズの畑が見える。牧草地も見える。だがそれら畑作地や牧草地よりも、一面に黄金色に染まった稲田の方が、はるかに広い面積を占めている。また、1枚の稲田は内地とは比べものにならないくらいに広い。
石狩平野で稲作が本格的にはじまったのは、明治28年に北海道庁が稲作試験場を設けてからのことだという。「坊主」という優れた耐寒品種が生まれ、内地とは違う直播の稲作技術が発達した。いかにも大規模農業の北海道らしい話だ。
明治30年には北海道拓殖銀行が設立され、農民に資金を貸し出すようになってからというもの、泥炭地の土地改良ができるようになった。そのため低地で水の得やすいところはことごとく水田化され、石狩平野は北海道の大穀倉地帯になった。
7時32分、岩見沢着。岩見沢を過ぎると、右手には夕張山地へとつづくなだらかな山々が見えてくる。美唄、砂川と通る。炭鉱の相次ぐ閉山で、これらの町々は活気をなくし、駅舎にも寂しげな影が漂っている。雑草のはえた構内の線路がもの悲しい。
8時04分、滝川着。ここは根室本線との分岐駅。滝川を出るとまもなく石狩川を渡る。石狩平野につづいての空知平野は、車窓から見る限りでは、新潟平野や富山平野のように稲作一辺倒。広大な水田地帯がつづく。
8時22分、深川着。ここは留萌本線との分岐駅。深川を過ぎると石狩川の両側には山々が迫り、川岸には安山岩の奇岩、巨岩が次々に現れる。神居古タンだ。列車はトンネルを抜け出ると、上川盆地に入っていった。
8時45分、旭川着。ここは石北本線と宗谷本線の分岐駅。特急「オホーツク」の乗客の大半は旭川で降りたが、列車はさらに網走まで行く。
ここで8時52分発の急行「礼文」に乗り換える。「旭川→稚内」間には「礼文」、「天北」、「宗谷」、「利尻」と、1日4本の急行が走っているが、特急はない。
2両編成の急行「礼文」は定刻通りに旭川駅を発車し、上川盆地を走る。
石狩平野、空知平野と同じような稲作地帯の上川盆地だが、
「これが平野と盆地の違いかな」
と思わせたのは、1枚1枚の稲田が狭くなったこと。
上川盆地で稲作が本格化したのは、石狩平野よりも10年あまり遅れた明治30年代後半のこと。冬は気温が氷点下20度以下に下がる酷寒の地だが、夏は気温が30度を超える盆地特有の気候が稲作を可能にした。
列車は上川盆地の北端にさしかかり、ジーゼルのうなりを上げながら、塩狩峠を登っていく。目をこらして稲田をみつづける。峠下の最後の稲田が消えたとき、
「あー、これで日本の稲作地帯が終った!」
と、思った。
塩狩峠に近づくにつれて、山々を覆う樹木は広葉樹から針葉樹に変り、葉の緑の濃いトドマツとそれよりは緑の薄いエゾマツが目だってくる。石狩川と天塩川という北海道の2大河川の分水嶺になっている塩狩峠には塩狩駅があり、駅前には温泉宿があった。
列車は峠を下る。天塩川流域の名寄盆地まで下って驚かされたのは、上川盆地で消えたとばかり思っていた稲田がまた車窓に現れてきたことだ。その驚きは、日本の稲作の北限が「ここまで延びてきているのか!」という感動でもあった。
9時28分、士別着。まだ稲田が見える。
10時01分、名寄着。まだ稲田が見える。
列車は名寄を出ると、天塩川の右岸を走るようになる。蛇行を繰り返す天塩川。名寄盆地はその幅をぐっとせばめ、やがて列車は谷間に入る。そこで稲田は消えた。
10時22分、美深着。消えたとばかり思った稲田が、なんとまた、姿を現したのだ。いったい日本人は、どこまで北で稲をつくっているのか。しかし、さすがにこのあたりまで来ると、稲田があるとはいっても、ダイズやトウモロコシ、ジャガイモなどの畑や牧草地の方がはるかに広い面積を占めている。
美深を出て2つ目の駅、紋穂内駅の手前で稲田を見た。それが車窓から見た最後の稲田になった。紋穂内は地図で見ると、北緯44度30分前後であろうか。
稲田が見えなくなると、車窓を流れていく風景は急速に荒涼感を増してくる。
それとともに何ともいえない寂しさを感じた。疎外感とでもいおうか、別な世界に1人、放り出されたような寂しさだった。
この寂しさはどこから来るのか…。
稲田を見慣れ、米を食べつづけてきた日本人としての血が、そう感じさせるのか。
10時57分、音威子府着。音威子府を過ぎると、天塩川の両岸には牧場がつづく。乳牛の牧場が主だが、羊の牧場も見える。列車が北上するにつれて牧場の規模は大きくなり、より機械化されてくる。大型機械で刈り取られた牧草が、ロール状に巻かれている。そんな干草を満載にしたトラックが走り去っていく。
12時03分、幌延着。このあたりまで来ると、車窓に広がる風景は日本離れした雄大なものになり、地平線が見える。列車はサロベツ原野の東端を走っている。日本海からの北西の強風が吹きつけるからなのだろう、線路沿いの樹木は南東に向かっておじぎするように傾いている。
平原地帯から丘陵地帯に入っていく。丘陵の斜面はクマザサで覆いつくされている。クマザサの風に哭く音が聞こえてくるようだった。
日本海が見えてきた。
列車は海岸段丘の上を走っているので、長く延びる海岸線を見下ろした。日本海の向こうに礼文島と利尻島が見える。利尻島の利尻富士が抜けるような青空に、つんと尖った山頂を向けている。
すばらしい眺めを乗客に見てもらおうというはからいなのだろう、列車はスピードを落とし、「正面に見えるのが利尻富士です」の車内アナウンスがあった。
こうして13時05分、急行「礼文」は終着の稚内駅に到着した。
アイヌ口承文芸
知里幸恵が残した『アイヌ神謡集』
阿寒湖畔のアイヌコタン。梟の神が見える
登別の海を見下ろす高台の上には登別墓地。その一角に知里幸恵の墓と金成マツの碑が並んで建っている。入口には2人を紹介する案内板。そこには次のように書かれている。
知里幸恵(ちり ゆきえ)1903年(明治36年)~1922年(大正11年)
知里幸恵は当時の登別村に生まれ、7歳のころ旭川に移り、伯母の金成マツ、祖母のモナシノウクとともに暮らした。15歳のとき、言語学者の金田一京助と出会い、アイヌ文学(アイヌ口承文芸)の文字記述という画期的な仕事を手がけることになりました。18歳で上京し、金田一氏のもとで『アイヌ神謡集』の校正を終えた直後の、1922年(大正11年)9月18日、持病の心臓発作のため帰らぬ人となりました。当初は東京・雑司ヶ谷の金田一家の墓所に埋葬されていましたが、1975年(昭和50年)に祖先の眠る故郷のこの地に改葬されました。またアイヌ文化研究の基礎を確立した言語学者、弟の知里真志保は札幌の藻岩霊園に眠っています。
金成マツ(かんなり まつ)1875年(明治8年)~1961年(昭和36年)
知里幸恵・真志保の伯母、金成マツは当時の幌別村に生まれました。18歳のとき、函館のイギリス聖公会アイヌスクールに学び、平取の教会、旭川・近文の教会で布教活動をつづけました。また、同居の母親モナシノウクはアイヌの偉大な叙事詩人といわれた語り人で、マツにもアイヌ物語文学(アイヌ口承文芸)は充分に継承されることになりました。知里幸恵の没後、その意思を継ぎ、晩年には故郷の登別に住み、ユーカラのローマ字筆記を始めました。その一部は『アイヌ叙事詩ユーカラ集』として発刊されています。1956年(昭和31年)には無形文化財に指定され、紫綬褒章を受賞。翌年、登別町(現登別市)功労賞を受けました。1961年(昭和36年)4月6日、81歳でこの世を去りました。
「北海道遺産めぐり」の「北海道一周」を終えて帰宅してからのことになるが、さっそく知里幸恵の『アイヌ神謡集』(岩波文庫版)を読んだ。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら流に沿って下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が今の貧乏人になっているようです。
という梟の神の自ら歌った謡「銀の滴降る降るまわりに」で始まる『アイヌ神謡集』には全部で13編の神謡が収められている。
『アイヌ神謡集』の冒頭には「その昔この広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。」で始まる知里幸恵の序文があり、あとがきでは金田一京助が「知里幸恵さんのこと」と題して、19歳という若さで亡くなった彼女を絶賛している。巻末には弟の知里真志保が「神謡について」を書いている。
知里幸恵と金成マツの説明板
知里真志保の碑
岩波文庫版の『アイヌ神謡集』
『アイヌ神謡集」の「銀の滴降る降るまわりに」
『アイヌ神謡集』はアイヌ文化研究の貴重な1冊になっている。
「カブタンとノンタンの北海道遺産」には、知里幸恵さんのことも紹介されている。旭川の北門中学校の校庭には「知里幸恵文学碑」が建ち、それには「銀の滴降る降るまわりに」が彫られているという。また、旭川市立博物館には知里幸恵に関する展示コーナーがあるという。
登別の国道36号からわずかに入ったところには、知里幸恵の弟、知里真志保の碑が建っている。そこの案内板には次のように書かれている。
日高の二風谷はアイヌ人が8割近くを占め、北海道でのアイヌ文化の中心的な存在になっているが、そこには国道237号をはさんで東側には「萱野茂二風谷アイヌ資料館」、西側には「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」がある。
「萱野茂二風谷アイヌ資料館」には前館長だった故萱野茂氏がアイヌ民族の民話(ウウェペケレ)や叙事詩(ユーカラ)などを古老から聞き、それを録音し、それらの音声資料をもとにした音声付の『萱野茂のアイヌ神話集成』(全10巻)を館内で聞くことができる。「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」の館内にはユーカラの語りが流れていた。
萱野茂二風谷アイヌ資料館
平取町立二風谷アイヌ文化博物館
アイヌ文化研究家の萱野茂さんは二風谷の生まれ。民俗学者宮本常一先生が所長をされていた日本観光文化研究所発行の月刊誌『あるく みる きく』には以前、「アイヌの口承文芸」について、「アイヌの伝承」と題して、わかりやすく伝えてくれた。
そういういろいろな伝承を通じて、アイヌは子孫にアイヌ語とアイヌの歴史や精神を伝えようとしたけど、特にそのなかで日常的なアイヌ語を教える働きをしたのはウウェペケレだね。ウウェペケレは簡単にいえば昔話ということだけど、本来の意味はウ(互いに)ウェ(それ)ペケレ(明るい)、つまり、(それによって互いに明るくなる、それによってものを覚える)で、ただ単に昔を回想する昔話ではなくて、これから生きて行く上でのいろいろな知恵が教えられているものなんだ。しかもそれが日常生活で使っているアイヌ語で語られるから、子どもたちはそれで自然にアイヌ語をおぼえていった。人間同士がお互いを大切にし合うこと、自然を愛すること、生きものをむやみに殺してはいけないこと。そういう自然や人間とのつながりのあり方を教えるもので、ウウェペケレをたくさん知っているいいおじいさん、いいおばあさんといっしょにいる少年少女は、いい家庭教師、第一級の家庭教師といるのと同じなんだ。アイヌのいい精神文化は、そのなかで伝えられた。
ユーカラというのは、本来はユカラ(真似る)という意味。そしてカムイ・ユカラは神様が自ら語る神様たちの物語。メノコ・ユーカラは、女の人が語る神様たちの物語。ただのユーカラというのは、男たちが語る神様や英雄の物語。いずれも古いアイヌ語で語り、雄弁なアイヌになる訓練にもなった。
ウパクマシは、先祖の名前や生活上必要なものの所在(穴熊はどこにいるとか、トリカブトはどこに生えているとか)を忘れないための言い伝え。言葉による記録なんだ。
このような「アイヌ口承文芸」は北海道遺産になっている。
登別温泉地獄谷
地獄のあとに忘れられない天国が
日和山の展望台から見下ろす大湯沼
登別駅前から道道2号で登別温泉へ。温泉街を走り抜けたところに北海道遺産の「登別温泉地獄谷」がある。ここは登別温泉の湯元で、笠山の噴火口跡。大地獄、竜巻地獄、虎地獄、大砲地獄、釜地獄、奥地獄、鉄砲地獄がある。ここは北海道でも有数の紅葉の名所。まさにその盛りで、「北海道新聞」の記者が取材で訪れていた。
地獄谷からさらに登ると、日和山の展望台に出る。そこからは大湯沼を見下ろす。周囲1キロほどの湯沼で表面の湯温は4、50度。深いところでは100度を超えるという。 この大湯沼からは白濁色した湯川が流れ出ている。
登別の地名はアイヌ語の「ヌプルベツ」から来ているとのことだが、「色の濃い川」、「濁れる川」の意味で、この湯川が登別の由来になっている。
日和山の展望台からひと山越えるとクッタラ湖。北海道ならではの秘湖だ。
登別温泉の地獄谷にやってきた!
ここが地獄谷
地獄谷の紅葉
クッタラ湖
北海道では「地獄」といえば、登別温泉の地獄谷だが、日本の「三大地獄」といえば、恐山(青森)、河原毛(秋田)、立山(富山)の地獄になる。これらの日本の「三大地獄」は「日本三大霊地」にもなっている。
恐山には無間地獄などの「八大地獄」がある。河原毛地獄には血ノ池地獄などの地獄がある。立山の地獄谷には、鍛冶屋地獄、紺屋地獄、大安地獄、百姓地獄がある。
登別の地獄谷が登別温泉の湯元になっているように、日本の「三大地獄」も、すべて温泉とからんでいる。
恐山の境内には恐山温泉の「古滝の湯」、「冷抜の湯」、「薬師の湯」、「花染の湯」と、4湯の湯屋がある。地獄めぐりをしたあと、これら4湯の湯屋をめぐったが、女湯の「古滝の湯」以外の3湯には入れた。「花染の湯」は混浴。この湯が一番いいといって、わざわざ入りにくる女性もいる。まさに地獄のあとの天国だ。
恐山地獄
恐山温泉「花染の湯」
河原毛には河原毛地獄から湯川が流れ出ていて、それが高さ20メートルほどの河原毛大湯滝になっている。滝壷が絶好の露天風呂。それもジャスト適温の湯だ。湯滝に打たれ、湯につかり、湯三昧していると、「温泉天国」を心底、実感できる。
立山の地獄谷には地獄谷温泉がある。そのすぐ上のみくりが池温泉とともに、日本最高所の温泉になっている。
河原毛地獄
河原毛地獄
河原毛大湯滝
河原毛地獄から流れ出る湯川
東北屈指の名湯、後生掛温泉の地獄めぐりは忘れられない。
わずか1キロほどの範囲に沸騰泉や吹上泉、湯沼、噴気孔、泥壷(マッドポット)、泥火山と様々な火山特有の自然が見られる。これだけ揃っているような場所は日本中を探してもほかにはない。遊歩道は全長が2キロほどで40分ほどで歩ける。高低差はほとんどないので楽に歩ける。歩き始めるとすぐに沸騰泉の「オナメ・モトメ」を見るが、ここが「後生掛伝説」の地。紺屋地獄、小坊主地獄と通っていくが、ともに吹き出る湯は94度の超高温湯。そして大湯沼に出るが、山裾の沼からはもうもうと湯気が立ち上っている。湯温は83度もある。中坊主地獄を過ぎたところには有名な後生掛の泥火山がある。もともとは湯沼だったところで、天然蒸気によって噴きとばされた湯沼の沈殿物が堆積し、その厚さは8メートル以上にもなっている。日本一の泥火山なのだ。最後に遊歩道沿いの茶屋で半熟の黒たまごを食べたが、噴気でゆでた黒たまごはまさに後生掛の味だった。
後生掛温泉の小坊主地獄
後生掛温泉の中坊主地獄
日本最大の温泉地、別府温泉の地獄めぐりはすごい。
血のように真っ赤な血ノ池地獄、噴気が竜のような金竜地獄、熱湯で白濁した白池地獄、コバルトブルーの海地獄、温泉でワニを飼育する鬼山地獄、間歇泉の龍巻地獄…と、ド迫力の地獄が連続する。
信州の地獄谷温泉は山間の一軒宿。ぼくが行ったときは露天風呂は熱くて入れず、内風呂の檜風呂もまるで熱湯。檜風呂に水をザーザー流し込んだが、なんと水圧で蛇口が湯の中に落ちてしまった。それを拾い上げようとして腕を火傷した。地獄谷温泉では熱湯地獄を体験した。
九州の地獄温泉では混浴露天風呂「すずめの湯」に、愛しのA子さんと一緒に入った。ここは灰色っぽい湯なので、女性の入浴客も多い。温めの湯なので長湯できるのをいいことに、露天風呂の消灯時間までA子さんと寄り添うようにして湯につかった。我が人生最高の天国気分を味わったのだ。
このように「地獄めぐり」というはいつまでも心に残るもの。
「きっと、それだから、登別温泉の地獄谷が北海道遺産に指定されたんだろうなあ」
ジンギスカン
その気にさせる定番メニュー
北見のジンギスカン
独特の兜のような形をした鉄鍋で、羊肉と野菜類を焼いて食べるジンギスカンは、これぞ北海道といったボリューム満点の料理だ。食べ方にしても、チマチマと焼くのではなく、ドサッと羊肉や野菜類を入れ、豪快に焼く。モンゴルの英雄チンギスハーンを彷彿とさせるいかにも大陸的な羊料理なのである。
ところで、この兜形の鉄鍋で羊肉を焼いて食べる料理がどうしてジンギスカンと呼ばれるようになったのかは、諸説があって定かではない。だが、日本人が名づけたことだけは間違いない。
このジンギスカンが北海道遺産になっている。全道にまたがるテーマの北海道遺産なのである。
ぼくはいままでに何度か「北海道一周」をしたことがあるといったが、その回り方は決まっている。函館を出発点にし、反時計回りでの一周。これは別に理由があるわけではなく、いつもそうしているので、反時計回りでの一周は心が落ち着くのだ。
で、北海道に渡ると、猛烈に食べたくなるのが「ジンギスカン」。ジンギスカンを食べないことには心が落ち着かない。何か、ソワソワしてしまうのだ。
以前は函館を国道5号で出ると、長万部を過ぎ、国道37号で礼文華峠を越えた大岸に、屋根に大きく「ジンギスカン」と書いた食堂があった。そこでボリューム満点のジンギスカンを食べ、北海道を実感し、「また、北海道に戻って来たぞ!」と、心の中で叫ぶのを常としていた。ところがその食堂がなくなってからというもの、どうも調子が狂ってしまう。なかなか、「北海道に戻ってきたぞ!」と叫べなくなってしまったのだ。
今回も函館を出発し、反時計回りでの「北海道一周」をスタートさせたが、長万部でも食べられず、室蘭でも食べられず、登別まで来てしまった。
そしてついに神秘的な湖、クッタラ湖畔のレストランで「ジンギスカン丼」を食べた。これは登別で新しく開発されたメニューらしいのだが、ジンギスカンはジンギスカン。おいしくいただいたところで、クッタラ湖に向かって、「北海道に戻って来たぞ!」と叫んでやった。
登別の「ジンギスカン丼」
札幌では郊外の羊ヶ丘展望台に行った。ここはかつての月寒布牧場。日本の緬羊飼育発祥の地。その意味では日本のジンギスカン発祥の地といってもいい。修学旅行生が記念撮影するポイントのクラーク博士の銅像前から札幌の町並みを遠望したあと、レストランで本場のジンギスカンを賞味する。十分に熱した鉄鍋の上でジューッと音をたてて焼いた羊肉を食べる。たまらん。北海道の澄み切った空気が味をいっそうひきたててくれる。
羊ヶ丘のジンギスカン
滝川では「松尾ジンギスカン」の本店で食べた。
札幌で食べたジンギスカンは「後付けジンギスカン」とでもいおうか、生の羊肉を焼き、それに特製のタレをつけて食べる。ところが滝川のは「味つきジンギスカン」でタレにひたして味のついた羊肉を焼く。
「カブタンとノンタンの北海道遺産」には、これでもか、これでもかといわんばかりに、各地でのジンギスカンが登場するが、そこではカブタンのジンギスカンへの熱い想いが語られている。その【ウンチク】がすごくいい。そこで教えられたのは、兜形をしたジンギスカン鍋には穴ナシと穴アリの2種類あるということだった。穴ナシは「味付けジンギスカン」用、穴アリは「後付けジンギスカン」用ということのようだ。
滝川の「松尾ジンギスカン本店」のジンギスカン
滝川のジンギスカン鍋
日高の三石ではみついし昆布温泉の湯に入り、湯から上がるとレストランで目の前の太平洋を眺めながら「ジンギスカン定食」を食べた。北見では何としてもジンギスカンを食べたくって、町中を探しまわり、ついに「じんぎすかん屋モンゴル」という店を見つけ、ジンギスカンを食べながら生ビールをグイグイ飲んだ。羊蹄山を間近に眺める京極では、「ふきだし湧水」のまん前にある「ふきだし荘」で「成吉思汗定食」を食べた。
宗谷岬の民宿「宗谷岬」の夕食にはラムの焼肉が出た。抜群のうまさ。
「おー、これが北海道!」
と、感動した。
札幌・すすきのの焼肉店「しまだ」でもラムの焼肉を食べた。
三石のジンギスカン
北見のジンギスカン
京極のジンギスカン
宗谷岬のラムの焼肉
札幌のラムの焼肉
以前、バイク誌の取材で羊肉料理を食べに北海道まで行ったことがある。そのときの記事を紹介しよう。
目指すのは郊外の丘陵地帯にある「羊と雲の丘」。そこで北海道ならではの羊肉料理を食べるために北海道にやってきたのだ。
士別の市街地を遠望する「羊と雲の丘」は、その名のとおりのきれいな牧場で、100頭あまりの羊が飼育されている。
牧場の一角には「世界のめん羊館」がある。
ここはまさに生きた羊の博物館。フランスのシャロレーやイギリスのラッフェル、スペインのメリノ、ロシアのカラクール、オーストラリアのコリデールなど、世界の30種以上もの生きた羊を見ることができる。
「えー、羊って、こんなにもたくさんの種類があるのか…」
という驚きでもって見てまわった。
「羊と雲の丘」の中心にあるのが物産館&レストランの「羊飼いの家」。
物産館では「ラム肉ジンギスカン1キロ・プラス3色餅セット」がパッと目についた。ラム肉はもちろんのこと、いも餅、かぼちゃ餅、よもぎ餅の3色餅も士別特産なのだという。
物産館を見たあと、いよいよレストランで羊肉料理を食べる。
ここでは「カソリの鉄の胃袋」を思う存分に発揮し、「生ラムのフライパン焼き」、「ラムのリブステーキ」、「羊飼いのカレーライス」と、羊肉料理の3品を食べた。
「フライパン焼き」はフライパンでジューッと焼き上げた熱々のラム肉をタレにつけて食べるのだが、フーフーいいながらいくらでも食べられる。
ラム肉というと、日本人はすぐに「くさみ」を連想するが、それがまったくないのだ。さっぱり系のタレもラム肉によく合っていた。ラム肉と一緒にジャガイモ、ニンジン、ブロッコリが入っているが、ジャガイモのうまさが際立っていた。
「リブステーキ」は骨つき肉で、しっかりとした歯ごたえがある。これを食べていると、無性に「オーストラリア2周」(1996年)が思い出されてくる。ラム肉の本場、オーストラリアでは大皿からはみ出るようなラムステーキを何度となく食べたからだ。
ラム肉の「カレーラース」を食べていると、「インド横断」(1990年)がなつかしく思い出される。
カレーの本場インドでは、ヒンズー教徒はビーフを、イスラム教徒はポークを食べないので、食堂のカレーの肉といえばマトン(ラム)かチキン。
ぼくは「マトン・マサラ(カレー)」が好きで、毎日のように食べていた。
明治初期、札幌郊外の月寒牧場ではじめて羊が飼育されて以来、北海道では各地で羊が飼育されるようになった。
それにともなって、羊肉料理は日本で唯一、北海道で根づいた。
食文化というのはきわめて保守的で(それがまた食文化のおもしろさでもあるが)、なかなか新しいものは定着しない。羊肉料理はまさにその典型といっていい。
それが北海道に根づいた一番の理由は、北海道が「日本の新大陸」だからだと、ぼくはそう考えている。
番外編 シルクロードで食べた羊肉料理
ジンギスカンはやっぱり北海道料理!
全回は「ジンギスカン」の冒頭で、「いかにも大陸的な羊肉料理」と書いたが、実際には大陸のどこを探しても、ジンギスカン鍋はないし、ジンギスカンに類似した料理はない。「ジンギスカン」というくらいだから、モンゴルの英雄チンイスハーンを連想するが、1997年に「モンゴル一周3000キロ」を走ったときも、「ジンギスカン」は食べていない。ということで、中国の羊肉の焼肉料理などの影響はあるかもしれないが、ジンギスカンは日本生まれの日本料理、つまりは北海道生まれの北海道料理ということになる。「ジンギスカン」が家庭まで普及したのは戦後のこと。滝川の「道立種羊場」が中心になって、戦後の食料難と衣料不足を解決するため、農家の緬羊飼育を奨励したのがきっかけだという。鉄鍋やタレも種羊場の職員が工夫を重ねて開発した。その結果、「これはうまい!」ということで、たちまち農家にジンギスカン鍋が流行し、道内の緬羊頭数が激減したほどだという。
ということで、ジンギスカンは大陸的でなく、いかにも北海道的であることがわかってもらえると思う。では、大陸ではどのようにして羊肉を食べているかを見てもらおう。
2006年にシルクロードを横断した。その起点となる中国の西安から西に向かっていくと、最初のうちは肉といえば牛肉、豚肉が主だが、やがてイスラム教徒が多い地域になると彼らは豚肉を食べないので、肉といえば羊肉になってくる。
中国西部の新疆ウイグル自治区の肉料理はイコール羊肉料理といっていいほど。もっとも大盤鶏という人気の鶏料理もあるが。

敦煌のシシカバブー
国境を越えてキルギスやカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの中央アジアも同様だ。これらの国々では牛肉もけっこう食べられてはいるが。
さらにイラン、トルコも肉といえば羊肉。羊肉料理が発達している。
シルクロードで一番よく食べられる羊肉料理といえば羊肉を串刺しにして焼いたシシカバブー。ミンチにした羊肉を焼いたドナカバブーもある。中国西部から中央アジアの国々、西アジアのイラン、トルコではピラフがよく食べられるが、それに入っているのは羊肉。羊肉のスープも飲まれる。羊肉はジンギスカンと同じように焼き肉にして食べることが多いが、煮て食べることもある。
今年はチベットを横断したが、チベットにもイスラム教徒が多く入り込んでいるので、けっこう羊肉は食べられる。
「シルクロード横断」&「チベット横断」で食べ歩いた羊肉料理を見てもらおう。
中国・新疆ウイグル自治区
ニヤの羊肉店。店先で羊をさばく
ホータンの羊肉入りピラフ
カルグリックの食堂。店先で羊肉入りピラフをつくる
カシュガルのシシカバブーの露店
ヤルカンドの羊肉入りピラフ
ヤルカンドのシシカバブー
カシュガルの羊肉入りスープ
カシュガルの肉屋。肉は羊肉のみ
キルギス
キルギスのシシカバブー
ウズベキスタン
ウズベキスタンの食堂。店先でドナカバブーを焼いている
イラン
イランの食事はライス&カバブー(チェロウカバブー)
トルコ
トルコの羊肉料理
トルコのドナーカバブー
チベット
チベットの羊肉入りスープ
チベットの羊の煮肉
チベットのシシカバブー
チベットのシシカバブー
アイヌ文様
アイヌ文化を知るなら「ポロトコタン」
ポロトコタンの「アイヌ民族博物館」
登別から国道36号で白老に行き、「ポロトコタン」へ。
「ポロトコタン」とはアイヌ語で「大きな湖の集落」の意味。その名前通りのポロト湖があり、湖畔には黒湯のポロト温泉もある。
「ポロトコタン」に入っていく。
アイヌ文様の衣装などが売られているショッピング街を抜け、「アイヌ文化博物館」(入館料700円)を見学する。入口には高さ16メートルのコタンコルクル(村長むらおさ)像。右手には「イナウ(木の御幣)」を持っている。
園内にはアイヌの家(チセ)が5棟あり、そこではアイヌの伝統芸能や伝統工芸の実演を見られる。アイヌの代表的な伝統工芸といえばアットゥシ織だ。オヒョウの樹皮から繊維をとり、北海道遺産にもなっているアイヌ文様を施して着物などに仕立て上げていく。白老のポロトコタンを見学したのは午後の2時ごろ。かわいそうなくらいにガラーンとし、人影もまばらだった。
ぼくが初めて白老の「ポロトコタン」を見たのは1978年の我が「30代編日本一周」のときのこと。そのときはすごかった。駐車場にはズラーッと観光バスが並び、大勢の観光客たちがゾロゾロと「ポロトコタン」に入っていった。
みやげもの店が軒を連ねる建物に一歩入ると、
「ちょっと、のぞいていきなさいよ」とか、
「そこのオートバイのお兄さん、寄っていってちょうだい」
といった声を盛んにかけられた。
みやげもの店のおばちゃんたちの声を振り切り、入館料の200円を払って「ポロトコタン民俗資料館」(今の「アイヌ文化博物館」)を見学。アイヌの家(チセ)ではアイヌ文様の民族衣装を着た古老の話を聞けたし、イヨマンテ(熊祭)の歌や踊りを見聞きすることができた。アイヌ特有の口にふくんで奏でる楽器、ムックリのピヨーン、ピヨーンという音色がいつまでも耳に残った。
観光色の強い「ポロトコタン」ではあったが、ぼくの心には強い印象となって残った。そんなこともあって、その後も何度か、「ポロトコタン」には行った。それが…、行くたびに入場者数が減っている。アイヌ文化を知るのには、すごくいいアイヌコタンだと思うのだが…。
さて、北海道遺産のアイヌ文様だが、白老の「ポロトコタン」のあとは、二風谷の「萱野茂二風谷アイヌ資料館」や「平取町立二風アイヌ文化博物館」、旭川・近文の「川村カ子ト(かわむらかねと)アイヌ記念館」などで見ることができた。
二風谷の「萱野茂二風谷アイヌ文化資料館」
「萱野茂二風谷アイヌ文化資料館」のアイヌ文様
旭川・近文の「川村カ子トアイヌ資料館」
「川村カ子トアイヌ資料館」の壁画のアイヌ文様
「カブタンとノンタンの北海道遺産」では次ぎのようにアイヌ文様が紹介されている。
全身アイヌ文様のカブタン、結構、かわいいかも~♪
アイヌ文様の特徴的なのは、渦巻き模様(モレウ)と括弧型模様だそうです。
渦巻き模様は川の流れとか、風とか、木々の様子から生まれたとも言われています。
なるほどー!
括弧型模様はとげとげの模様で、魔よけの意味もあるとか…。だからとげとげ模様は衣服の袖口とか裾とかに施されて、悪霊が入らないように守っていると聞いたことがあります。
母から娘へと伝えられるアイヌ文様の刺繍って、一針一針、心をこめて、縫われていくのですねー。
このようなカブタンのコメントとともに、旭川市博物館所蔵のアイヌ文様の写真が何枚か掲載されている。
「アイヌの口承文芸」の項でもふれた日本観光文化研究所発行の『あるくみるきく』(1973年10月号)には、アイヌ文化研究家の萱野茂さんは「アイヌ文様」について次のように書かれている。
アツシ(オヒョウの木の皮の繊維でつくった着物)の模様は、もともとは衿まわり、袖まわり、裾まわりにつけた。なぜそんなところにつけたのか、たぶんそういうところから魔物が体に入って来ないようにしたのだろう。おれたちの子どものころ、山の畑に草とりに行ったとき、畔に赤ちゃんを寝かせて置くんだけど、その赤ちゃんのまわりに、荷物を背負う縄でぐるりと囲っておくんだ。そうすると蛇が来ても、どんな魔物が来ても、その縄を越えないもんだとアイヌは信じていたんだな。
アイヌの縄は、シナの木の皮などで編んだものなんだけど、縄というものをアイヌが、といより人類が発明したということは、大へんな発明だったと思うね。アツシを織る糸も、オヒョウの木の皮の繊維を縒ってつくるんだけど、この縒るということも大へんな発見だね。縒りをかけていない糸は、アツシを織る場合にひっかかって困るし、長持ちもしない。縄も同じような発見だね。
話がそれたけど、アツシの模様は、木綿糸と色布を使って刺繍するわけなんだけど、そういう材料がなかった時代にはどうしていたんだろう。たぶん鹿などの動物の皮と、鹿のアキレス腱なんかを使ったんだろうと思うね。衿や袖口や裾などを補強するために、刺繍するというより皮をはぎ合わせているうちに、鹿のアキレス腱をとっておいて、それを細かく裂いて糸にしたんじゃないかな。
北海道の馬文化
サラブレッドに骨太道産子
日高の馬牧場
苫小牧から国道235号で日高に向かっていく。
シシャモが名物の鵡川を過ぎると、日高に入る。日高は旧国名だ。
北海道は明治2年に10国(のちに11国)に国分けされ、86郡が置かれた。
日高はそのひとつ。沙流、新冠、静内、三石、浦河、様似、幌泉の7郡が置かれた。今の時代、「郡」は過去の遺物のようなものだが、かつてはきわめて重要な行政の区域だった。
ちなみに「北海道」もそのときに名づけられた。従来の「七道」にならったネーミングで、これによって「八道」になり、北海道、南海道、東海道、西海道の東西南北道が出そろったことになる。おもしろいことに、その中で今、エリア名で残っているのは北海道だけといってもいい。
日高町の富川で沙流川を渡るが、この川の流域にアイヌ文化のふるさとの二風谷がある。またこの川の流域には日高ならではの馬牧場が点在している。平取には馬主などの篤い信仰を集める義経神社がある。
「北海道の馬文化」は北海道遺産になっている。
日高を流れる沙流川
富川から国道235号、通称「サラブレッド街道」をさらに行くと、日本の競走馬の主産地、新冠に到着。国道沿いの道の駅はその名も「サラブレッドロード新冠」。そこにはあの伝説の名馬、ハイセイコーの銅像が建っている。「ハイセイコー号」(1970年~2000年)は日本中を競馬ブームに巻き込んだ立役者。生産者は新冠の武田牧場だ。
ハイセイコー像
ハイセイコーの銅像の台座には、
誰のために走るのか
何を求めて走るのか
恋に別れがあるように
この日が来るのが恐かった…
で始まる「さらばハイセイコー」の歌詞が刻み込まれている。
新冠からは静内、三石と通り、浦河に向かったが、日高のあちこちで馬牧場を見た。それはまさに日高ならではの風景だ。
ところで北海道遺産「北海道の馬文化」には(ばん馬、日高のサラブレッドなど)と、括弧書きされている。「ばん馬」は馬車や橇(そり)を引かせる馬のこと。北海道で「ばん馬」といえば、サラブレッドとは対照的な骨太の馬、道産子のことだ。
今から30余年前の我が「30代編日本一周」ではその「ばん馬」を走らせる競馬を北見競馬場で見た。ものすごい迫力に大感動。ガッチリした体格のばん馬に重い橇を引かせて競争するというもの。騎手は橇の上に乗り、鞭を振るう。登り下りのある200メートルほどの距離を走るのだ。
北見競馬場の場内は各馬がいっせいにスタートすると、ものすごい熱気に包まれた。コースの途中には2つの丘があるのだが、登り坂で止まってしまう馬が続出する。騎手は鞭を振りまくる。観衆も大声援を送る。それは北海道の開拓時代を彷彿とさせるものだった。
当時(1978年)は北見のほか、旭川と岩見沢、帯広で開催されていた。
今は帯広のみとのことだが、残念ながら今回、帯広競馬場での「ばんえい競馬」は見損なってしまった。
「北海道の馬文化」でひとつ不思議だったのは、「北海道一周」でほとんど馬肉を食べなかったこと。正確にいえば、馬肉料理を食べられなかった。北海道には馬肉を食べるという習慣がないようだ。
九州・熊本の名物料理は「馬刺」。なぜ熊本で馬肉が食べられるようになったかというと、熊本はかつては軍都で、戦前までは陸軍の第6師団があった。そのため軍馬の需要がきわめて高かったのがその理由だという。
それ式でいうと、同じく北海道の軍都、陸軍の第7師団が置かれた旭川も馬刺や桜鍋が名物料理になり、馬肉料理が定着してもよさそうなものだが…。
北海道では、とくに開拓時代、馬は家族同様だった。そんな馬を食べられるわけがないといった話を聞いたこともある。しかし、それは「馬刺」の本場、信州の伊那谷でも同じこと。馬は家族の一員だった。なぜ、北海道では馬肉料理が発達しなかったのか…(ねー、カブタン、教えてくださいよー)。
熊本の馬肉も、信州の馬肉も、東北の馬肉も、今ではその大半が北海道産の馬肉だ。
「北海道一周」で唯一、馬肉料理を食べたのは歌志内。そこでは町中の食堂で「なんこ定食」を食べた。「なんこ」とは馬のホルモンのこと。信州・伊那谷の「おたぐり」を思い出させる「なんこ」だった。
最後になってしまったが、沙流川流域の平取にある義経神社は別名「競馬の神様」。
ここには競馬関係者や競走馬生産の牧場関係者が多数、参拝している。「必勝祈願」や「愛馬開運」の幟も立っている。じつにおもしろいではないか。「義経北行伝説」の義経神社が「競馬の神様」になっていることが。
「北海道の馬文化」の奥は深い。
道の駅「サラブレッドロード新冠」
日高の馬牧場
歌志内の「なんこ定食」
「なんこ定食」のなんこ
番外編 義経北行伝説
平泉から神威岬、そして樺太へ
日高・平取の義経神社
前回の「北海道の馬文化」では、日高・平取の義経神社は「競馬の神様」にもなっているといったが、毎年2月の初午の日、ここでおこなわれる「初午祭」の「矢刺の神事」には大勢の馬牧場の関係者や調教師、馬主など馬に携わるみなさんが参列する。
「矢刺の神事」は馬上からその年の凶方に向かって破魔矢を3本放ち、悪魔を降伏させる神事。その際に放たれた矢を拾うと幸運が訪れるということで、参拝者たちは我れ先にと争って矢を拾う。
義経神社の祭神は義経。これは義経が騎馬武者であり、馬を大事にしたという故事にちなんだ「愛馬息災」、「先勝祈願」の神事なのである。
義経神社の境内には「義経資料館」がある。
義経神社は寛政10年(1798年)、幕府の命を受けた蝦夷地探検家の近藤重蔵がこの地に「義経北行伝説」の残っていることを知り、翌寛政11年に江戸の仏師、橋善啓に義経像を彫らせ、この地のアイヌに祀らせたのがはじまりだという。
「義経北行伝説」はきわめて興味深い。伝説の地は平取のみならず、北海道の各地に点在している。
日高・平取の義経神社
弁慶岬の弁慶像
神威岬
神威岬の神威岩
以前バイク誌の取材で東北の「義経北行伝説」の地を追ったことがあるので、それを紹介しよう。
時代を超越して、日本人の心の琴線に響く義経。だが平家を倒し、源氏に大勝利をもたらした立役者も、兄頼朝の反感をかって都を追われてしまう。義経・弁慶の主従は命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目の秀衡の庇護を受けたのだ。
しかし天下を手中におさめた頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。
秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。文治5年(1189年)4月30日のことだった。
こうして奥州・平泉の地で最期をとげた悲劇の英雄、義経だが、なんとも不思議なことに、平泉以北の東北各地には、義経・弁慶の主従が北へ北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が、点々とつづき、残されている。
それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経・弁慶が泊まったという民家だったり、義経・弁慶が入った風呂だったり。その「義経北行」伝説の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を横断し、三陸海岸から八戸、青森へ、さらには津軽半島の三厩へとつづいている。三厩には義経寺がある。
「義経北行伝説」はさらに北へとつづく。
津軽海峡を越え、義経・弁慶の主従は対岸の白神から日高の平取へ。
平取には義経神社があり、今でも人々の篤い信仰を集めている。
伝説では平取町二風谷のアイヌ酋長の娘、チャレンカとは激しい恋に落ちたという。
積丹半島に近い日本海側の弁慶岬には、弁慶の銅像が建っている。高下駄をはいて、ナギナタを右手に持っている。岬の近くには「弁慶の土俵跡」が残されている。義経主従がこの地に滞在したとき、地元のアイヌと相撲をとった土俵跡なのだという。弁慶のはいた下駄をまつる弁慶堂もある。
義経を守り抜いた弁慶の体力と気力を神業と信じ、弁慶を守護神としてあがめる風習がこの地には強く残っている。弁慶岬の弁慶像はそのシンボルなのだ。
弁慶岬の北の雷電岬には、「刀掛岩」と呼ばれる大岩がある。それも義経主従がこの地で休憩したときに、弁慶の刀があまりにも大きくて置くことができず、それではと「エイッ」とばかりにひねってつくった岩の刀掛なのだという。「薪積岩」もある。弁慶が背負っていた薪をおろした所が岩に変ったのだという。
義経主従は積丹半島の神威岬から樺太へと船出した。そこからアムール川の河口に渡っていったという。二風谷のアイヌの酋長の娘チャレンカは、義経と出会ってからというもの、すっかり恋のとりこになり、義経にひと目会いたくって神威岬までやってきた。だが義経一行はすでに船出したあとで、嘆き悲しんだチャレンカは海に身を投げた。彼女の体は岬先端の海に浮かぶ神威岩に変ったという。
なんとも壮大で、ロマンに満ちあふれた「義経北行伝説」だが、これは根も葉もないつくり話とは違うと思う。でなければ、これだけキレイな線になって、その線上にこれだけの伝説の地が残るはずがない。
義経・弁慶が生きていたらよかったのに…という日本人の判官贔屓がそれに拍車をかけ、より大きな伝説になったのではないかとぼくはそう思っている。
ということで、カソリ&迫坪(カメラマン)のコンビは「義経北行伝説」を追って北へと旅立ち、「平泉→盛岡」間を走った。
午前5時、東京を出発。カソリはスズキDR250S、迫坪さんはカワサキKDX250Rを走らせ、東北道を北上。平泉前沢ICで高速を降り、10時30分、JR東北本線の平泉駅前に到着した。
まずは駅前食堂「芭蕉館」で名物のわんこそばを食べ、パワーをつけて「義経北行伝説」の第一歩、高館へと向かった。
義経最期の地の高館は、平泉駅からわずかな距離だ。石段を登り、高台に立つと、すばらしい風景が目の前に広がる。足もとを北上川が流れ、対岸の稲田の向こうには北上山地のゆるやかな山並みが連なっている。その一番手前の山が束稲山だ。
鎌倉幕府成立前の文治5年(1189年)、義経はこの館で自刃したことになっているが、「義経北行伝説」ではそうではない。自刃したのは義経の影武者、杉目太郎行信で、義経・弁慶の主従はその1年前に高館から北上川を渡り、束稲山を越え、長い長い北への旅に出たという。(略)
水沢から北上川を渡って江刺へ。そこではさんざん苦労して「弁慶屋敷」を探し当てた。平泉を脱出した義経主従は束稲山を越えたあと、ここに立ち寄り、粟5升を炊いてもらい、空腹を満たしたという。
古い家並みの残る江刺の中心街からは、人首というちょっと怖ろしげな地名の集落を通り、姥石峠を越える。ここも「義経北行伝説」の地で、義経主従は峠で野宿したという。つづいて同じく「義経北行伝説」の赤羽根峠を越えて遠野盆地に下っていく。峠下の上郷一帯がやはり「義経北行伝説」の地。今でも残る「風呂家」は義経主従が入浴させてもらった家なのだという。ここでは風呂家のきれいな奥さまと記念撮影。また、JR釜石線の線路わきにある駒形神社は、赤羽根峠越えで死んだ義経の愛馬「小黒号」をまつっているという。(略)
遠野では「続石」を見た。2つ並んだ石の上に幅7メートル、奥行5メートル、厚さ2メートルという巨石ののったドルメン。それを地元の人は続石と呼んでいる。「これだけの巨石の記念物をつくれるのは、怪力の弁慶をおいてほかにいない」ということで、ここも昔からの「義経北行伝説」の地になっている。
遠野からは立丸峠を越えて川井村へ。ここも「義経北行伝説」の地。義経主従がしばらく滞在したという判官神社に参拝。祭神は義経だ。さらにその近くの鈴ヶ神社へ。ここは義経の妻、静御前をまつっている。この地に静御前の屋敷があったという。
ここを最後に盛岡に向かったが、「義経北行伝説」の地はさらに北へ、北へ、三厩へとつづいている。(略)
ということで「義経北行伝説」は奥州の平泉から蝦夷の神威岬までつづいている。
東北に残る義経縁の地
平泉駅前
平泉の高館義経堂
高館義経堂からの眺め
平泉の中尊寺
中尊寺の弁慶堂
弁慶堂の義経と弁慶の像
奥州街道の終点、三厩の義経寺
義経寺から見下ろす三厩港
三厩の義経渡道之地碑
静内二十間道路の桜並木
春に桜、秋にコスモス
10月15日の静内二十間道路の桜並木
国道235号で日高の海岸線を行く。
新ひだか町に入ったところで、JR日高本線の静内駅前でスズキDR-Z400Sを停め、自販機でカンコーヒーを飲み小休止。ひと息入れたところで、北海道遺産になっている「静内二十間道路の桜並木」へ。
広々とした馬牧場を見ながら道道71号を走り、左折し、桜並木の二十間道路に入っていく。エゾヤマザクラなどの桜が3000本、植えられている。桜並木の幅が20間なので、「二十間道路」と呼ばれるようになった。1間は1.818メートルなので、20間というと36.36メートル。約36メートル幅の桜並木だ。
そんな幅広の道が約8キロ、つづく。
そのうち7キロが直線路。
かつてこの地にあった宮内省の御料牧場を視察する皇族たちのためにつくられた道だという。あまりの広さに地元の人たちもきっとびっくりしたことだろう。
大正5年(1916年)から3年をかけて道の両側には約3000本の桜が植えられた。この日本一の桜並木の桜を見ようと、毎年、日本全国から20万人もの花見客がやってくる。ちなみに今年は5月4日に開花し、5月6日には満開宣言が出された。
5月上旬の花の季節には「しずない桜まつり」が開催され、期間中には明治42年に建てられた皇族らの貴賓館「龍雲閣」が公開される。
この二十間道路の桜並木は秋には秋桜の「コスモスロード」に変身。2万3000本の秋桜を見ようとやはり大勢の人たちが訪れる。
ぼくが静内に到着したのは、桜の季節にはほど遠い10月15日。桜はもちろん見られなかったが、秋桜の方も、ほとんど終っていた。
ところでスズキDR-Z400Sを走らせての「北海道遺産めぐり」は我が「60代編日本一周」の一環だ。
この「60代編日本一周」は昨年(2008年)10月1日にスタートさせた。まずは3ヵ月をかけ、125ccスクーターのスズキ・アドレスV125Gを走らせ、約2万キロの「日本一周」を成しとげた。それが第1部になる。
今年の4月1日には第2部を開始。そのパート1では「四国八十八ヵ所めぐり」をした。パート2では「西国三十三ヵ所」、「坂東三十三ヵ所」、「秩父三十四所」の「日本百観音霊場めぐり」をした。パート3では「東京→大垣」の「奥の細道めぐり」をした。そしてパート4が「北海道遺産めぐり」ということになる。
ところで「四国八十八ヵ所めぐり」では東京・日本橋を出発し、京都・三条大橋まで東海道を走った。京都からは大阪、高野山をめぐり、和歌山から徳島にフェリーで渡り、「四国八十八ヵ所」をめぐった。
このときの「東京→京都」の東海道がよかった。
北上する桜前線に向かって走っていったのだが、関東では2、3分から5分咲ぐらいだった桜が箱根峠を越えて静岡に入ると7分咲から8分咲になり、愛知に入ると満開になった。途中、伊勢神宮にも寄ったが、岡崎から京都までは満開の桜を見ることができた。
東海道の「桜前線」の写真を見てもらおう。
桜前線とともに走る

保土ヶ谷宿・境木地蔵の桜(4月1日2分咲)

藤沢宿・遊行寺の桜(4月1日3分咲)

小田原宿・小田原城の桜(4月1日5分咲)

三島宿・三島大社の桜(4月2日7分咲)

沼津宿の桜(4月2日7分咲)

府中宿・駿府城の桜(4月2日7分咲)

路小夜の中山の桜(4月2日7分咲)

浜松宿・浜松城の桜(4月2日8分咲)

吉田宿・豊橋公園の桜(4月3日満開)

岡崎宿・岡崎城の桜(4月3日満開)

阿野の一里塚の桜(4月3日満開)

宮宿・名古屋城の桜(4月4日満開)

桑名宿・桑名城の桜(4月4日満開)

四日市宿・日永の追分の桜(4月4日満開)

伊勢神宮の桜(4月5日満)

亀山宿・亀山城の桜(4月5日満開)

水口宿の桜(4月5日満開)

京都の桜(4月6日満開)
「桜前線」は3月中旬ごろ九州南部をスタート。四国、関西、中部、関東、東北と北上し、4月下旬ごろには北海道に上陸する。函館公園や五稜郭公園、松前公園を皮切りに、5月上旬の札幌・円山公園、登別桜並木、静内二十間道路の桜並木、5月中旬の旭川・旭山公園、帯広・緑ヶ丘公園、5月下旬の塩狩峠一目千本桜、釧路・別保公園、厚岸・子野日公園。そして6月上旬の根室・北隆寺の桜へと北上していく。北隆寺の桜は「日本一遅い桜」で知られている。
この「桜前線」を追って日本列島を北上するのは、きわめて面白い旅の仕方だ。
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